• 015
  • 2020112504
  • Download
  • Jzklxpkrqoch1cga_20201203053001
  • Ilrz8ymu0qlrzddd
  • Img_5031
  • 041
  • 002
  • 183_005
  • Img_0

« わが国は2代続けて大変な外交手腕を持つ首相を得たようだ | トップページ | 米大統領選、もつれ込んでグチャグチャに »

2020年10月23日 (金)

学術会議を党派集団の利権の巣窟にした憲法学者集団

172

まだ世間は学術会議問題を騒いでいるようです。
朝日の記者なんぞ、首相の外遊先で日本人記者に与えられた2枠を使って聞いたことが、「学術会議がぁ」でした。
ここまで来ると、あんたビョーキです。
ところでワイドショーだけ見ているとまるで「科学者vs政府」との対立のように見えますが、はたしてそうなのかどうか。
今回任命を見送られた6名はことごとく人文系です。
そしてそのうち半分が法学系です。

はて、ここで素朴な疑問です。法学者って「科学者」だったの?
私は人文系が「科学」と自称することにかねがね疑問を持ってきました。
だって人文系学者など、しょせん文献をあーでもないこーでもないとコネ繰り回す律法学者にすぎないからです。

たとえば歴史に科学的法則性など存在するでしょうか。しません。
あると言ったのは、歴史的を、えー願いましては奴隷制から始まって封建制度があって、絶対王朝があって、ブルジョワ資本主義があって、そしてその先には人類のパラダイスの社会主義と共産主義が待ってるぜ、と言ったマルクス御大くらいなもんです。

もちろん彼はヨーロッパの歴史を切り取ってそう言っただけで、実際の世界はまったく異なっていました。
というか、マルクス御大はアジア・アフリカなんか知らなかっただけなのですがね。
世界で最初の共産主義国家は、資本主義の延長にはなく、資本主義と民主主義が最も遅れたロシアでのみ成功しただけで、その後には中国という箸にも棒にもかからない発展途上国で起きたにすぎません。
完全にマルクス主義の歴史の発展段階説は誤りだったのであり、歴史には科学法則などなかったのです。

人類の歴史は、滔々と共産主義に流れ込む大河の如しではなく、ある国ではまるでアフリカの乾いたワジのように内陸で止まってしまったり、果ては逆に遡ってみせたり、いくつもの河が合流してみたりと、てんでんばらばらの地域研究をするしかありません。
そんな歴史に科学的法則性があるといっているのは、共産党くらいなものです。

法学もそうで、あのどこが「科学」なのでしょうか。ただ判例解釈をしているか、それに基づいて事件を切り取っている解釈学にすきません。
憲法学に至っては、いまや「学問」と名付けるのがおこがましいほど党派的プロパガンダとなっています。
政治学も、経済学にあるような一定の法則性はかけらもなく、ただの情勢の分析にすぎません。
文学に至っては、主観と感性の産物です。
かろうじて「科学」と呼んでいいのは、人文系で最も自然科学に近い経済学だけです。
だから意味がないということではなく、「科学」なんて言うなよ、というだけのことですから念のため。

さて科学は常に反証可能でなくてはなりません。
オレはこう思う、こう結論を出した、だけでは不十分で、万人が同じ実験をしてまったく同一の結論が得られなければ、その仮説は間違いだということになります。
他人が同じ実験をして、その理論ですべて説明できないことが起きれば、たとえそれがたった一回でもそれでその理論はアウトか、さもなくばもっと別の理論が存在する証となります。

理研の小保方晴子氏の実験が否定されたのは、再現性がなかったからです。
他の科学者が同じ手順で実験をして、同一の結果をえられないような仮説は誤りと見なされます。
先ほどの「科学的社会主義理論」などに至っては、再現性がないどころか、元祖のロシアですら失敗に終わったのですから、「科学」の名を騙った人類史上最大の詐欺です。

科学史上有名な事例では、ニュートンの万有引力の法則によって月や惑星の軌道を説明することが可能でした。
ところが、この万古不変の絶対法則であると感じられていたニュートンの物理学法則は、更に天文学が進化して太陽に最も近い惑星である水星の軌道のわずかな「揺らぎ」を説明することができず、アイシュタインの相対性理論に座を譲ることになりました。

ですから、科学という分野はこれほどまでに再現性の可否を問う研ぎ澄まされたものであって、「オレはそう思う」などいう人文系の主観など入り込む余地などまったくないのです。

ところが科学者とは言い難い人文系学者が、篠田英朗氏によれば、学術会議の3分の1も占めているそうです。

「日本学術会議は、文系学者が会員の3分の1を占めているだけでも不思議なのだが、そのうちの2割以上が法学者にあてられてきたことも不思議である」
(白日の下にさらされた党派的運動集団「憲法学者」 篠田英朗)
http://agora-web.jp/archives/2048611.html

ところが、日本学術会議は自らを科学者と呼んで憚りません。
そのHPではこう高らかに謳っています。
http://www.scj.go.jp/ja/scj/index.html

日本学術会議とは
日本学術会議は、科学が文化国家の基礎であるという確信の下、行政、産業及び国民生活に科学を反映、浸透させることを目的として、昭和24年(1949年)1月、内閣総理大臣の所轄の下、政府から独立して職務を行う「特別の機関」として設立されました。職務は、以下の2つです。
科学に関する重要事項を審議し、その実現を図ること。
科学に関する研究の連絡を図り、その能率を向上させること

おいおいです。学術会議をせめて「学者団体」ていどと言うなら理解できますが、人文系丸ごと「科学者」と規定するのは自己欺瞞そのものではありませんか。
自然科学系の研究者の皆さんは、人文系学者を心底から「科学者」だと思っているのでしょうか。
しかも篠田氏によれば、どう見ても多すぎる法学者のうち3分の1は共産党系学者だからアイヤーです。

「さらにその法学者のうちの少なくとも3分の1程度が共産党系の民主主義科学者協会法律部会の元理事などで占められてきたのは非常に不思議である 」(篠田前掲)

つまり「科学者」を自称する学術会議の3分の1は人文系の非自然科学系であり、さらにそのうち2割が法学で、その3分の1が共産党系、しかもうち共産党系の民主主義科学者協会の元理事などによって占められていたということになります。

学術会議は今回のリジェクト6にも憲法学者がいるように、憲法学者の割合が異常に大きいのが特徴です。
その理由は、憲法学者集団こそが学術会議に最も食い込んで利権の根を張ってきたグループだからです。

「従来から共産党に近い学者が多いとされる「憲法学者」集団は、日本学術会議の既得権益に深く入り込んだ集団である。
ひょっとしたら、ここはあえて黙っておこうという配慮が働くのかと思えば、全く逆になっていることに茫然とする。
憲法学者」は、極めて統制の取れた運動家ロボット集団のように「学問の自由を守れ」といったことを叫び、何か人類史に残る弾圧でも起こったかのような仰々しい言葉を並べて自らの不幸を嘆き続けている」(篠田前掲)

8_20201023062101

毎日

彼ら党派集団になり下がった憲法学者なるグループはただの政治運動家の集団でしかなく、彼らが叫ぶ「学問の自由」なるものもまた、共産党の街頭演説のようなものにすきないのです。
そしてこの学術会議が大きな支配力を持つのが、科研費なのです。

人文系で大学に職を得るには、共産党に近くなければだめだと言われた時代がありましたが、いまもその利権構造は健在であり、それが日本の人文系学界を大きく歪める根源となっています。
その共産党系学者の利権になくてはならないのが、学術会議という「装置」だったようです。

今回自民党は、学術会議改革として各国のアカデミアのような民営化を打ち出していますが、それだけに止まらず「社会科学者」を分離した自然科学者だけで構成する「日本科学アカデミー」を作られたらいかがでしょうか。

 

 

« わが国は2代続けて大変な外交手腕を持つ首相を得たようだ | トップページ | 米大統領選、もつれ込んでグチャグチャに »

コメント

小学校の図書室の分類で「自然科学」と「社会科学」というのがガキの頃から疑問でした。社会科学とは何ぞや?と。
今思うとリーマンショックで顕になった金融工学とかいうのがその分かりやすい例ですかね?
学生時代にはマルクス経済論を習いましたが、資本主義はすでに爛熟期で、取って代わるのが共産主義だとか。。当時はバブル絶頂期で、間もなくベルリンの壁が壊されて後にソ連崩壊になって「あれあれ〜?」と。
確かに経済がプラスに成長していないと機能しないという資本主義には疑問を持ちましたけど、だからって代わりが共産主義?あんな集団農場では怠け者だけ特をする全体主義なんてありえないだろう!と。
そんな10代でした。

まあ日本経済絶好調で、大前研一のような極端なグローバリストがまだ若くてメディアでブイブイ言わせてた頃でしたけどね。

 去る10/16に菅首相と梶田会長の面談がありましたが、それでこの騒動の実質は終わりました。首相と梶田会長は進むべき学術会議の方向性を確認し合い、一致しています。会談で梶田氏は任命問題をおくびにも出さず、会議のHPなどで見ても既に6名抜きで名簿が公表されています。
あとは踊り足りない人向けの追加の「振り付け」があるだけで、6名の任用はもちろん、不用意な理由の開示もあり得ません。

ただ、下村氏や自民党は政府に科研費の決定過程など明らかにすべく、重く注文をつけるべきです。

 ある「法則」に気づき、「仮説」を立てて「実験・検証」した結果、仮説の「再現性」を確認してゆく一連の手順が「科学」や「技術」の基本。従って、『かろうじて「科学」と呼んでいいのは、人文系で最も自然科学に近い経済学だけです。』は、そのとうりと思う。
 「理研の小保方晴子氏の実験が否定されたのは、再現性がなかったからです。」⇒記者会見で「STAP細胞は100回成功した」と彼女は言明したが、後の理研での「監視付きの再現実験」では一度も成功しなかった。「オレはそう思う」などいう人文系の主観など入り込む余地などまったくないのです。」は、「再現性」を考えれば当然といえる。
 『社会科学者」を分離した自然科学者だけで構成する「日本科学アカデミー」を作られたらいかがでしょうか。』⇒将来ノーベル賞受賞者が減ると危惧されている日本の科学技術の政策はこれしかないと思う。
 加えるに、学術会議を牛耳っている左翼の文系学者が、基礎核物理の「核」の字に敏感に反応してリニアコライダー建設に大反対したと記憶する。また、病院で体の診断に今や必須の「核磁気共鳴装置」も今は「MRI」と言い、患者が怖がるから「核」の字を省くようになった。訳も判らず「核」の字を敏感にしたのは日本のバカ左翼だ。

おっしゃる様に、客観的事実に基づいて検証し証明していくのが科学の基本と思います。
しかし文系学問の場合は、概念が支配するものだとするならばこれが難しい。だから「学術会議」「国家公務員」といった、権威の裏付けが喉から手が出る程欲しくなるのかも知れませんね。

月曜のBSプライムニュースに元会長の大西氏と除外された一人である岡田氏が出演されていましたが。
大西氏は回りくどい口調で偽装はしていたものの「学術会議の判断には間違いは絶対にないから推薦をはじくのは常識的にありえないこと」というスタンスは崩さず、法学者であるはずの岡田氏は感情的な口調で「首相にその権利はない!」とわかりやすく頭のおかしい所をアピールしていました。
結局はなにを持ってして学術会議はすべて正しいのかという根拠は示せず、性善説でもって学術会議を認めろといわれても「ハイわかりました」とはなりませんよね。
彼らの否定する政府と同じような事を言っている訳ですから。
しかもこれは形式上政府機関なわけですからこの場合雇用側である政府側の言い分の方が有効であるというのは常識です。
梶田氏の面談は明らかに停戦目的のもので学術会議が政府から切り離されないためにはどうすればいいのかというご相談をしに行ったものと推測されます。
彼らからすれば総理が変われば風向きも変わる今はおとなしくしておこうと判断したのでしょう(今更ですが)
一度完全に牙をむいた代償は小さくないと思いますが、菅総理はこれをどう決着させるのか見物ではあります。

工学博士であり小説家である森博嗣氏の著作「科学的とはどういう意味か」(2011年6月30日第一刷発行/幻冬社新書)には、さあ執筆に取り掛かるという時に東日本大震災が起き、「涙と人情」と「防災」を別問題として扱うこと、「科学」よりも「言葉」だけですべてを処理してしまう傾向の危険性を再認識しながら書いたものだと、まえがきにあります。
著者は工学部建築学科で材料力学や流体力学を専門としたが、力学や材料学は建築学会などでは理系と認識される一方、工学部の中では建築は文系だと思われる、さらに理学部から見れば工学部は科学的ではなく、実学的対処法に傾倒していると捉えられている、「文系理系」は相対的な、多くは主観的な観測による印象でしかない(p9)、と書かれているところに、大いに同意しました。
人はかくも簡単に「言葉」に支配されやすいものであるとの示唆通り、「数字をまず知り、評価することが大事。数字ほど、具体的なものはない」(p45)、「身近な単位である数字で示してもらえば簡単にイメージできるはず」が、どれくらい凄かったのか、という「人々の印象」が「正しい情報」だと考えているようにさえ思える(p55)と、森氏は報道や人々の情報の欲し方に疑問を持ち、「科学はより厳密なものを常に求めている。そうなる理由は、厳密であるほど、他者への伝達が容易であり、大勢で共有ができるからだ」(p96)、「科学というのは、方法である。そして、その方法とは、他者によって再現できることを条件として、組み上げていくシステムのことだ。他者に再現してもらうためには、数を用いた精確なコミュニケーションが重要となる。また、再現の一つの方法として実験がある。ただ、数や実験があるから科学というわけではない」(p107)。
その上で著者は、「ちょっとした質問に対しても、まあだいたいそうですねと割り切って答えることができないのが、科学者である。それは、少しでも例外が認められるなら、僅かでも違う可能性が考えられるならば、肯定することはできないという姿勢」として、「科学は常に安全を求める」、「印象や直感をできるだけ排除し、可能な限り客観的に現実を捉えようとする、そうすることで、人間、人生、あるいは社会に利益がもたらされる、と考えるからだ」(p113)と述べています。
そして、科学的であるにはどうすれば良いのかについて著者は、「科学は見切りのジャンプを原則として許さない」、(厳密であるために)「あらゆるものを疑い、常に本当にそうなのか?と自問する」(p116)、「しかし疑ってばかりではできるものもできなくなってしまうので割り切りが必要だが、自分がそれを割り切っている、決めつけている、と意識している」と、「流しておこう」と思うものと「吟味したい」と感じるものが現れる(p117)、と具体的な態度・方法論を提示します。
そして再び、「概念に名前をつけ、言葉によって理解したつもりになる傾向」を持つ人たちは、「支配しやすい民衆といえる」、それは「善へ効果的に導くことも支配のうち」だから「良い悪いの議論ではない」、と言葉による支配への留意を喚起し、「科学によって得られるものは人間の自由である」、「行動の自由、思考の自由、発想の自由、それらを支えるものが科学といっても良い」(p130)と述べます。

一例として森博嗣氏の著作から引用しましたが、比較参照してみるに、この度の件で自称科学者です、の人たちのあり様を言葉で表すなら、「現象を主観で表した言葉を一切の疑問の余地なく唯一の正解とし、それを以って人や社会を支配しようとしている」が妥当だろうと考えます。
平たく言えば、「科学者だっていう割には自分の感想しか言ってなくて、それも自由なんだけど社会の役には割と立たってない」ってことで、一言で言えば、「自己満足欲しがり」。あ、個人の割り切った感想でーすψ(`∇´)ψ

学術会議、1985年までは科研費の拡充を提言していたのですが、その後はどうしたのでしょうか。http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/division-10.html (日本学術会議HP 最終閲覧日  2020年10月23日)

必死で応募書類を推敲している身としては、羨望とも違う感情が湧いてきます。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« わが国は2代続けて大変な外交手腕を持つ首相を得たようだ | トップページ | 米大統領選、もつれ込んでグチャグチャに »