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2021年10月19日 (火)

カブール陥落の内幕

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 先日、映画『アウトポスト』を見ました。クリント・イーストウッドの息子であるスコット・イーストウッドが作ったものですが、なんともやり切れない。
どうしてあんなに守ることが不可能に等しい地点を守備せねばならなかったのか、タリバンは山頂から米軍のアウトポスト内部を事細かく観察できてしまって弱点を知り尽くしているわけです。
使命はパキスタンから浸透してくるタリバンを阻止することでしたが、とうに周辺の部族にはタリバンが染み渡っていて、米軍が宥和政策としてやっている開発計画のカネ欲しさに話し合いに応じているふりをしているだけのこと。
アフガン政府軍はかなりの数が配置されていますが、戦意ゼロ。

ひとりふたりと指揮官の大尉をテロで殺され、そして始まったのがタリバンの人海戦術でした。
持ちこたえたのが奇跡でしたが、米軍側にも多数の損害が出ました。
ちょうど日本ではカブール陥落の前に公開されて、この20年の長きに渡った戦争の内幕を米軍から見たような映画になってしまいました。

さて、アフガン陥落の内幕が伝わってきています。
朝日(9月23日)が、カタールのドーハで、タリバンの報道担当幹部スハイル・シャヒーン報道担当幹部と単独取材したものです。
https://www.asahi.com/articles/ASP9R4TP2P9NUHBI01D.html

今、ドーハは米国とタリバンの接触場所になっており、交渉ごとはここで行われます。
このインタビューのなかで、タリバンはカブールに迫った際に、米軍と事前に直ちに入城しないことを合意していたと明らかにしています。

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2020年2月29日、アフガニスタンの駐留米軍撤退に向けた合意に署名し、握手する米国のカリルザード和平担当特使(左)と、タリバーン政治部門トップのバラダル幹部=中東カタールの首都ドーハ、乗京真知撮影 朝日

シャヒーンタリバン報道官は、タリバンはカブールを制圧する前日の8月14日に、このドーハ市内のホテルで政治部門トップ、バラダル幹部(現在は第1副首相)が、米国のカリルザード和平担当特使らと協議しており、その際に米国側は「8月末まで」としていた米軍の撤退完了や米国関係者の退避も伝え、当面の間、カブールの市外で待機するよう要請し、タリバン側もこれに同意していたそうです。

この米国とタリバンの交渉は、特に秘密交渉というわけではなく、今年の始め頃から既に何回も重ねられています。

「米軍と反政府勢力タリバーンの戦闘が続くアフガニスタンをめぐり、在アフガニスタン米大使館は28日、「(米国とタリバーンは)主要議題について大筋合意することを決めた」との声明を出した。タリバーン幹部によると、合意は米軍撤退についてという。合意について米当局が公式に認めるのは初めて。
 声明は、タリバーンとの交渉にあたっている米国のカリルザード和平担当特使の言葉を米大使館が発表したもの。中東カタールで開かれた和平協議について「大きな進展があった。紛争を終わらせる機会を得た」と成果を強調した」(2021年1月29日)

この9月の交渉においてタリバン側は、ガニ政権からの権力移行に際し、アフガン政府の急激な崩壊は望まないとし、政府職員などを職場にとどめて行政機能を継続させたいと伝えていました。
両者の間では「平和的な権力移行への解決策が見つかるまで、タリバンはカブールには入らない」という合意が取り付けられたといいます。

しかし、ご承知のように合意はわずか1日で実現せずに破られることになります。
シャヒーン広報幹部は、このように述べています。

「我々は権力の空白は作りたくなかった。だから平和的な権力移行のため、待つ意思があった。だが、ガニ政権が全てを放棄し、大臣たちも各省庁を放棄したことで状況が変わった」(朝日前掲)

ガニ大統領は、15日、カブールからあたふたと国外へ脱出してしまい、閣僚らも我先に省庁を離れ、政府は機能不全に陥りました。
ガニ政権の治安部隊も指示系統を失い、抗戦どころか治安維持の意欲も喪失し、国外逃亡を開始していました。
アフガン政府と35万の政府軍はわずか1日で崩壊したのです。

シャヒーン広報幹部はこの状況を見て、やむを得ず合意を破って入城したのだと言っています。

「権力の空白が生じたことで、山賊や盗っ人がカブールの市街地に入り、略奪や殺人さえも起き始めた」と主張。「我々は人々の財産や尊厳、生命を守るためにカブールに入らざるをえなくなった」(朝日前掲)

なお、カブール侵攻のタリバン軍主力は、最過激派のハッカニ派であり、タリバン中枢と意志統一ができていなかった可能性もあり、この報道官の説明すべてが正しいかどうかは不明です。

また陥落前後のアフガンと米国の状況をワシントンポスト(8月28日)も伝えています。
"Surprise, panic and fateful choices: The day America lost its longest war"
『驚き、パニック、運命的な選択:アメリカが最長の戦争に負けた日』
カブールの崩壊:アフガニスタンのタリバン買収につながった運命的な選択 - ワシントンポスト (washingtonpost.com)

このWPの記事を読むと、一定時期までアフガン軍はそれなりに存在し、タリバンと戦う意志を持っていたようです。
たとえばジャララバードはカブールを守る最後の要衝で、米国大使館員もこのルートでパキスタンに逃げています。
しかし結局、この最後の砦もまったく戦闘もせずに、州知事が降伏し、14日にタリバンに制圧されてしまいました。
タリバンはここを陥落した事によって、首都を落とすチェックメイトをかけたのです。

「前日、北部最大の都市マザール・エ・シャリフ(有名な反タリバンの拠点)の政府軍は、戦って降伏していた。同じことが、アフガニスタンの王室の伝統的な冬宮があるジャララバードで一晩で起こった。8月15日が始まった朝、カブールは突然島となり、アメリカが数兆ドルと数千人の命を犠牲にして支援した政府の最後の砦となっていた」(WP前掲)

ジャララバードの政府軍は充実した武器弾薬を持ち、戦意も旺盛だったようです。しかし、それを指揮官にはタリバンと戦う意志がありませんでした。

「誰もがタリバンと戦う準備ができていた」と、アフガニスタンの治安指揮官は語る。彼はその前夜までですべての治安部隊は準備ができていると考えていた。
しかし司令官は、街を守る主要な検問所の1つを補強する準備をしていた彼を訪れ、「とりあえずそんなことは放っておけ。そんなことは後からできる」と言った。しかし本当はカブールには時間がなかったのだ」 (WP前掲)

ジャララバードが戦わず陥落すると、カブール政府には大きな動揺が走りました。

「大統領宮殿の中にはのんびりし空気が支配的だった。15日正午頃、宮殿の係員の多くは昼食のために不在だった。
しかしその時、大統領最高顧問が大統領室に入って叫んだ、「タリバンが宮殿に入り、大統領を探している」と。
これは真実ではなかったが、大統領は逃亡準備を始めた。
大統領は自分の持ち物を集めるために家に帰ろうとしたが、顧問たちから時間がないと言われ、その日の午後早く、大統領は、プラスチック製のサンダルと薄いコートを着て、第1夫人と一握りの最高側近と共に、軍用ヘリコプターで宮殿の敷地から離陸してしまった」(WP前掲)

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車4台とヘリに現金詰め込む? 国外脱出のアフガン大統領:時事ドットコム

一方、米国政府ものんびりしたものでした。
米軍が8月末に撤収しても、最低で半年間はアフガン軍が持ちこたえるだろうという読みを情報機関が出していたからです。
そこでホワイトハウスは一斉にバケーションに入ってしまい、ワシントンは空になります。

「カブールが陥落する前の金曜日の午後、バイデンの最初の休暇を取る準備をしていた上級スタッフの多くが、ホワイトハウスを空にし始めていた。その日の早い段階で、バイデンは別荘のキャンプ・デイビッドに到着し、アンソニー・ブリンケン国務長官もすでにハンプトンズで休暇に入っていた」(WP前掲)

ことの重大さに最初に気がついたのは、つい先日まで米中央軍の司令官をしていたオースティン国防長官でした。
オースティンは国務省の尻を蹴飛ばすようにして、緊急事態を発します。
在アフガン大使館は大慌てで撤収の準備に入り、重要書類の焼却や機材の破壊が始まりました。
呼び戻されたブリンケンはガニと電話でコンタクトし、カブールで持ちこたえて、タリバンが街の外に止まるなら仲介案を 出そうと申し出ました。
仲介案はタリバンとガニが民族和解政府を作るという内容だったようですが、ガニは渋々受け入れたたものの、もはやすべてが手遅れでした。

首都はタリバン軍が無傷のままの軍勢でびっしりと包囲を完了しており、街の外でハッカニ司令官の命令を待っていました。
実は、タリバンは一気にカブール入城を果たす気がありませんでした。
彼らは、むしろあまりに速いガニ政権の崩壊に驚いており、信じられないような気持ちだったようです。
しかしカブール市内にはひとりの政府軍兵士も警察も残っておらず、大統領もトランクにドルを詰め込んで逃亡した後でした。
カブールは空き屋同然だったのです。

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「「政府は、すべての省庁を去った。われわれはさらなる混乱を防ぎ、公共財産とサービスを混乱から守るため向きに街に入らなければならない」と、ムハンマド・ナシル・ハッカニは語った。
このタリバンの司令官ハッカニは、その日の朝、彼の軍隊と街の門に赴き、彼が見つけたものに驚いた。
「我々は一人の兵士や警察も見なかった」と、彼は言った。
しかし、政府が崩壊したという連絡を得た後、ハッカニーと彼の部下は1時間以内に市の中心部を制圧し、午後一杯で大統領宮殿に到達していた。
「私たちは感情をコントロールすることができないほど幸せだった。私たちの戦闘員のほとんどは泣いていたと、彼は語った。
こんなに早くカブールに皆を連れて行けるとは思わなかった」 (WP前掲)

とまぁ、このような状況であったようです。
我が国が占領者を迎えた時、厚木から東京までの道路を守っていたのが帝国陸軍の兵士たちであり、陛下は臆することなく首都に止まり、ひとりで占領軍司令官と面会された故事を思い出してしまいました。


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コメント

 こうして内幕をおさらいして見ますと、何だかこれまでと違う感慨もわいて来ます。アフガン政府軍に戦意がなく、ガニ大統領の逃げ足など、たしかに政府側に決定的な問題がありました。これはまぁ、バイデンも指摘するとおりでしょう。

アメリカ側がたてた方針はカブール手前でひとまず抑え、政府軍とタリバン側の和解による新政府を樹立して、仲介役としての位置も合わせて確保する方針でした。
しかし、そういうのは米国流のリベラル設計主義にもとづいた失敗策ともいうべきで、人心がどう動くか熟慮しない欠陥が露呈した結果だったと思います。政府軍にタリバン勢力が浸透していた事実を過小評価していた事も痛かった。

ハッカニが到着したとき、カーブル市内はもぬけの殻だった。しかし官僚や公務員・警察官たちさえそこに留まっていなかったこと、これを一概に責められるものでもなかったと思います。
これはいわゆる「戦争」とは違い、国際法適用外の「内戦」なのであって、彼らの生命を米軍なしに担保する方法はありませんでした。

なお、米国側からすれば、「そこまで責任を考えなくてはいかんとは、これはもうリベラル政策のワクを越えおる!」とでも言いたくなるでしょう。
記事を読んで、そんな事をつらつら考えました。


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