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2024年11月 5日 (火)

昭和古老の聞き語り

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今日は大統領選挙当日ですが、結果はたぶん4、5日後です。

さて、きのうの続きを少し。
昔々、今のお若い人は知らないかもしれませんが、かつて大政党だった野党に社会党という政党があったと思って下さい。
「昔陸軍、今総評」と言われた労組連合を後ろ楯にして大いばりのやりたい放題。
社会党はなんと139議席もとっていたのです。今の立憲くらいのサイズの野党第1党です。

そして1993年のこと、時の選挙で宮沢内閣が大敗し、自民党で幹事長までやった小澤という妖怪が党を寝返って新党をつくります。
というか、竹下派から追い出されたんですがね。
この時、若きゲル氏も一緒に自民に後ろ足で砂をかけておん出ています。

そしてここに、反自民政権の初号機が出来上がります。
これが共産党以外の8党派(!)による細川内閣で、自民は始めて野党に転がり落ちることになるのです。
中曽根康弘氏はこう言っています。

「そして小沢君は、ある程度の数が離脱すれば自民党より大きくなると算段して、一つの賭けに出たんですね。もう一つ、かれには金丸側近として力を持っていた時の過去を拭わないといけないという至上命令もありました。そこで、局面を転換して、金丸君の側近としての被告席から政界浄化の原告席に回ろうとしたわけで、それは一応、成功した。守旧派と革新・改革派の対決といった言葉の戦術をうまく弄んで成功した。そういう二つの要素があったと思います」
(中曽根康弘『天地友情 五十年の戦後政治を語る』)

細川政権は船頭多くして船山に登るという諺を絵で描いたようなガラクタでした。なにせ決まらない。
、小澤の持論であった2大政党制を目指した小選挙区制度はこの時に決まります。
ちなみに玉木氏は、当時財務省に入省して、米国留学に行くころでしたから、横目でこの騒動を見ていたはずです。
玉木雄一郎 - Wikipedia

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NHK

連立与党内の路線対立は収まらず、「もう少し踏ん張れば自民党は崩壊していたのに」という声もありながら、現実には政権運営は完全に行き詰っていました。
政治改革でひと山超えた後は、連立政権はもはや統一政権を維持できる求心力はなく、8党派が各党の生き残りと将来の政界再編をにらんだ主導権争いに狂奔するようになります。

「細川内閣成立後、連立を構成する政党の意見をどのように調整し決定するかが政治機構上の重要な問題となった。細川政権下で「与党代表者会議」が設けられ、与党5党代表幹事-書記長クラスで構成した。政治改革法案の内容の調整や増減税の方針を始め、重要な政策決定、さらに、予算編成の時期など重要な政治日程を協議決定し、閣議の上から政治全体を抑えているようにみえ、与党内の不満や分裂を招いた。
与党内では、選挙制度改革や消費税問題などで社会党と小沢が対立を深め、細川が無断で「国民福祉税」の導入を発表するなど混迷を極めた。1994年(平成6年)4月に細川内閣は総辞職に追い込まれる」
非自民・非共産連立政権 - Wikipedia

もはや方針で対立するより前に、お前のツラつき目つきが気に食わないという空気であったようです。
小澤は社会党が未熟で政権運営なんかできなかったからだと言い、村山は小澤が独裁制を敷いたからだと言うのですから、まぁまぁ、お平らにお平らに。

小沢一郎週刊エコノミストのインタビューで細川政権が短命に終わった理由を質問された際「素人が政権を取ったのだからしょうがない。イギリス議会制民主主義だって定着するまで時間がかかっている」と答えている
社会党委員長だった村山富市は、小沢との対立が、細川内閣が短命に終わった一因だと証言していた。村山富市によると、小沢は何か問題が起きると「社会党が足を引っ張った」と批判することが多かった。「七党一会派が政権を構成しているのだから政権運営にはかなり神経を使わなければならないのに、それがうまくできなかったことが大きい。だから細川さんは早く辞めざるを得なかったんだ」
細川内閣 - Wikipedia

ね、わかりましたか、政策も方針も政治手法も違う者同士の「反自民連立」なんぞ、たちまち内部対立が激化して自滅するのです。
この話にはまだ続きがあります。この連立政権の内ゲバにつけ込んで政権奪還を図ろうとしたのが、自民党の腹黒親父たちでした。

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小沢一郎氏が明かす「禁断の自社連立」「村山内閣」舞台裏|NEWSポストセブン

彼ら腹黒タヌキたちは、村山社会党委員長に取り入って、あんたを首相にしてやるから野党連立抜けて、オレらと大連立するべぇと誘ったのです。

「亀井静香は「自社さ政権は、最大野党だった自民党が、連立を離脱した社会党と組むウルトラCを考えた結果だった。自民党が政権復帰するために使える手をなんでも使うという執念から生まれたのだ。だからこの政権は、村山首相以外では誕生し得なかった」としている」
自社さ連立政権 - Wikipedia

かつての仇敵だった(といっても、いわゆる「55年体制」で裏では馴れあっていたのですが)社会党と自民党をくっつけようというのですから、天才的腹黒さです。
で、どうなったかといえば想像どおり、就任直後起きた阪神淡路大震災で、救援を待つ市民に違憲の自衛隊出動はさせんとズルズル決断を引き延ばして被害を大きくしてしまったり、後にそれを批判されると、「わしゃこんなこと始めてだったんじゃぁ」とペショペショ泣くは、G7に出せば腹を壊して役に立たないのですから、どうしようもありません。

結局、社会党は護憲反安保を捨てたのかと支持者に見放されて、バチが当たったのか解体。
かつて大政党を誇った社会党の末裔は、いまや首の皮一枚で政党要件を保てたと欣喜雀躍するような個人商店となってしまいました。
というように、仮に首相をちらつかされても無原則な連立なんかしてはいけません、という古の故事でした。
拳拳服膺(けんけんふくよう)するように。

 

 

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コメント

その前にリクルート事件や東京·新潟佐川急便事件なんてカネの問題で自民党がアップアップしてましたからね。宮沢政権で河野談話なんてのもその頃。
カネ問題では金丸信が逮捕されて中心にいた側近かつ47才で幹事長だった小沢一郎が離党。自ら素人の細川政権を立てて集権的院政敷いたくせに、細川のせいにするとか酷い話です。
93年政変は夏の記録的長雨と大不作で細川政権でコメの緊急輸入(MA米含む)を決定したりで、そのへんセットで印象的な年ですね。
とにかくその後分裂した連合政権は、とにかく常に小沢一郎の壊し屋っぷりに振り回されることになります。新生党とか新進党とか新党みらいとか死屍累々。。
ようやく2009年に悪夢の民主党政権という果実を得ますが、アレも麻生自民党の嫌われっぷりとリーマンショックがあってこそです。今の立民を中心とした旧民主党主流派が勝った訳ではありません。
今回の選挙では蓮舫に全く発信させなかったのは巧みな戦術だったと評価しますが。

当時の新生党には石破茂や鹿野道彦(後に新党みらい立ち上げるも新進党に合流)いたし、細川の日本新党には新人の小池百合子とかがいましたね。

村山が首相についた自社さ政権ではあの大野党だった社会党が社民党に党名変更。いざ首班になったらあのザマで、国会答弁では政府はと言うところを「我々社会党は」と何度も言い間違ったり、阪神淡路大震災でもオールド社会党の気分が抜けていないポンコツっぷりでした。もうすぐ30年になりますね。
あの震災の日は夜勤明けで酒飲んで、まだ寝室にテレビも無かったので、普通に夕方出勤して食堂で一服つけてると上司がやって来てテレビつけながら「何人死んだー?」と。
なんのこっちゃと思いながら画面にびっくりしました!何だ大空襲後みたいな神戸の空撮映像。。

まことしやかにささやかれているのが、自公と立民の大連立。
どうしても減税したくないZが暗躍して、自公立民の大連立を仕掛けてくる的な話が出てくる当たり、日本の政治、政治家の馬鹿さ加減にうんざりします。今日の記事の自社さ政権を思い出して、腹黒おやじならずザイム真理教信者なら、やりかねないかも?だって、自公も立民野田も大増税派ですからね。国民民主の玉木さんにいいようにやられるなら、増税派大集合しましょうなどと考えるや?も。野田さん首班指名しますんで、そこんとこよろしく!みたいな話もあるや?もしれませんね。
ま、普通に考えたらないことでけど。どんなことしても減税したくないZならやりかねないかな?

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