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2022年9月10日 (土)

共に「非常時の君主」を生きたエリザベス2世陛下と昭和天皇

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エリザベス女王陛下が薨去されました。衷心より哀悼の意を表します。
英国民にとって、エリザベス2世陛下は昭和天皇のような位置にある御方でした。
BBCはこれ一色の報道でした。


「8日に死去した英女王エリザベス2世の長い治世は、王位と国民に人生を捧げるというその強い義務感と決意が結実したものだった。
イギリスの影響力が低下し、社会が様変わりし、王室の役割そのものが疑問視される中、女王は多くの人にとって、急速に変化する世界の中で唯一変わらない定点のような存在だった。

しかし、女王が生まれた時には彼女が王位に就くとは、だれにも予想できなかったはずだ。それだけに、激動の時代の中で君主制を維持したその功績はとりわけ目覚ましい5
(BBC9月9日)
【評伝】 エリザベス2世、強い義務感が支えた長い治世 - BBCニュース

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立派なお顔です。唇は引き結ばれ、意志的な眼は真正面を見ています。
エリザベス2世は、昭和天皇と同時代を生きました。
昭和天皇は『昭和天皇独白録』 の中で、皇太子として訪英した際に、エリザベス2世の祖父にあたるジョージ5世から親しく立憲君主のすべきことを教えられたと述べられています。

わが国で昭和と呼ばれている時代は、君主制が激動期にどのように生き、国民と接し、政治や国際社会といかに対応するのか、を問われ続けた時代でした。
英国王ジョージ5世は、公正中立な権威として君臨すべきだと考えておられましたが、昭和天皇はそれを十分すぎるほど理解しながらも政治的中立を許されませんでした。
『昭和天皇実録』には、張作霖爆殺事件のことで田中義一首相を厳しく叱責した後に、自室に戻って疲れ果てたと述べられています。
それは田中が日本軍の仕業ではないと虚偽の説明をしたことを、昭和天皇は許せなかったためです。

昭和天皇は軍が中央の統制に服さずに、大陸で独走する姿勢に強い危機感を持っていました。

その後も昭和天皇は、この張作霖暗殺事件への対応に対して、「立憲君主の振る舞いとしてやりすぎではなかったのか。立憲君主の則を超えているのではないか」という自責で悩む姿が描かれています。
この叱責事件の後、田中は苦悩の末に亡くなっています。

しかし昭和天皇は、その後の2・26事件の時も、クーデター部隊の鎮圧をお命じになりました。
もはや戦争へ流れ込む1930年代は、君主が公平中立な政治の蚊帳の外にいられる時代ではなかったのです。
終戦時においても、本土決戦を叫ぶ一部将校が天皇の和平の意志を踏みにじって抗戦を叫びました。
しかもその中心は、陛下の足下にあらねばならない近衛師団でした。
彼らは昭和天皇を排し、秩父宮殿下を擁立しようとすら考えていました。

このような時代に立憲君主国として存続していくためには、あえて非常時における君主として振る舞わねばならない、そう陛下は決意されたのです。
そして日本を破滅の淵から救われたのです。

昭和天皇の苦悩は、ジョージ5世の王女として生まれ、しかし時代のいたずらから「非常時の女王」の責を負わねばならないエリザベス2世陛下と同じものでした。

エリザベス2世陛下は先の大戦で、常に先頭に立って国民を鼓舞しつづけました。

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BBC

「第2次世界大戦中、ラジオ放送を行うエリザベス王女(右)と妹のマーガレット王女。王女たちは、第2次世界大戦の戦火を逃れて国外に疎開した子供たちに、ラジオ番組「子供の時間」で語りかけた。バッキンガム宮殿で収録したこの番組の音声が、後の女王の声の記録として最も古い」
(BBC前掲)

そして大戦が終わり、両君主はにこやかに共に歩くことを許される時代になりました。

Sphoto

しかし世界は再び大きく変わろうとしています。
第2次冷戦が始まったのです。

第2の鉄のカーテンが降り、世界は自由主義陣営と全体主義国家に二分されようとしています。
この時代に、冷戦を終結させ、ソ連に引導を渡す役割を果たしたゴルバチョフが亡くなったのは象徴的です。

新国王となったチャールズ3世は、ダライラマ14世の永きに渡る支援者のひとりであり、親中派のキャメロンが習近平を国賓で宮中に招く企みをした時には、晩さん会に欠席しました。
またエリザベス2世も、穏やかに習に批判的なそぶりを見せたと聞いています。

エリザベス2世の長年に及ぶ公務のしめくくりは、これ以上ない中国批判派であり、ウクライナ支援の急先鋒であるトラスの認証だったことは象徴的です。

 

 

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コメント

私は亡くなられた方をhappyなエピソードで偲ぶのが好きなので、ちょっとくだけた話を。

'Her Majesty 女王陛下'の称号に慣れて久しく、1969年の映画'On Her Majesty's Secret Service '「女王陛下の007」は、今も007シリーズの中で好きな作品のひとつです。
同じ1969年のビートルズのアルバム「アビイ・ロード」には'Her Majesty'という超短い曲があります。
「女王陛下はすごく素敵な女の子
でもくるくる変わる気まぐれ
いつか女王陛下を僕の彼女にしたい」
という、我々の感覚からするとお茶目が過ぎる曲ですが、2002年エリザベス2世女王陛下の戴冠50年記念公演の中でポールがこの曲を歌いました。
ロンドン・オリンピックの開会式でエリザベス2世女王陛下がダニエル・クレイグの007と共にフィルムご出演された時は、英国連邦民でもない私も大興奮でした。
あのショート・フィルムの製作にあたって、ロンドン・オリンピック芸術監督が女王陛下に出演オファーをした際、女王陛下は「5分で快諾」して「ボンドは私を救出に来るのだから私もセリフが必要」との条件をお出しになったそうです。
翌年の英国アカデミー賞はエリザベス2世女王陛下に名誉賞と「最も記憶に残るボンド・ガール」の言葉を捧げ、陛下も賞をお受け取りになられました。
寛容さとユーモアのセンスに溢れ、多くに愛される女王陛下であられました。
安らかに旅立たれたとの報に、残念な中にも一筋の「ああそれならよかった」という思いがあります。
また王配フィリップ殿下とご一緒に腕を組まれてご散策されているでしょうか。

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