やんばるオジィライフ
ひと昔前、沖縄の過疎というのもおこがましい山奥に住むオジィがいた。
いちおうクチョー(区長)ということになっている。いったん廃村になったシマ(村)にひとり残っていたからだ。
シマがなくなる最大の原因がなにかお分かりだろうか?教育である。小学校すらテクテク3㎞以上歩かねばならない。
中学校ときたら、そこから更にバスで行く。高校に至っては、もう寄宿舎に入るしか手がない。大学なんて話の外だ。
だから、子供を高校に行かせたいと考えたら、大変な負担になる。いっそのこと、家族で街に移住して、勤め人にでもなるかと30代あたりの夫婦は考えてしまう。
親戚関係が強い沖縄では、都市にいる誰かを頼って出ていくことになる。40代にでもなれば、潰しが効かないから、今出よう、と。仕方なしに、祖先の田畑と家を売り・・・いや売れない。だって買う人がいないから。
名義は残って、人は去って行く。
こんなふうにして、村人は皆、いなくなった。集落跡に行くと、今はハブの王宮となった廃屋がいくつか。水田と茶畑、野性化したバショウと蜜柑の樹。そこにはかすかだが、かつて暮らした人の痕跡があった。
オジィはこのシマにひとり残った。台所と居間だけの、ほんの15坪の小さな家で暮らし続けることを選んだ。
最後の村人が去る時は、さすがにタフなオジィも哀しかったという。
去る人と、一晩三線(さんしん)を弾いて別れを惜しんだ。三日月の暗い晩だったという。
以後、堂々とクチョーである。住民が生活を続ける限り、いちおう居住区であることには間違いないので、市も非公認ながら認めた。
まぁ、「当人がそう言ってるんだからさぁ」ていどで正式ではない。
その時には、市は再三足を運び、街の老人施設に入ってはどうか、親戚はいないのか、いれば街に住みなさい、などと説得したそうだ。登校拒否児童に対する担任のような気分だったであろう。
当然のことながら、返ってくる言葉は「だ~が入っか、親戚はいない」。
実際は立派な伜がふたりもいて、後に転がり込で来る。
こうして、サンシンとサキグワ(泡盛)だけが、チョーイチさんのたったふたりの友となった。語るものとていない山奥のランプの下で、オジィはなにを唄ったのだろうか。
やんばる(沖縄県)|多様な生命を育む原始の森へ【未来に残したい日本の原風景2】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
オジィの生活には電気、電話はない。電気が通じる前に廃村となったからだ。
都会の反原発運動がキャンドルナイトなどやっていたが、それを言うならオジィは365日キャンドルナイトである。
後に電気が通っても、電灯をつけることを嫌がった。
検針の役をしていた村民が、基本料金くらいまで使わないとソンするよ、と教えてもウンニャであった。
新聞や手紙は、数キロ先の海岸にある共同売店までしか届かない。
しかし、オジィは自動車はおろか免許もない。しかし不便というのとも違う。
そもそも新聞は読まないし、手紙など来るはずもないと決めつけているので、取りにもいかない。
郵便物は、溜まると共同売店の可愛いネェネェ(お姉さん)が車で届けてくれる。「オジィよ、元気しとるかぁ」とチヤホヤされるので、オジィはそれを楽しみにしている節もある。
その時に、必要な食糧や雑貨品や酒も注文する。何日かで届けてくれる。オバミーチー(おばさん)が来ると、露骨につまらなそうな顔をしてみせる。素直なもんである。
大部分の野菜は家の後ろのアタイグァ(自家用菜園)で採れる。けっこうマメに作っている。もともとかなり大きな川の源流なので、湧き水が豊かな土地だから水には困らない。
ニガナ、ウイチョーバー、チョーメイグサ、ハンダマ、ナーベラ、ゴーヤなどなんでも作る。
ひとりでは余るのでおすそ分けでよく頂いたものだ。もっともオジィはうちの卵に眼をつけていたので、帰りにはしっかりと抱えていったが。
料理はこなす。というか作ってくれる人もなければ売店もあるわけがない。なんとオジィはパン食である。
別にパンが好きだからというわけではなく、小麦粉がコメより安いからだ。
なぜか沖縄では米国小麦がめっぽう安かったからで、米国は復興のためと称して余剰小麦粉とポーク(ランチョンミート)を大量に送り込んだ。
それが沖縄そばとチャンプルーとなったそうだ。
家の外まで、朝から小麦粉を練って叩くバンバンという音が聞こえる。
オジィが関西・中国文化圏に生まれていたらお好み焼きでも作ったのだろうが、あいにく沖縄にはお好み焼きはない。
いちど恐る恐る頂戴したパンを食ってみたら、案外マトモで驚いた。
ただしフクラシ粉をしょちゅう切らすので、食パン系ではなくベーグルに近い。
コメは旧集落の残した谷津田があったので、何度か作ろうとしたが失敗したらしい。
めげないオジィとしては珍しく作るのを止めてしまった。ハブがうじゃうじゃいたからだそうだ。
負けず嫌いのオジィは、ハブと一緒にコメは作らんさぁ、と言っていた。
税金は払ったことがない。課税したくとも、収入がないからだと、いばる。
行政サービスも受けたことがない。
市の役人から生活保護を申請したらどうかなどと言われたことがあるようだが、「わんはクチョーさ、馬鹿にするな」と追い返された。
ところが、実はオジィには立派な現金収入があったのである。それがハブ採り。
オジィからすれば、この山奥から転居したら、ハブ採りができなくなる。ハブは一匹ホンハブで1万円、ヒメハブで5千円で保健所が買い取ってくれる。
血清をつくるのだ。「即金だからムゼー(無税)よォ」とオジィは嬉しそうだ。一晩で、いい時で2、3匹捕まるから、なかなかの収入となるという寸法である。
それを聞いた時に、初めてひとりでジャングルに住んでいた理由がわかったような気がした。
ハブが沢山捕れた翌日は、オジィは昼からサキグワ(泡盛)を傾け、三線を奏でる。枯れた、透明な音色がヤンバルの森に滲みていく。
オジィはぜんぜん枯れてなんぞいない偏屈ジジィだが、サンシンの音色が澄みきっているのはなんでなんだろう。
そんな時にうっかり通りかかろうものなら、「うりゃ、ニセー(坊主)、寄っていかんかねぇ」。断ることは不可能だ。
もう今日は仕事にならないと覚悟しよう。
« ジルーと呼ばれる陶工がいた | トップページ | オジィたちのセンカアギー »
すんごい爺様がいたもんですね!
そうそう、ここって元々そういうまったりブログでしたわ。オイラが初乱入したのは「口蹄疫」について調べていた時にたまたまヒットしました。。
翌年には東日本大震災が発生し、国際情勢もキナ臭いことが多くてずいぶんと専門的な話になりました。ホント連日お疲れ様です。
こういう記事もいいもんですね。ホッとします。
投稿: 山形 | 2023年8月18日 (金) 06時10分
管理人さんおはようございます。
久しぶりの沖縄 山原ぐらしの話を楽しく読ませて貰いました。不思議な事に、中部で育った私ですが実際知らないはずなのに なぜか懐かしい山原の風景がよぎって来ます。私も小学校まで那覇市宇栄原に住んでましたが、今では面影も無い程の自然があり 山や畑、ハブ取りオジー、隣近所同士での調味料の貸し借り等 皆んな裕福では無いが幸せに輝いていた様な思い出が蘇って来ます。
投稿: | 2023年8月18日 (金) 08時40分
20年以上前に仕事で出会ったあるおじぃも、法令の話をしても「知らん!帰れ!」と言う人でしたが(微苦笑)、管理人さんのはまたキャラ強烈。
「いやああぁぁーハブぅぅ!!」というおばぁの叫びが裏庭から聞こえて、全員で慌てて駆けつけると、ハブは既にコンクリート・ブロックの下敷きになって藻搔いていた…遠い、蒸し暑かった夜のことを思い出しました。
似たような武勇伝は、同年代の友人知人の家にも。
きっとまだ多くのお宅にある、おばぁおじぃの伝説。
きっとまだ、いろいろな方々の記憶に残る、伝説のおじぃおばぁ。
投稿: 宜野湾より | 2023年8月18日 (金) 16時47分
両親ヤンバル出身ですが、那覇育ちの私がなんか郷愁を感じてしまいました。で、なんかこんな曲を思いだしたり。
https://youtu.be/x_2bTaeWlHo
投稿: クラッシャー | 2023年8月19日 (土) 00時38分