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2023年8月19日 (土)

オジィたちのセンカアギー

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きょうの話は本当なのかどうか分からない。
一種の都市伝説のようなものだという人もいるし、私のように直にオジィの口から聞いた者もいる。
ただしオジィは話を盛るヒトで、しかもベロベロであったが。

ウージ(サトウキビ)畑を借りていたオジィは、このセンカアギー(戦果上げ)のひとりだった。
オジィはシマザキ(泡盛)にもたれながら、この噺をしてくれた。
「いや、いい時代だったさぁ。今のヤマトゥヌユ(日本の世)と違って、アメリカーはさ、人がいいから、なんでも盗ませてくれたさぁ。煙草、ウイスキー、ライフル、弾薬、戦車、ミサイル、とり放題」おいおい、馬鹿にしているのか、褒めているのか)

米軍物資をカッパらうことをセンカアギーと呼んだ。
なんでもかっぱらう。
小気味いいほどかっぱらう。かっぱらって、かっぱらって、かっぱらいまくる。
停めてあった戦車の車輪をハズして持ってきてしまう。ジェット機の落下タンクなど、置いておけば必ず盗まれる。盗んで、クズ鉄にして、与那国あたりから台湾や大陸に売りさばく。
当時大陸は内戦中で、おもしろいように売れた。

終戦直後の時など全島あげてこのセンカアギーをしまくった。不良米兵からウイスキー、煙草、拳銃、ライフル、弾薬、果てはミサイルまで横流しをした。ライフルは使い道がないので拳銃より安く、今の貨幣感覚でいえばほんの2、3万だったそうである。やれやれ。

戦争で沈んだ軍艦や商船も瞬く間にサルベージされて、売られた。
センカアギーと呼ぶのは、当時、オキナワ人の中に沢山の元帝国陸軍兵士がいたからだ。彼らにすれば、敵基地に忍び込み、米軍に一泡吹かせて「ザマーミロ、ヒージャミー!」と喝采した。ヒジャミーとは羊の眼。羊の眼は青い。転じてアメリカ人のことだ。
反米ではない、反戦だというならまったく筋違い。 誤解を呼ぶかもしれない言い方をすれば、オジィたちは占領軍との戦いを継続していたのだ。

「夜になるとさぁ、背中にバカデッカイモンキーレンチをくくりつけてね。顔には炭を塗ってさぁ。匍匐前進でね、匍匐前進はベターと伏してはダメ。身体をやや斜めにして頭を低くして。こらナイチャーのワカモノ、やってみなさい、ダメ、それじゃあ死ぬ。あんたは兵隊になれんね」

「まぁいいとしようかねぇ、間合いを詰めて、サーチライトがあっちに行った時に、小さな声でトテチテター!とわん(俺)が突撃ラッパを言うのよ。デッカイ声で言ったら捕まるからね。
草むらで仲間がトテチテター、トテチテターって返すんさぁ。まるでカエルの合唱。トツゲキ!目標、前方の戦車の車輪!カカレ!そして10分以内にセンカアギーさぁ」

ちなみに、兵隊だった頃、オジィは帝国陸軍伍長様であられた。オジィに言わせるとけっこう軍隊内部では偉いらしい。
このセンカアギー組のほとんどは、南洋で凄惨この上ない戦争体験をし、しぶとくも島に生還した男たちだ。オジィと一緒に出征した男の多くは死んだ。

そして、この男たちが見たものは、変わり果てた島と村。亡くなってしまった妻と子、門中(親類)。「ウマリシマ」、生まれた村さえ自分の村が基地の滑走路の下になって、発見できなかった者も多い。

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[戦世のあと]<上>収容所苦難の日々…飢え・マラリア 無念の死:地域ニュース : 読売新聞 (yomiuri.co.jp)

階級賞をちぎった兵隊服を着て、ゲートルを巻き、軍のリュックを背負ったまま、沖縄のひとが入れらていた収容所のテントを歩き回り、女房と子を探した。いくつもの地域のテントを、くたびれた脚で。米兵にこずきまわされながら。
妻子はどこにもいなかった。

彼らはいったんは精神的な脳震盪にかかり、声すら失い、泣くことすら出来ず、1時間もしてようやく涙が湧き、そして地面を叩いて泣いた。オジィの奥さんも、そして子供3人も沖縄戦の中で生きてはいなかった。

「一番わんに似ていたのは尋常小学校の何年だったかねぇ、あいつにはシマ(村)の森のどこになにがあるか、相撲ひとつとってやれんかった。女房はあっちの世で好きな縫い物でもしとるのかねぇ」

オジィのウマリシマは今キャンプハンセンの下にある。彼が遊び、ガキに教えたかった森も田んぼも今はコンクリートの下にある。オジィは家族の骨箱にウマリジマの白い石を納めた。磨いて納めた。
だからこのセンカアギーは、この哀しい男たちの戦争が終わってからの、形を変えたもうひとつの戦争だったのである。
この話の信憑性は保障しない。ただの酔っぱらいのオジィのヨタ噺かもしれない。

島のインテリは、沖縄の人を虐げられたか弱い人たちのように描く。
鉄の嵐に逃げまどい、米軍の異民族統治に苦しむ人たちだと訴えた。
しかし私は実感を込めて、それは違うと思う。
オジィたちシマンチュウは、しぶとくしたたかで、一度や二度なぐり倒されてもめげない人たちだ。

ちなみにこの時代を、琉球史家は「大密貿易時代」と呼び、沖縄はかつてのアジア貿易の中心に一時的に復活した。米軍支配下の時代のことである。
米軍統治を糾弾することはたやすいが、当時国境線と呼べるものは、与那国と台湾の間にはなかった。

 

 

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コメント

戦果アギヤー(=戦果を上げる者)については、佐野眞一のルポ「沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史」か、真藤順丈の小説「宝島」、比較的容易に見つけられて、せめてもの参照にできる本ではこの2冊くらいしか無く、県内に数多ある「沖縄本」でも、戦果アギヤーのことを詳しく調べて記録したものは見かけないです。(私が知らないだけかもですが)
一種の武勇伝としての話は、私も幾つも聞いてきましたし、2010年頃までの沖縄市の通称「ベトナム通り」の「どろぼう市」のカオスな活気と逞しさには、「戦果」時代の地続きのようなものを感じていました。
↓こちらの方のブログには、昭和20年から27年頃の「戦果」についての新聞記事を蒐集したものが記録されてありますので、勝手ながら皆さまのご参考のひとつに紹介させていただきます。
http://www.ayirom-uji-2016.com/%e7%aa%81%e3%81%a3%e8%be%bc%e3%81%be%e3%81%96%e3%82%8b%e3%82%92%e5%be%97%e3%81%aa%e3%81%84%e8%a8%98%e4%ba%8b-%e6%88%a6%e6%9e%9c%e7%b7%a8

ぬっ!

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