• 20250113-133232
  • 20250113-134354
  • 20250113-134844
  • 20250113-135719
  • 20250114-062849
  • 20250112-044948
  • 20250112-050804
  • Dsc_1204
  • Dsc_1204_2
  • Dsc_1206_2

« 山路敬介氏寄稿 下地幹郎議員の彷徨 | トップページ | 山路敬介氏寄稿 菅新時代に期待する日本と沖縄の「普通の関係」 »

2020年10月30日 (金)

山路敬介氏寄稿 下地幹郎議員の彷徨その2

187046_20201030050801   

                                             下地幹郎議員の彷徨 その2
                                                                                 山路敬介

承前

ある経済界の重鎮は「(これからの沖縄を考えた場合)、しもちゃん、すがちゃんと呼び合うような関係性を活かすべき」といいます。沖縄タイムスの報道では、複数の関係者の話として「近日中に「復党願い」を提出する予定」としています。

そうした報道を受けて沖縄自民党は、さっそく激しい拒否反応を示しました。「しもちゃん、すがちゃんの仲」は下地議員自身も言っていた事です。
しかし、維新を除名になった下地議員を菅総裁が自民党に拾うハズがありません。
あり得ると知れば二階幹事長経由でしょうが、地元の一区支部をはじめ沖縄県連は真っ向から大反対です。県連は先手を打って、自民党本部に対しても反対の主旨報告をしています。

それを受けて下地氏はツイッターなどで「(復党願い提出は)事実無根」と訴えていますが、下地氏の周りがかねてそうした働きかけをしているのは事実です。「維新の比例復活」というバッファーを失った現在、このまま衆院選に突入しても当選の可能性は皆無だからです。

県連が大反対する理由は明快です。かつては自民党に籍がありながら他党候補を公然と応援するなど、目にあまる反党行為があったからであり、中国企業からの不正な金銭授受を受けた事に対する禊ぎが済まないうちに復党させる事などあり得ません。
選挙による「禊ぎ」を自民党に復党してかなえようとする魂胆は通用しません。

20200107100939

当選したての翁長前知事にすり寄りをみせ、国民新党ではクーデターまがいの騒ぎも起こしました。良し悪しはともかくとして、下地氏の政治的思惑は一つとして成功した試しがありません。
せめて一貫した理念を感じさせる行動ならばいいですが、「なぜそうするか?」が見えないケースが多すぎました。彼の中の「保守」は常に混乱しているのです。

辺野古移設に関して、当初は頑強な嘉手納統合案論者でした。汚職でクビになった守屋元次官とも親しく、国民新党時代はシュワブ陸上案に変わりました。翁長氏が知事に当選すると、今度は「辺野古への移設は事実上不可能」と言い始めました。
維新に入党する頃には「辺野古容認派」にすっかり様変わりしています。意見の変更を咎めるつもりはありませんが、彼の置かれたポジションと風向きで主張を変えるクセは如何ともし難いものです。

下地幹郎氏はかつて、若くして小渕内閣当時の沖縄開発政務次官でした。國場氏はもともと公明党の定位置だった議席を受け継いだ事から、最後まで辺野古移設に反対していた議員です。
宏池会にあって、分けてリベラル的でもあります。小渕恵三氏元首相時代や宏池会隆盛の頃はそれでよかった政策でも、激変する現在の日本を取り巻く安全保障環境には対応できません。その最前線が沖縄です。

沖縄自民党からは、そうした時代の変化に対応できない翁長派の離脱があり、それが返って有効なデトックス効果(※)となりました。未だ県議会多数を取れてはいませんが、あと二議席かそこらの差にまで詰め寄っています。
また、かねひでの呉屋守將氏など「オール沖縄」から経済人が離れつつあります。いまさら下地氏を再入党させる意味はありません。
※毒素を排出する効果

「下地幹郎=菅総理ライン」などは、同期当選者のよしみに過ぎません。
菅総理にとっての沖縄は仲井眞弘多県連最高顧問(元知事)こそが心から尊敬する対象であって、そこに繋がるチーム沖縄(保守市長会)は打ち続くきびしい選挙を共にした「同志」です。石垣市の念願である尖閣調査を俎上にあげたのも、こうした背景に依ります。

下地幹郎氏は「自分の政治の師は(故)山中貞則氏だ」と言います。いうまでもなく、あの時代の沖縄と本土との山中的関係性は古びて使い物になりませんが、下地氏が自分の「師」と言うならば、本当には徳田虎雄氏の方ではないかと思います。
政治家になり立ての若い頃の下地氏は、その立ち居振る舞いまでが徳田虎雄氏を意識したものだったと記憶します。徳田氏の政治家人生は終わりまで波乱万丈なものでしたが、良くも悪くも立志伝中の人です。
対して少年時代の下地氏を思い出す場合、政治家になってからのスタイルとは180度違います。今の下地氏を形成した原体験はどこにあるのか、そういう事も不思議に思います。


                                                                                                                    次回終了

« 山路敬介氏寄稿 下地幹郎議員の彷徨 | トップページ | 山路敬介氏寄稿 菅新時代に期待する日本と沖縄の「普通の関係」 »

コメント

沖縄だから何かと目につくだけで、特に意識して見ていないと「あれっ?この人前は他の政党で全く別のこと言ってなかったっけ?」な人ですね。。
こうして改めて書き出していただくと、なんだこの信条の無い蝙蝠オッサン!と。

まさか師匠は山中式戦車(古いなあ)の人かよ。。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 山路敬介氏寄稿 下地幹郎議員の彷徨 | トップページ | 山路敬介氏寄稿 菅新時代に期待する日本と沖縄の「普通の関係」 »