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2023年6月 5日 (月)

香港弾圧の原型・天安門事件

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いまから34年前の1989年4月、100万人を超える学生や労働者たちが民主化を求め、北京の天安門広場を占拠しました。
当日の天安門を目撃したニューヨークタイムズ記者のニコラス・クリストフは、こうツイートしています。

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Nicholas Kristof(@NickKristof)さん / Twitter

民主化デモは、約1カ月半にわたって続き、北京だけではなく中国各他の都市や大学にも拡大しました。
彼らの要求は、共産党による独裁体制の打倒、言論結社の自由、インフレ対策の実施、賃金の上昇、住宅事情の改善などでした。

これを弾圧することに決めた共産党は、1989年6月3日夜、天安門広場に軍の戦車と部隊を出動させました。
これは地元の軍ではなく、遠くの地区から連れて来られた「よそ者の軍隊」でした。

彼らは、4日の朝にかけて丸腰の市民に向けて無差別の発砲を繰り返す、という大量虐殺事件を引き起しました。

これは正規軍が無辜の自国民に銃を向けた事件でした。

その虐殺数は記録に残されておらず、幅がありますが、数百から1万人の間だと見られています。

「英国で新たに公開された外交文書によると、中国当局が民主化運動を弾圧した1989年の天安門事件で、中国軍が殺害した人数は少なくとも1万人に上ると報告されていることが明らかになった。
「1万人」という人数は、当時のアラン・ドナルド駐中国英国大使が1989年6月5日付の極秘公電で英国政府に報告した。大使は、「中国国務院委員を務める親しい友人から聞いた情報を伝えてきた」人物から入手した数字だと説明している。
国務院は中国の内閣に相当 し、首相が議長を務める。
天安門事件の死者数はこれまで、数百人~1000人以上と、様々に推計されていた。」(BBC2017年12月26日)
https://www.bbc.com/japanese/42482642

中国治安当局は後日、発砲による死者はゼロだと主張しましたが、それを信じるものはひとりもいません。
時系列で見ます。

中国が歴史から葬り去ろうとしている天安門事件、30枚の写真 | Business Insider Japan

1989年4月21日 民主化に理解を示した胡耀邦・元総書記の死を追悼する学生たちが自然発生的に集まりました。
それがやがてみるみるうちに民主化要求運動として各地に拡大することになります。

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Business Insider Japan

5月21日、数万の学生と市民が北京の中心地にある天安門広場に集まった全国の学生や市民は百万人とも言われています。
しかし指導部は、学生に限られており、いくつもの系統にわかれ、政府と交渉する代表もいない状態でした。
このような混沌とした状態が、エネルギーを生むと同時に、後に出てくる趙紫陽との交渉にあたって統一した対応を取れない欠陥も持っていました。

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Business Insider Japan

一方、当時の共産党の党内は分裂していた。
趙紫陽は胡耀邦と共に、中国はやがて民主化するべきであるという考えを持っていましたが、それは分裂を招くとするのが鄧小平の考えでした。
党内闘争で胡耀邦と趙紫陽が勝利していたら、今の習近平の刑務所帝国はなかったでしょう。

鄧小平は趙紫陽に混乱の原因があるとし、北京市内に軍を展開し、戒厳令を敷き武力弾圧に踏み切ることを決断しました。
抵抗するなら殺せ、これが後に開放改革路線を取ることになる鄧小平の決意だったのです。
趙紫陽は戒厳令の発動を拒否しましたが、鄧小平は李鵬、楊尚昆、喬石といった最高指導部を味方につけて彼らに戒厳令の責任者を命じます。
5月19日、追い詰められた趙紫陽は、学生との対話でなんとか妥協点を見いだそうとしますが、拒否されます。そして失脚。

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「血の流れが川のよう」銃声響く天安門、撤退決めた一瞬:朝日新聞デジタル (asahi.com)

李鵬首相が戒厳令を宣言し、5月20日、人民解放軍は北京に向かい始めました。
彼ら兵士の多くは、地方から駆り集められていました。
学生たちは北京に侵攻する兵士に必死に支持を訴えかけました。
当時はまだ「解放軍は人民を守る」という幻想が残っていたのです。

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天安門事件、「弾圧ではない」と中国政府 - CNN.co.jp

 学生たちは広場の占拠を1週間続けました。
天安門広場は権力の前庭から、初めて国民が自由な討論を楽しめる空間に変容したのです。
ニューヨークの自由の女神に模した「北京版自由の女神」がやさしく彼らを見守っているようでした。
たった1週間でありながらも、初めて中国国民は「自由」の空気を吸ったのでした。

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Business Insider Japan

6月2日、鄧小平は「首都に秩序を取り戻す」と述べ、武力弾圧を命じます。
警察力を行使せずに、いきなり軍隊に武力鎮圧と排除を命じれば、いかなることになるのか、愚劣、凶暴の極みです。

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天安門事件の元学生リーダーら47人、軍・警察に書簡「民衆に発砲してはならない」 : 読売新聞 (yomiuri.co.jp)

6月3日 第54軍、27軍、38軍の 約2万5000人の兵士の動員が始まり、6月4日午前1時に広場に入り、午前6時までに群衆を排除することが命じられました。
複数の外国メディアや大使館からの公電によれば、解放軍の進行は一旦は数で勝る民衆によって阻止されたものの、これらの部隊は市街地で民衆に対して無差別発砲を許されていました。
午後10時、天安門広場の西、約5kmで市民に対する最初の発砲が報じられた、とABCが伝えました。
軍は6月4日午前1時30分に広場に到着し、装甲兵員輸送車が学生たちの列を突入し、広場に入ろうとして学生たちに発砲しました。
それも威嚇ではなく、水平に銃を向けて撃ったのです。

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天安門事件の死者を忘れるな」真実を知るために戦う中国90年代生まれの若者たち | 裁判の記録も消されている | クーリエ・ジャポン (courrier.jp)

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天安門事件30年、未公表写真を入手 ひざまずく市民:朝日新聞デジタル (asahi.com)

その虐殺の夜について、初代産経新聞中国総局長だった古森義久記者はこう書いています。
長文ですが、引用します。

「1989年6月4日午前1時、北新華街の片隅でも1・6キロも離れた民族飯店周辺から初めての銃声が聞こえてきた。西長安街ではバスやトラックが転覆、放火されて、オレンジ色の炎が道路沿いに広がった。
 銃声がさらに大きくなり、人民解放軍の装甲車のヘッドライトが東に向けて動くにつれ、群集の間の怒りが高まった。年配の女性が「なぜ中国人が中国人を撃つのか」と叫んだ。若い男が「われわれは中国人だが、彼らは違う」と声をあげ、中南海を指さして「彼らは悪者なのだ」と叫んだ。
 1時10分。群集の後方から腹に響く音が聞こえてきた。炎に包まれた装甲車が疾走してきた。装甲車の車輪に向け、群集は大きなコンクリート片を投げつけ、停止させた。怒った群集は装甲車を取り囲み、古い木材を積み重ねて火を放った。数分後、車の扉が開き、兵士が1人、飛び出した。群集は彼を捕まえて殴り、殺してしまった。
 1時20分。後続の装甲車隊が群集を銃撃しながら北新華街に次々に到着した。弾丸が飛来し、群衆のなかに血まみれになって倒れる人間が続出した。デモ参加者は兵士たちが空砲でもゴム弾でもなく実弾を撃っていることを知り、恐怖に駆られて天安門方向や脇道へと逃走した。
 1時45分。さらに新たな部隊が天安門に着き、装甲車隊が長安街に面して一定間隔で展開し、人民大会堂の東正面にも達した。装甲車隊は東長安街の約1万5000人の抗議者らにヘッドライトの光をあて、不動の態勢をとった。
 2時9分。毛沢東主席の肖像画の前に並んだ将兵と装甲車隊は長安街の大群衆に対し発砲した。群集は東の北京飯店の方向へと、どっと避難した。多数の人間が銃弾を浴びて倒れ、苦痛の悲鳴が起きた。報告者に向かって「なんとかしてくれ! あなたがた外国人に助けて欲しい!」と叫んだ男は次の瞬間、額の真ん中に銃弾を受けて倒れた。
 2時30分。約100人の解放軍兵士は歴史博物館隣の道路の向かい側に腹ばいで布陣し、ライフルを40メートルほど東のデモ隊に狙いを定めていた。
2時40分、兵士たちが狙撃をするたびに、デモ隊はばらばらとなり、遮蔽物を求めた。
数分後には街路に戻り、仲間の死体を輪タクに乗せ、元の場所に集結した。
次に再び銃撃が起きると、10~15人のデモ隊の人間たちがまた倒れた。
 4時27分。天安門の照明は同3時30分に消えていたが、また点くと、装甲車、戦車、トラックなどが果てしないほど並んだ兵器集団が姿をみせた。照明は広場の北端近くの「民主の女神」の残骸を照らし出した。人民英雄記念碑の周囲からは煙が上がっていた。広場での銃撃は学生たちが人民解放軍への武器のない対決で、希望を失いながら殺されていったことを意味していた。
 5時30分。装甲車、戦車、トラック合計約50台から成る軍の第2の隊列が轟音をあげながら東長安街を通って、天安門広場に入った。民主活動家たちが怒りの声をあげると、解放軍将兵はジープに装備した機関銃2丁を撃ち始め、15分ほども銃撃を続けた。この大虐殺が中断されたとき、天安門広場と北京飯店の間の東長安街の路上には25~30の人間の体が横たわり、その一部はもがき、他は動かなかった。活動家たちはその道路ににじり寄り、死傷者を輪タクに乗せ、人民解放軍の狙撃手の列とまた対決する構えをとった。
 6時20分。装甲車、戦車、トラック合計約40台の軍の第3の隊列が東長安街を東から驀進し、広場に入った。人民解放軍将兵は民主活動家ら群集に向けまた10分ほど機関銃の激しい射撃を続け、多数の死傷者を出した。
 この2回の虐殺の間、天安門の政府拡声器からは奇妙に優しくなめらかな声が流れ、「北京の友人たち」に「混乱は終わり、秩序が回復され、乱暴者たちは鎮圧されました」という鎮静の言葉が伝えられ続けた。
 7時30分。拡声器が静かになって数分後、聞きなれた勇ましい中国国歌が流れて、周囲の空気を圧した。だが国歌の吹奏はその途中で歴史博物館の背後から響いてくるライフル発射の音と東長安街でのデモ参加者にまた発射された機関銃の連続音とに抑えつけられた。国歌が終わると、ソフトな女性の声が流れた。「同志たち、おはようございます。幸いにも反革命分子は粉砕されました。私たちの愛する天安門広場に平和が回復されました」と」

また駐中国アラン・ドナルド英大使の秘密解除公文はこう伝えています。

鎮圧にあたったのは山西省を主力とする第27軍」「1時間の退去期限を通告したが、実際には5分後にはAPC(装甲兵員輸送車)による攻撃が始まりひき殺され、大多数は広場から離れる途中で犠牲に遭った」「学生たちは腕を組んで対抗しようとしたが、兵士たちを含めてひき殺されてしまった。そしてAPCは何度も何度も遺体をひき、『パイ』を作り、ブルドーザーが遺体を集めていった。遺体は焼却され、ホースで排水溝に流されていった」「負傷した女子学生4人が命乞いをしたが、中国軍銃剣で刺されてしまった」
六四天安門事件 - Wikipedia

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・流血の後、広場の学生は排除された。当時、党は兵士を含む241人が死亡し、7000人が負傷したと発表した。イギリスの外交官は1万人と書き残した。多くの死者は広場の外で発生した。

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Business Insider Japan

・北京は軍の戒厳令下に置かれ、数千人が逮捕され、秘密に処刑された。天安門事件は中国の歴史書から消され、いまだに検索すらできない。

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さて、ニコラス・クリストフの事件25周年にあたってのコラムをご紹介します。
これが1989年6月3日の夜、に起きた中国軍による自国民虐殺の夜の出来事です。概説よりもより心に響きます。
ニューヨークタイムスの北京支局長だったクリストフは、第2次天安門事件(六四天安門事件)に関する報道で、1989年のピューリッツア賞を受賞しました。

私はクリストフがこのコラムで書くような、経済の発展が中産階級を生み、彼らが民主化を求めていくことによって、一党独裁国家からゆるやかに民主国家に生まれ変わっていくとする考え方は、残念ながら幻想だと思っています。
一般的には、多くの国はそのコースを辿りましたが、中国は世界唯一の巨大な例外として変化を拒んでいます。
それはあの事件から30年間変わらなかったし、今後30年間変わらないかもしれません。
なぜなら、飯がたらふく食える間は民主化要求は二の次にされるからです。

そして今や中国共産党は、ジョージ・オーウェルが描く「1984年」もかくやと見紛うような超管理社会を作り出しました。
ビッグブラザーたる中国共産党は、30年前のように人民解放軍を使うことなく、ITによって14億人を支配できると考えています。

唯一の民主化の「希望」が残るとすれば、経済が右肩上りの発展を止めた時に、どうなるかです。
その意味で、米国が仕掛ける経済戦争は、米国による「民主化要求戦争」の側面も持っています。
以下、クリストフ記者の記事を紹介します。

「フランスの田舎から世界を見ると土野繁樹の21世紀探訪」様から転載させていただきました。ありがとうございます。
写真は引用者がいれたもので、改行を施しています。

わたしが生きている限り、決して忘れない光景がある、それは、戒厳令軍に撃たれた重傷の学生を病院に運ぶ、人力車の車夫のほおから流れていた涙である。その人力車の車夫は勇気のある人だった。わたしより上等な男だった。

1989年6月3日の夜、われわれ(外国人記者とカメラマン)は天安門広場に隣接する長安街にいた。中国人民解放軍は学生の民主化運動を粉砕しつつあった。
あの夜、解放軍はまるで外国軍のように首都周辺の各所から北京に侵攻し、動いているものはかたっぱしから標的にした。天安門広場からはるか離れた場所で、わたしの友人の弟は自転車に乗って職場へ向かう途中で射殺されている。解放軍の侵攻がはじまると、わたしは自転車に飛び乗り天安門広場へ駆けつけた。長安街では学生を守ろうとする群衆が撃たれた。

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6月4日未明の惨劇のなかで、最も英雄的だったのは人力車の車夫たちだった。いつもは、彼らは三輪自転車の荷台に品物をのせて運搬するのだが、その夜は射撃が停まり次の射撃が始まる前に、彼らは兵士がいる方向に人力車のペダルを漕ぎ、殺された学生と傷ついた学生を拾い上げていた。

学生の遺体と負傷した学生を収容しようとする救急車にも、兵士たちは情け容赦なく銃撃していたが、車夫はそれをもろともせず救出作業を続けた。彼らの勇気ある行動は、わたしの心を激しく揺さぶった。
なぜなら、その春、外国人と中国人官僚から「民衆の教育レベルも洗練度もまだ十分ではない中国では、まだデモクラシーは機能しない」と繰り返し聞かされていたからだ。

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わたしが目撃した一人の車夫のことを、いまでも鮮明に覚えている。Tシャツを着たたくましい体格をしたその人は、高校卒でさえなかっただろう。だが、なんという勇気の持ち主であったことか。彼は倒れている若い男の方に向かった。

わたしは彼が射殺されるのではないかと思い、息を呑んでその姿を見ていた。彼は若い男の体を抱えて荷台に置き、ペダルを踏んで生きたままわたしたちの所に戻ってきた。彼のほおには涙が流れていた。

その人は外国人であるわたしと目を合わせると、三輪車の向きを変えゆっくりとこちらの方に近寄ってきた。わたしに政府がやったことの証人になってもらいたかったからだ。その夜の体験は戦慄すべきものだったから、彼の言葉を正確には覚えていない。
しかし、彼が言いたかったのは、あなたはここで起こったことを世界に伝えるべきだ、ということだった。その人はデモクラシーを定義できないかもしれない。しかし、彼はデモクラシーのために命を賭けていた。

中国が過去4半世紀で巨大な進歩を遂げたこと事実である。収入は飛躍的に増え、住宅環境も向上した。人力車の車夫だったあの人には選挙権はないが、彼のこどもは大学に通っているかも知れない。その進歩は議論の余地がない。

しかし、人間の尊厳はライス(パン)だけでは保たれない。人権をも必要とする。中国の偉大な作家、魯迅は「筆で書かれた虚言は、血で書かれた事実を隠すことはできない」と言っている。

中国の繁栄が続き、教育ある中産階級社会になると、彼らは政治参加への要求を強めるだろう。わたしはポーランドから韓国まで世界のデモクラシー運動を取材してきた。その体験からすると、いずれ天安門広場であの夜殺害された人々を追悼する式典が行われるだろう。

わたしはそれを確信している。そして、その式典の記念に人力車夫の像が建てられることを願っている。

 

※記事を差し替えました。

 

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コメント

記事差し替えたな(笑)
でも天安門事件は絶対に忘れてはいけないです!

胡耀邦·趙紫陽が体勢を握っていれば···全く違う未来になっていたでしょう。
毛沢東死後に政権に返り咲いた開放政策を進めた大御所の鄧小平が院政を敷いてた微妙な時代感。
その10年以上前に今や有名無実化しましたけど、小学校で「日中平和友好条約バンザイ!」の垂れ幕作らされたわ!日教組の赤い先生達に。当時はガキでしたから何も不思議に思わず強制されていました(笑)
天安門事件から34年ですか。。当時の日本は実に呑気なバブル最盛期でした!

李鵬は鄧小平にベッタリで、江沢民は学生運動に理解を示しつつ曖昧な態度を取っていざ「弾圧」が始まるタイミングで共産党長老に抱きつきました。

今では「日中平和友好条約」締結時に訪日して連日ニュースで「友好の象徴」として扱われた鄧小平が、まさかあそこまでやるとは信じられないというか···あの国というか共産主義はヤバイ!と当時思いました。

もう20年も前ですけど、職場の製造ラインにいわゆる「コネ入社」してきたという天安門事件当時の学生で日本語がカタコトで指導するのが大変でしたけど···あの銃弾が飛び交う現場にいたというのが、地元の日本人女性と結婚して日本国籍になったけど仕事が無い「日本経済没落期」「就職氷河期」だったんでバイトでとりあえず稼ごうというね。休憩時間に事情は聞きましたけど、、
袋詰めやダンボール詰めという極めて単純な作業なのに、何かとやたら文句を付けてきて一ヶ月で辞めました。
まあ、当時のあちらの国では大学生なんてエリートコースでしょうから、超単純な作業には耐えられなかったんだろうどと···今では思いますね。今は50代後半でどうしてるやら。
あの事件は忘れてはいけませんね!!
鄧小平という1人の意向だけで国どころか世界が動くという怖さです。

あー、その数年前に中曽根総理が中国訪問した時にインタビューで「鄧小平先生は雲の上の人」と賛辞を送ったら、当時の弱小中国メディアが「雲の上の人とは死人だと言うのか!」と激怒したと日本の大手メディアが報じてましたね!あの頃から既に大手新聞社や系列テレビ局って腐ってたんだと···もはや懐かしく思いますよ。

皇帝とかツァーとかの支配する超中央集権体制の国では、こんな事はよくある出来事なんですわ。日本で戦後育った私なんかから見ると自国民を無差別に殺戮するなど世にもオゾマシイ行為ですが、中共の人間から見たら治世というのは時にはまあこんな事もあるわなという程度の認識だったとしても不思議ではありません。

清帝国へ西洋列強が押し寄せた昔、欧米人は清国の刑があまりにグロいので心底ド胆を抜かれたという話もあります。ハラキリとその介錯どころではない内容です。大陸系の国というのは異民族をも支配しないといけないので、グロい公開処刑で「見せしめ」が必須なんですわ。日本でも事実上戦国の世を治めた織田信長も、反抗者には耳や鼻を削いで火をつけるなどムチャクチャして嬲り殺しですが、恭順を示す者は後腐れ無しに許しています。

韜光養晦などで現在の中共をまんまと超大国の一つにした鄧小平なので、いくら学生を殺害しようと、本人は「これが泣いて馬謖を斬るっていうヤツだよなぁー」と思うくらいだったと想像しますわ。イナカ百姓の倅の軍人でもって都のエリート学生を撃たせるなんて、さすがに人心を解かっていらっしゃる。

何も私はパンダジジイを称賛したいんじゃなくて、彼ら中共の人間はブッ飛んでいると言いたいんですわ。日本、それも戦後の日本の感覚でもって中共は推し量れない。デニーさんみたいなのがヤバヤバで、中学生が「頑張りますので、よろしくお願いします」と、美少年専門大手芸能プロダクションの社長室へ行くようなものです。腹黒い変態ジジイに好いたようにヤラれてしまいますわ。

中共という組織は、毛沢東から習近平までずっと同じままで変わっていませんわ。表向きはともかく、中身は古代から中世の中華帝国のまま全然変わっていません。近代国家として対等に付き合うなんてことは土台ムリで、十分な武力を持った上での大人同士の関係でないとエライ目に合わされますわ。

毎年、天安門殺戮を記事にしてもらいありがとうございます。浮世の些事で忘れがちなので、心に刻み込み直しましたわ。

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