
抗日勝利80周年式典は、中露朝の三馬鹿大将が並ぶようですが、そこでのプーチンの発言。
「ロシア プーチン大統領
「偽りのロシア・中国脅威論を口実に、日本の軍国主義が復活しつつある。ドイツを含むヨーロッパ諸国は、過去の歴史を恥じることもなく、むしろヨーロッパ大陸の再軍備化をたくらんでいる。ソ連と中国の両国民が、ナチズムと日本の軍国主義に共同で立ち向かった経験は、我々にとって、永遠の価値を持つ」
(テレ朝8月30日)
中ロ朝3首脳が北京で一堂に 並んでパレード観閲へ(テレビ朝日系(ANN)) - Yahoo!ニュース
なぁに言ってんだか。この3カ国揃ってマトモに日本と戦っちゃいませんよ。
旧ソ連は8月15日に日本が敗戦を宣言した後に、日ソ中立条約を破って一方的に侵攻したもので、こういう行為を火事場泥棒、ないしは侵略と呼びます。
一方、朝鮮は国を成す前の抗日ゲリラでしたし、それも朝鮮人部隊としてソ連軍の一部に組み込まれていました。
独自に戦う力はなく、実績も皆無です。
この南北に共通する「日本と戦えなかった」という感情が、屈折した反日感情の源となっています。
ここが本当に戦って独立を勝ち取ったベトナムやインドネシアなどとは違うところです。
そして中国に至っては、日中戦争期はほとんどなにもしないで、辺境の洞窟に籠もっていました。
王毅外相が10年前こんな発言をしていました。
ほとんど暗号なので、市民語訳してみます。
「オレら中国は反ファシズム戦争の勝利者で、国連の創設国だ。中国は戦後一貫して国際社会の平和と安定に尽くしてきたんだ。
おいこら、ニッポン。お前らはオレらに負けたんだぜ。胸に手を当ててみやがれ。しっかりと謝罪すれば、70周年の軍事パレードに呼んでやってもいいぜ。アベ、ひざまずいて足舐めろ」
まぁ、いちおうこれでも外相なんで、ここまで下品じゃあないですが、似たようなもんです。
それにしても真実含有率ゼロという国家要人の発言というのも、なかなか見ることができないのではないでしょうか。
中国共産党という組織は、共産主義運動特有の白を黒と言い募る体質に加えて、中国古来の白髪三千丈のウルトラ誇張体質が被ってしまったために、もう言った当人も何が真実だかわけがわからないほど歪められてしまっています。
本来それを検証すべき歴史学も、あの国では官許学問ですから、当局の意見と違うことは研究できないし、仮にしても発表できません。
特に共産党が登場する近現代史は,共産党のイデオロギーに背いたことを書くことはまったく不可能です。
国営ファンタジーに抵触する日中戦争史などは、タブー中のタブーです。
従って共産党が「これが正しい歴史だ」と言えば、それがいかに史料的に矛盾していようがいまいが、事実からかけ離れていようと、これこそが「正史」になってしまうようです。
今の王毅の発言は短いものですが、まず国連創設メンバーだというのは、中華民国(台湾)だったのでウソ。
平和と安定は15回も対外膨張戦争をやった国には言われたくない。
なにより日本が中国(中華人民共和国)に負けたというくだりです。
はて、わが国は中華人民共和国様に負けましたでしょうか?
それにしても、国内向けには何を言おうとかまいませんが、国際社会で嘘八百を並べるのは、見ていて快いものではありません。
現実に、中国共産党軍(八路軍・新四軍)が、日本に「勝利」した事実が日中戦争にあったでしょうか。
米国ハドソン研究所はこんなレポートを公表しています。
「ハドソン研究所の報告書が指摘した骨子は以下の通りだ。
▽中国共産党軍が日本軍の主敵として日本の侵略と戦い、勝ったとする主張は共産党を美化する厚顔なウソだ。
▽1937年から45年まで日本軍と戦ったのは蒋介石麾下の国民党軍で、総計350万人の死傷者を出したが、共産党軍は延安地区に引きこもり日本軍とはほとんど戦わなかった。
▽共産党が日本軍との戦闘として宣伝する「百団大戦」も実際の日本側の犠牲は500人ほどで、共産党発表の4万6千人は根拠がない。
▽共産党の八路軍は日本軍との戦闘が少ないため被害も極めて少なく、戦死した軍幹部は左権将軍1人しか確認されていない。
▽共産党は戦時中に米軍と協力した抗日軍事活動も強調するが、中国での米軍の戦略情報局(OSS)は国民党軍との協力が主体で、むしろ共産党側は米軍工作員を暗殺の標的にさえした。
同報告書は以上のような記録を挙げて、今の中国共産党の「われわれが日本軍を破り、反ファシズムの抗日戦争、そして第二次世界大戦に勝利した」という主張はまったくの虚構だと断定した」
(産経8月30日)
中国の「抗日戦勝記念」式典は歴史の歪曲 米国の大手研究機関が報告書で「虚構」と非難 - 産経ニュース
さて、中国共産党が唯一大勝利したと言っている平型関の戦いを見てみましょう。
中国共産党ふうに言えば、「平型関大捷」と呼ばれ、大捷とは大勝利のことです。
別の言い方では、「板倉軍団殲滅戦」、時には「会戦」とすら呼称しているようです。
おいおい会戦とは、きわめて大規模な戦闘のことで、通常は数十万対数十万の戦闘を指します。白髪三千丈とはよく言ったもので、日中戦争では「会戦」規模のものは国府軍とのものも含めて発生していません。
では平型関の戦いについてケーススタディしてみます。
まずは中国側の公式発表です。
「盧溝橋事変から、すぐに日本軍は山西省に進入し、太原を手に入れようと企てた。国民政府はこれに対し太原会戦を組織、八路軍が山西の前線として会戦に参加した。9月に横暴な日本軍が平型関に向けて進軍を開始、平型関の東側に潜伏していた八路軍115師団がそれを攻撃した。この攻撃によって、1,000人 を超える日本軍を壊滅させ、多くの軍事物資を手に入れたが、これは”平型関大捷”とよばれる、中国抗戦以来の大捷(大勝利)であった」
中国人の反日感情の源泉―中国人が学んだ「抗日戦争史」 - ようこそ ...
これなど、日本人が書いているのでかなりすっきりまとまっているほうですが、中国社会科学研究部会の資料など、3行読むと頭痛がし、一頁読むと鼻血が出て、一冊読む頃には半死半生といったシロモノで、全編これ共産党讃歌と毛沢東個人崇拝の修辞の羅列、口汚いを通り越してカルト的日本呪咀の文が延々続いています。
どの国も多かれ少なかれ戦争には宣伝や誇張はつきものですが、全編プロパガンダ勝った勝ったと書いているのは中国くらいなものです。
なにせ大敗走を「長征」なんて書き換えてしまうんですから、もうなんでもアリですがね。
この平型関の戦闘の実態はどうだったかと言えば、日中両軍が激戦を繰り広げた相手は、ここでもまた国民党軍(山西軍)でした。
共産党軍(八路軍)が参戦したのはそのごく一部の局面で、丸腰の補給部隊をゲリラ襲撃して、物資を奪ったていどのものです。もちろん彼らの補給部隊襲撃など、その後の戦局にまったく影響を与えていません。
(写真 八路軍 完全に共産党軍でありながら、形式上は、第2次国共合作により蒋介石国民党政府軍に組み込まれたために、ややっこしいいことには中華民国旗を持っている)
概観しておきます。
日本軍第5師団(板倉兵団)は、1937年9月11日、河北省の蔚県を攻略して山西省に侵攻しました。
平型関は、下のGoogle Earthの写真をご覧いただければわかるように険しい渓谷の間を道がうねるという、守るに堅く、攻めるに難しい地形でした。
(平型関 険しい山道が続いていいるのがわかる。Google Earth)
ここに山西省を守る国民党軍・閻錫山5万の兵が、三線にわたる防衛線を敷いていました。
9月22日、板垣兵団は、平型関の正面から攻撃を開始し、以後7日間にわたって激戦が繰り広げられました。
地の利を得た国民党軍によって、一時的に後方を遮断されて、包囲されかかるのですが、援軍を得て包囲から逃れています。
この時、板垣兵団救援のために関東軍察哈爾派遣兵団(東条兵団)が、平型関の後背を攻撃し、9月30日に日本軍は平型関を突破することができました。
この1週間ほどの激しい戦闘で、日本軍の損害は死傷者1500名以上を数え、一方、国民党軍もそれを数倍する戦死傷者を出したといわれますが、詳しくは分かっていません。
で、どこにわが共産党軍は出てくるんだと王毅閣下がお嘆きになるかもしれませんが、ご安心ください。ちょっとだけ登場します。

(写真 中国共産党のプロパガンダ写真。当時八路軍には報道班員がおらず、後に別の場所で宣伝用に撮られたといわれる)
ただし、先に述べた激戦にはまったく出てきません。出てくるのは、平型関戦の末期の9月25日の頃です。
日本軍を攻撃した八路軍は、後に国家副首席となり、毛沢東の粛清を恐れて逃亡中に死亡したる林彪です。
若き林彪が率いる第115師は、平型関の北東約5キロの位置にある関溝村と小塞村に出没し、丸腰の招集兵を中心とした日本軍の自動車隊と輜重隊を襲撃しました。
林彪隊の襲撃を受けたのは、負傷者の後送と補給品受領のために霊丘へ帰還途中の第6兵站自動車隊と、冬服や食糧・弾薬の輸送に従事していた歩兵第21連隊の行李隊でした。 おそらく板垣兵団中、最弱の兵たちだったでしょう。
なにせ日本側の詳細な戦闘詳報によれば、武装は護衛と救援の2個小隊だけ、自動車隊で特務兵2人につき一丁の割合で支給されていた騎銃ぐらいて、ほぼ丸腰だったからです。
それでも日本軍側の戦死傷者は、約250名ほどです。
行李隊の生還者による襲撃時の凄惨な様子は、日本側の歩二一会編『浜田聯隊史』(1973年)という戦友会報に掲載されています。一部を抜粋します。
「谷間は前後方とも敵に包囲され、人馬ともほとんど戦死という悲惨な状態で、午後三時頃には敵に向かう者は一人もなく、敵は凱歌をあげて、谷間の将校行李、衣服、食糧等を掠奪して行った。また夕方までに敵は何回もやってきては、戦死者の腕時計、その他目ぼしい貴重品はほとんど掠奪して行った。負傷した者で辛うじて生き残っていた者、戦死体の下に横たわっていて助かった者は僅か数名に過ぎず、ほとんど戦死という悲惨な状況であった」
また『広島師団史』には、このような記述も見られます。
「阿鼻叫喚の断末魔の姿」「(中共軍兵士が日本兵の)遺体をあるいは射ち、あるいは刺して歩いた」
死体から金品や時計を盗んでは、倒れた日本兵を刺して回ったのだそうです。
現代の軍隊のやるこっちゃないね、まるで山賊。
そういえば、中共軍にはあの有名な「三大規律八項注意」というものがあり、その中には「ものを盗むな。婦人に乱暴するな」などという注意事項まで存在します。
こんなことをわざわざ軍規にするというのは、いかに中国兵にそんな行為が常態化していたのかわかります。
それはさておき、八路軍は9月26日、南京政府および中央日報社に宛て、次のような極端に誇張された戦勝報告を送ります。
「九月二五日、わが八路軍は晋北平型関で敵1万人と激戦を展開、何度も勇敢に突撃し、侵攻してきた敵をすべて撃滅し、平型関以北および辛荘、関沙、東跑池一帯などすへての陣地を奪取した。撃ち殺された敵兵の死体がいたる所に散らばり、敵兵の一部は捕虜となった。さらに鹵獲した自動車、戦車、銃砲や他の軍用品はすこぶる多く、目下整理中である。現在残敵は敗走し、わが軍によって四方を包囲されている。
八路軍参謀処 九月二六日」
(謝幼田『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか)
太字の部分がウソです。
日本軍側は「1万人の正規軍への攻撃」ではなく、後方から来る年配者が中心の2度目の招集兵でなる、負傷兵まで抱える非武装のショボイ補給部隊でした。
いうまでもなく戦車などは初めからいませんし、トラックは日本軍が敵に渡るのを防ぐために日本軍自ら火を放ったものです。
戦利品についても「小銃1千丁」としていますが、ありえません。
第一この部隊は武装している兵士が少なく、ほぼ丸腰だったからです。
したがって、鹵獲された車輌はゼロで、しかも八路軍は戦闘終了後に負傷者も全員殺害してまったために、捕虜はひとりも出なかったのです。
生存者は幸運にも死体の山の下で生き延びて、後に友軍に救助された人達だけです。
もちろん補給部隊へのゲリラ攻撃ですので、「陣地の奪取」などありえません。
包囲突破したのを「残敵敗走」とはいわんですよ。
他に「百団戦」という名前だけは勇猛な戦闘を共産党は鼓吹していますが、これも同じような鉄道輸送を狙った散発的ゲリラ攻撃にすぎません。というわけで、中国と日本の戦争において、戦争の初めから終わりまで一貫して敵だったのは中華民国であって、中国共産党はほぼまったく何もしておらず、したのは小規模の補給部隊襲撃ていどだったのです。
なおこの後、山西省を制圧した日本軍は、1945年8月の日本敗戦まで駐屯しますが、国民党軍に対して共産党軍が攻撃をしかける事件が相次ぎ、ついに1939年12月には大規模な戦闘に至っています。(晋西事件、山西新軍事件)
このような中国側内部での内戦は、」抗日戦争中もあいかわらず続いており、それを避けるために、日本側地域に逃げ込む中国人が絶えませんでした。
ちなみに台湾立法院(国会)外交・国防委員会・林郁方氏が、冒頭の王外相発言についてこう述べています。
「共産党軍が戦ったのは後方と辺境のゲリラ戦だけだ」
まさにそのとおりです。
※参考資料
防衛庁『北支治安戦 二』
歩二一会編『浜田聯隊史』歩二一会,1973年
山口歩兵第四十二連隊史編纂委員会編『山口歩兵第四十二連隊史』1988年
沢田久一編『宇都宮輜重史』1973年
陸上自衛隊第13師団広島師団史研究委員会編『広島師団史』陸上自衛隊海田市駐とん部隊修親会,1969年
謝幼田『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか』草思社,2006年
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