旧統一教会狩りという宗教戦争
今の旧統一教会狩りをみていると、宗教戦争のように見えてきてしまいます。
宗教戦争は優勢な片方の宗派が、劣位の一方を「狩る」場合が多いのですが、今回も同様のようです。
カルトと名指しされた少数宗教と、無宗教を名乗る「宗派」との争いです。
その苛烈さは、旧統一教会の信教の自由を剥奪しろ、とまで叫ぶのですから、もはや「無宗教を自称する宗派」です。
彼らは、旧統一教会に接点を持ったすべてを探し出して叩き潰さないと気がすまないようです。
もはやその「狩り」方のほうこそ、病的カルト臭が漂うほどです。
塩野七生氏は、こうした宗教と宗教の争いについて、かつてこう述べたことがあります。
「『神は我らと共にある』と信じる者にしてみれば、敵であろうが何であろうが、相手とともにあるのは、悪魔しかいないことになるのだから、大義名分は立派に成立するわけである。
ただこの場合は、相手側とて、自分と共にあるのは神だと信じているわけたから、問題はややっこしくなる。
お互い神の後押しを受けていると信じているもの同士がぶつかるほど、禍を後に引く争いはない」
(塩野七生 『男の肖像』)
塩野氏に習えば、今のメディアと野党は政教分離こそが神だと考え、「神はわれらと共にある。統一教会は悪魔だ」と信じて叫んでいることになります。
ほんとうの宗教戦争を長期間体験したヨーロッパのキリスト教世界は、ドイツ30年戦争のように同民族内部での宗派(旧教・新教)の激烈な争いをしていて、その大殺戮と国土の荒廃にくたびれ果ててしまいました。
ドイツが宗教戦争の舞台になったのは、ここがマルティン・ルターというプロテスタント(新教)の始祖を生んだ国だったからです。
このおぞましいドイツ30年戦争は、1648年のウェストファリア条約によって、新教の自由を認めることでようやく終了しましたが、その間双方ともに自らの側に立つのは神であり、相手は悪魔だと信じていたことになります。
なんともグロテスクな話です。
そしてさらに一定の宗教が政治に容喙することを禁じたのが 、この条約から141年後の1789年フランス革命でした。
フランス革命の結果、フランス人が手にしたのは何だったのかといえば、近代世俗国家でした。
なぁ~んだ、と言わないで下さい。大変な犠牲の上に勝ち取ったものなんですから。
フランス革命の犠牲者数は約200万人。革命当時のフランスの人口が約2500万~2600万人といったところですから、実に1割を殺したことになります。
これに比べれば明治維新など無血革命といっていいくらいです。
大量処刑と虐殺が横行し、ヴァンデ、リヨンのように王党派に属したために、市民全員が街ごとすり潰されてしまった地域すらあります。
皮肉にもコンコルド(調和)と名付けられたパリの広場では、毎日多数の無辜の人々がギロチンにかかって処刑され、子供がその首をサッカーで遊んでいたという話さえ残っています。
フランス革命は「自由・平等・友愛」という標語を掲げましたが、この<自由>とは一般的な自由ではなく、明瞭に「宗教からの自由」を指します。
それは革命期においては、信教の自由を圧殺し、カソリックの僧侶というだけで処刑の対象になりました。
上の絵のキリスト像の上は、「旦那、お休み」と書き換えられて、首を吊られているのは、裁判官、大司教、修道士、修道女などです。
三色旗の上に「自由万才」とあり、聖母昇天教会は炎上中です。
ガス灯によじのぼってニカニカしてバイオリンを弾いているのが、サン・キュロット(平民)です。
今は観光地として名高いモン・サン・ミッシェル修道院は牢獄となり、ヨーロッパ最大だったクリュニー修道院は他の建造物の石材供給源となってしまいました。
フランス全土の多くの貴重な文化遺産が破壊され、その規模は中国の文革に並ぶといわれています。
下の写真は、「自由・平等・博愛」という革命スローガンに書き換えられたカソリック寺院の正面玄関です。
革命派は、キリスト教に代わって理性を神として崇めることを国民に強要しました。
1801年に、ナポレオンが革命の終了を宣して教皇との和解(コンコルダート)に至るまで宗教への徹底した迫害が続けられました。
宗教を公権力の場から排除するために、いかに巨大な犠牲が必要だったのかわかると、憂鬱になりますね。
このフランス革命の暗部があまりに大きかったために、フランス共和国は、今に至るも内乱の詳しい実態を公表せず、臭いものに蓋を決め込んでいます。
このフランス革命の内乱の内情については、藤本ひとみ氏の『聖戦ヴァンデ』をお読み下さい。
この「(宗教からの)自由」こそがフランス共和制の大前提であって、後に来るふたつの「平等・友愛」は、これを理解した者に対してのみ平等と友愛を保障します、という意味です。
「友愛」が好きな頭の軽い首相がいましたが、わかって使っているのでしょうか。
いまだにフランスに移民を希望する人間は、この<自由>を理解したことを宣誓してのみ帰化が認められます。
フランスの小学校ではイスラムのスカーフ(ヒジャブ)が禁じられましたが、同様にキリスト教のネックレスのようなロザリオも禁じられています。
これがフランス共和国が掲げる「ライシテ」(laïcité)と呼ばれる政教分離です。
こんな血なまぐさいことをしてまで政教分離したのは、このフランスくらいです。
ちなみにわが国は、フランス革命の実に218年前の1571年における比叡山の焼き討ちにおいて、徹底した政教分離が実行されています。
塩野氏は、この信長の「蛮行」によって、日本人に宗教に対する抗体が生まれたと評しています。
「織田信長が日本人に与えた最大の贈り物は、比叡山の焼き討ちや長島、越前の一向宗徒との対決や石山本願寺攻めに示されたような、狂信の徒の皆殺しである。このときをもって、日本人は宗教に免疫になったのである。いや、とにかく守備範囲の外まで口を出したがるたぐいの宗教には、免疫になったというべきかもしれない。(略)
信長によってもたらされたこの免疫性は、宗教人にとっても、良い結果をもたらしたと思う。日本では、宗教が政治に口をだすことのほうが、不自然になってしまったのだから」
(塩野前掲)
そのフランス共和国が掲げたのが、先日紹介した「カルト10の条件」です。
これはライシテの存在なくして考えられません。
この背景を知ろうとしないで、「カルト10条件」をそのまま日本に移植しようとする者もいるようですが、歴史的背景のまったく違うものを「宗教に対する免疫性」をもったわが国の風土に持ってくるほうが乱暴というものです。
いまやSNSでは「自民党と旧統一のズブズブの関係が明らかになってもまだ自民党支持を続けられる人は、カルト信者とほぼ同じに見える」というコメントもよく見られるようになってきました。
旧統一教会=悪魔=安倍=自民党=自民党支持者と、無制限に悪の概念を拡張しています。
こういった人にかかると、自民党支持者である国民の4割までが皆「悪魔」で、清く正しいのは3%の共産党くらなようです。
当人らはこれこそが正義だと気取っているのでしょうが、それこそ「我らの側に神あり、相手は悪魔だ」という宗教戦争の論理そのものなのです。
長崎県の黒田成彦・平戸市長は、このような旧統一教会「狩り」をこう感じていると述べています。
「長崎新聞から統一教会との関係を尋ねるアンケートが届いた。(関係は)ないと答えるがまるで江戸期のキリシタン弾圧の踏み絵のようだ。隠れキリシタンの末裔である私は遺伝子的にこのような踏み絵行為は気持ち悪い」
おそろしくまっとうな意見で、この黒田平戸市長の意見が危険に見えてしまう今の日本社会のほうが危険なのです。
メディアが煽動し、野党が相乗りして国民に踏み絵を迫っている風景を、気持ちが悪いと感じないほうが異常なのではありませんか。
ちなみにこれらの人々は、オリンピック反対、国葬反対の集団と完全に重なります。
共同通信が国会議員712人に旧統一教会への関与を聞いたところ、106人が関連団体へのイベント出席や選挙協力を受けていたことを認めたそうです。
馬鹿なアンケートをとるものです。「関与」をきちんと概念規定せずに旧統一教会との「接点」を質問すれば大勢の政治家が引っかかるか、隠蔽しようとします。
二階氏がいみじくも言ったように、「支援すると言われたら、その人がなんの宗教かなんて聞かないぜ」というのはまったくそのとおりです。食えないたぬき、たまにはいいことを言います。
政治家と宗教の距離の軽重を問わず「関与」を聞けば、、「インタビューを受けた」、「祝電を送った」、「スピーチをした」などという儀礼的なかかわりすべてが「接点」となりえてしまいます。
そしてメディアはこの「接点」を得意気に「ズブズブの癒着さらに広がる」という報じ方をするのですから、手に負えません。
まさに魔女狩りです。
岸田首相は、先日の内閣改造で前内閣の全閣僚、新閣僚の全メンバーに、教会と関与があったかどうかを点検するように達しましたが、メディアは大甘だと言っているようです。
ならば岸田さん、「統一教会汚染」は野党にまで広がって「ズブズブの関係」だそうですから、いっそ衆議院を解散したらいかがでしょうか。
いまや有名な旧統一教会ハンターとなった紀藤正樹弁護士は、こうツイートしています。
弁護士 紀藤 正樹【弁護士の肖像】 | Attorney’s MAGAZINE Online (legal-agent.jp)
「そろそろ政治家と統一教会との関係の濃淡/線引きの基準を作るべき時期ではないか。個別取材ではなく記者会見で世界日報から取材を受けて記事になった程度は避けようがなく問題ないと思います。超党派で基準作りをするなら協力したい>紀藤正樹弁護士、超党派での基準作成求める」
なにが「そろそろ線引きの基準をつくるべき時だ」ですか。
そんなものを誰がどのようにして作るのでしょうか。
立憲は308万の信徒を持つ立正佼成会と「ズブズブの関係」ですが、信徒わずか56万の旧統一教会とどこがどう違っていて、その影響力をどう判定して、誰がその基準線を引くのでしょうか。
たとえば、山上の母親が出した1億がダメなら、100万ならいいのでしょうか。
山上家は富裕だったから1億出せたのですが、貧者なら100万出したら破産します。
ありとあらゆる宗教が宗教的啓示を重要視しますが、霊感がダメで、啓示ならいいのでしょうか。
すべてが宗教の教理に関わることなので、判定が困難、というか不可能です。
よもや自分だけはできる、なんて考えていませんよね。
そうだとすると、あなたは政治家全員の生殺与奪を握る大魔王になれます。
紀藤氏は、フランスのライシテばりの政教分離主義者だと見えて、首相の伊勢神宮参拝も宗教行為だそうです。
「安倍首相の伊勢神宮への参拝がマスコミによって報道されること、個人としての発信ならまだわかる。しかし国家機関である首相官邸のラインで国民に向けてあえて告知するのは、明らかな政教分離違反ではないか!安倍首相とその側近の憲法感覚の欠如、いや、はなから現行憲法を守る気がないのではないか!」
コワイ人だな。
こういう立場の人が「政治家と旧統一教会との関係の濃淡の線引き」をするイニシャチブを握ろうとしているのですから、この弁護士に神道は宗教ではない、だなんて説明しても無駄。
首相の伊勢神宮参拝はハトカンも首相時しているのですから、紀藤氏の政教分離基準に従えば、唯一清浄なのはオンリー共産党だけとなるでしょう。ま、それが目的なのかな。
どうやら紀藤氏は、僧侶と政治家をギロチン台に送り込んだジャコバン派の審問官になりたいようです。
まったくおそろしい風潮を作ってしまったものです。
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