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2023年7月13日 (木)

ワグネルから見る「プリコジンの乱」

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もう少し、ワグネルを見ていきましょう。
ワグネルはいわばロシアの現在そのものの部分があって、ワグネルがなにものなのかを知ることで、ロシアがもう少し鮮明に見えてきます。

まず、エフゲニー・プリゴジンとは何者なのでしょうか。
この男についてはまだ謎が多いのですが、わかっているのは1961年、当時レーニングラードと呼ばれていたサンクトペテルブルクの生まれのようです。

私はロシア人の年齢をみる尺度として、1991年12月のソ連帝国崩壊時を起点にして見ることにしています。
すると、プリゴジンは当時30歳、チェリノブイリとアフガン戦争によってと混迷した末期共産帝国で青春を過ごしたようです。

といってもプリゴジンは、帝国の崩壊時には刑務所にいました。
1979年11月にレニングラードで窃盗罪で執行猶予付きの判決、2年後には懲りずに強盗、詐欺罪で12年の懲役刑を受け、9年間壁の向こうにいたからです。
よくショイグに「お前は軍服を着ているが軍歴がないだろう」と馬鹿にしていますが、自分も軍歴はありません。
ちなみにG8の晩餐会でプーチンにサーブしていたために「プーチンのシェフ」などという褒めすぎなニックネームをもらっていますが、なんせホットドックしか作ったことがないのですから、料理人の修行もしていません。

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日経

一方、ウラジミール・プーチンは1952年生まれ、プリコジンと同じレーニングラード生まれですが、彼のほうはロシアきっての名門レーニングラード大学法学部の出身です。
帝国崩壊時は39歳で、東ドイツのドレスデン駐留のKGB中佐という上級エージェントでした。

「2017年6月、プーチン氏はKGB時代の任務が「違法な情報収集」に関係していたと明らかにした。プーチン氏はロシア国営テレビに対し、KGBのスパイは「特別な資質、特別な信念、そして特別な人格」を持った人々だったと語った」
(BBC2018年12月12日)

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プーチン氏の秘密警察身分証、ドイツで発見 旧東独シュタージ用 - BBCニュース

帝国崩壊後は、ボリス・エリツィンに接近し、KGBの後身であるFSB長官を経て連邦安全保障会議事務局長を経て、首相に抜擢され、権力会談を駆け上がります。

プリゴジンはオリガルヒ(新興財閥)であることはたしかですが、この経歴でわかるように「遅れて来たオリガルヒ」でした。
オリガルヒは、いかに早く、政府に食い込んで元共産党官僚から、帝国の国有財産を払い下げてもらうかで決まります。
資本主義が根付かなかったロシアでは、新生ロシアにおける資本の原初的蓄積は、共産党幹部と組んだ政商たちの分捕り合戦が決めたのです。
帝国崩壊時にはムショから出たばかりのホットドック売りのプリゴジンには、こんな天上の争いなど無縁だったのです。

鉄鋼王とよばれるロシア有数の資産家のアレクセイ・モルダショフは、世界鉄鋼生産者協会の副会長も務め、2020年のロシアメディアが発表した億万長者ランキングでは堂々の1位を獲得した人物です。
モルダショフの1100億ルーブル、日本円でおよそ1550億円という巨万の富は、国有チェレポヴェツ製鉄所を安値で買収し、自分の「セベルスターリ 」としたことから始まっています。

プリゴジンが出世の糸口をつかんだのが、レストランにやって来たプーチンと顔見知りになったことがきっかけだという伝説があります。
当時彼は、食品販売やレストラン経営を手がける企業のオーナーとなる成功をつかんでいましたが、たぶん初めて政府の要人と知己を得たのが、他ならぬプーチンだったようです。
このホットドック売りは、とんでもない大当たりのクジを引いたものです。

ただしプーチンの知己を得たといっても、この時期は経済の基幹産業のおいしい部分は、既にモルダショフのようなオリガルヒ先行組に食われてしまっていたために、新たなオリガルヒが入り込む隙間はまったくありませんでした。
プリゴジンはクレムリン宮殿御用達のケータリングサービスを運営利権をもらったりしていましたが、やがてさまざまな分野に展開していきます。

その資産は146億ルーブル、日本円でおよそ206億円に及びますが、鉄鋼王・モルダショフには遥かに及びません。

このレストラン業が象徴するように、プリゴジンがプーチンとのコネができた時代には、基幹産業などに食い込む余地はまったくてなかったのです。
彼の立場は、ひととで言えば「日陰者」、あるいは「新参者」でした。
ロシアの暗部、政府が表だって見せたくないもののトラブルシューターでした。
それがはっきりするのが、2014年のワグネル(グルッパ・ヴァグネラ )の設立です。
ワグネル結成が、2014年というクリミア侵略の年だというのは象徴的です。

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ワグネル・グループ - Wikipedia

ワグネルは2014年にクリミア侵攻で登場し、さらにルハンスクにおける分離親露派の支援をしました。
今回の反乱においてプリゴジンはSNSで「ウクライナはロシア系民間人を迫害なんぞしていねぇぞ」と言っていましたが、これは当時ワグネルがロシアの裏部隊としてドンバスの親露派として参戦していたから知っていたのです。

ワグネルが重宝がられたのは、「ロシア軍がウクライナ領内で活動していない状況を作るため」でした。
つまり、表だってロシア政府は「ウクライナ国内では活動していない」ように見せたいが、実はしっかりしているというグレイゾーンを必要としていました。
それは東部2州の親露派武装組織と独立政府がウクライナに攻撃されてい支援を要請しているから、ロシア軍が「特別軍事作戦」をするのだという体裁をとりたかったからです。

「ロシアのペスコフ大統領報道官は23日、ウクライナ東部2州で「独立国家」として承認した地域の親ロ派武装勢力トップが、プーチン大統領に軍事支援を要請したと明らかにした。タス通信などが伝えた。
 親ロ派は支援要請文で、東部2州の支配地域が「ウクライナ軍の攻撃にさらされている」と主張。反撃のためロシア軍の支援が必要だと訴えた。ウクライナ政府は攻撃を否定している」
(東京2022年2月24日)
ウクライナ東部2州の親ロシア派武装勢力、プーチン大統領に軍事支援を要請:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp) 

この謀略に満ちた場所、ロシアの裏側の顔、それこそがワグネルに与えられた場所だったわけです。

その性格がよりはっきりするのは、翌2015年、シリアのアサド政権がロシアに軍事支援を要求したあたりです。
元々、中東やアフリカには2010年頃からロシア刑の民間軍事会社が数社進出していたのですが、その性格が非軍事的であったに対して、ワグネルは軍事の裏介入を目指していました
この時期にワグネルは、チェチェンで残虐な作戦を遂行した経験を持つ元GRU特殊部隊中佐ドミトリー・ウトキンを指揮官に据えています。
ウトキンは退役軍人で作った民間軍事会社「モラン・セキュリティ・グループ」で働き始め、世界中で警備や訓練任務に携わり、海賊に対する警備を専門にしていました。
ちなみにこの男は強烈なナチス信者で、この人物のつながりで西欧の極右とワグネルとの関係ができあがったようです。

シリアのアサド政権は、反政府派によって劣勢に立たされると、2015年にロシアに軍事支援を要求しました。

「元々、中東・アフリカにはロシアの幾つかの民間軍事会社が進出していたが、ワグネルとしては15年、ロシアがシリアのアサド政権を救うため軍事介入してから本格化した。プーチン氏との親密な関係をテコにワグネルをロシア軍の別動隊として拡大させていったのが今回の反乱の首謀者であるプリゴジン氏だ。内戦や紛争につけ入って独裁者らの警備を担当し、時には反政府勢力の掃討作戦に参加し、数百人規模の虐殺にも加担したと非難されてきた」
(佐々木伸  7月4日)
ワグネル反乱で影響必至の中東・アフリカ情勢(Wedge(ウェッジ)) - Yahoo!ニュース

ロシア政府は空軍を派遣し、反政府派都市の無差別爆撃を行います。
この指揮をとったのが、「アルマゲドン将軍」ことプリゴジンの盟友であるスロビキン将軍です。
投入する連邦軍が空軍だけだったのは、国際世論の批判を受けた場合、陸軍と違ってさっさと逃げることが容易だったからです。
ワグネルは、この陸軍の代替としてシリアに送られて、油田警備や反政府派との戦闘に投入されました。

当時のワグネルは、囚人などで水膨れしたウクライナ戦争の今と違って、特殊部隊出身者が多くいたようですが、チェチェンでスペツナズが見せたような残虐行為を平気で働いたようです。
この時期に、ショイグとの確執の芽が生まれます。

「ワシントン・ポストなどによると、18年2月、数百人規模のシリア政府軍とワグネルの部隊が北東部のガス・油田地帯にある「コノコ・ガスプラント」を包囲、このプラントをISに占領されないよう守っていた米軍小部隊と衝突した。
戦闘は4時間にも及んだが、米軍は戦闘機やB52爆撃機、ドローンなど空軍力を動員して政府軍とワグネル部隊を壊滅させた。100人以上が殺害されたが、米軍には死傷者はいなかった。
戦闘の最中、プリゴジン氏はロシア軍に空軍の応援を何度も要請したが、ショイグ国防相らに無視され、結果として多くの犠牲者が出た。この時の恨みがロシア軍との軋轢につながったという」
(佐々木前掲)

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ワグネル統制強化、中東・アフリカで懸念高まる - WSJ

またアフリカにもワグネルは進出しました。
ソ連時代、冷戦期にアフリカを二分したロシアの勢力は衰退しきっていましたが、プーチンはアフリカを帝国再興の足掛かりとしたかったのです。

1990年代以降、アフリカはチャイナマネーの草刈り場で、当時、アフリカ各地では中国人労働者がコロニーを作り、中華料理店がはびこるようになっていきました。
中国は現地政府にワイロを送って取り込むと、ふんだんに武器を売りさばくようになっていきます。
その見返りとして鉱山やエネルギー資源を押さえたのです。

経済では中国に対抗しようもないロシアがとった方法が軍事力の提供でした。
しかも正規軍ではできないダーティな汚れ仕事を引き受けることで、現地政府に食い込んだのです。 
この手先に使われたのがワグネルで、ここでも持ち前の残虐行為を多く働いた痕跡が残っています。

「ニューヨーク・タイムズなどによると、昨年3月、政府軍がマリ中央部のモウラでイスラム過激派の掃討作戦を展開したが、約400人の住民が虐殺された。軍はヘリコプターからの無差別乱射や住民らの処刑、略奪などを5日間にわたって続けた。政府軍にはワグネルの戦闘部隊も参加していたことが目撃者の証言から明らかになっている。(略)
中央アフリカでもワグネルの蛮行が明らかになった。国連の調査団によると、ワグネルは18年にトゥアデラ大統領の警備のため契約を結び、イスラム勢力との戦闘に加わった。ある時にはワグネルの戦闘員がモスクに侵入し、祈っていたイスラム教徒住民らをその場で射殺したという」
(佐々木前掲)

ところで、ロシア政府は公式にはワグネルの存在自体を認めていません。

「その一方、ロシア政府は傭兵業を違法であるとする刑法の規定を変えようとせず、ワグネルもその他の民間軍事会社も存在しないと言い張ってきた。プリゴジン自身もワグネルとの関わりはおろか、その存在さえ認めていなかった」
(小泉悠2023年6月30日)
「プリゴジンの乱」は「プーチンの終わりの始まり」のようには見えない:小泉悠 | 記事 | 新潮社 Foresight(フォーサイト) | 会員制国際情報サイト (fsight.jp)

ワグネルには表に出せない仕事をやらせる、公式には民間軍事会社そのものを法的には認めない、というのがプーチンの考えでした。
このように誕生の時からワグネルはロシア政府が表に出られない時に便利な日陰者、汚れ仕事をさせるちうってつけの重宝な請負人だったのです。

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BBC

この身勝手なプーチンのワグネルへの考えが露骨に出たのが、今回のウクライナ戦争でした。
ワグネルは、ウクライナ軍の反転攻勢が始まった昨年秋などから戦線に投入されていたようで、プリゴジンは公然と軍高官の戦略の不手際を激しく批判して注目を集めました。
この時期、プリコジンは公然とSNSで自らがワグネルのオーナーであることを公表し、みずから刑務所を回って囚人をリクルートしていくようになります。
受刑者だけで4万人をリクルートしたといわれています。

今年に入っても、1月に東部の要衝バフムト近郊のソレダルの制圧を巡って、ロシア国防省が連邦軍の手柄だと発表したことに怒って、戦功はワグネルにあると強くアピールしました。
このようにプリコジンは、民間軍事会社が非合法であることを逆手に取って、SNSで言いたい放題をすることで、国内世論を見方につけていきます。
結果、国防省がプリコジンの主張を認めて訂正に追い込まれる、という前代未聞の失態を犯します。
この時点で連邦軍とワグネルは互いに相いれない仲になって行くようになります。

ワグネルは昨日も述べたように小銃ひとつの軽歩兵部隊です。
「反乱」では戦車もどこからか調達したようですが、重火器はあたえられず、武器弾薬、負傷兵の後送などは、連邦軍の兵站に頼っていました。
この独自のロジスティクスがないことが、正規軍との決定的違いでした。
結局、最後は正規軍に頼らないと軍事力が発揮できないことが、今回の「反乱」の途中でガス欠で挫折ということにつながったようです。
もちろんそれはプリコジンもわかっていて、バフムトではありとあらゆる放送禁止用語を駆使して「弾はどこだ」と弾薬を要求し続けましたが、結局実に2万名に及ぶ戦死者をだしてしまい、ワグネルは半減してしまいました。

そして怒り狂ったプリゴジンを「反乱」にまで追い込んでのが、6月10日、ショイグが7月1日までにワグネルの兵士に国防省と契約を結ぶよう命令を出したことでした。
つまりはワグネル兵を一般の志願兵として再登録しろ、指揮は国防省から受けろ、ということですからそれはワグネルの解体を意味していました。

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ワグネル反乱で影響必至の中東・アフリカ情勢 (Wedge(ウェッジ)) - Yahoo!ニュース

「ショイグの命令から1週間後、プリゴジンは数名の部下とともにロシア国防省に乗り込み、2枚から成る書簡をショイグに手渡そうとした。国防省の傘下に入る代わりに、弾薬と重装備を必要なだけ供給することや運営資金の半分を国防省が出すことなどを要求したもので、要は国防省の下でも一定の独立を保つための条件闘争に移ったのだろう。
しかし、プリゴジンの文書は受け取りを拒否された。それどころか、ショイグをはじめとする国防省高官とさえ会うことができず、郵便窓口のようなところで金網越しに手紙を渡そうとしたところ、窓口自体をピシャリと閉められてしまうという「超塩対応」であった」
(小泉前掲)

この事件によって、ワグネルは「反乱」に追い込まれたと見るべきでしょう。

「自らの存立そのものが脅かされているという危機感がプリゴジンを駆り立てたことは間違いないだろう。ワグネルの兵士が国防省と契約し、連邦軍の傘下に入るということは、プリゴジンにとっては社会的な抹殺を意味する。ワグネルを連邦軍とは独立した存在として守り、自らの存在意義を維持するために起こした権力闘争が、今回の反乱だったと言えるだろう」
(小泉前掲)

プリゴジンは6月23日夜、自称2万5000人のワグネル兵士にモスクワへの「正義の行進」を行うようSNS上で呼び掛けました。
こうして「プリゴジンの乱」が始まったのです。

 

 

 

 

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