村の風景

村人が自分ひとりしかいないクチョーおジィ

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昨日、密造ジジィのことを書いたら、私が出会ったもうひとりのヘンツツおジィのことを思い出した。

その名は「クチョウー」です。なんのことやらだろうが、「区長」のことである。東京都港区の区長などという大仰ものではなく、字を束ねる自治会長みたいなものだ。

村の十数所帯を束ねる世話役というところか。私の村にもある。村内のもめごとや決め事があると、クチョーの出番になる。

その「クチョウー」おジィは、沖縄の山の中に住んでいた。ヤンバルのど真ん中、一番山々が連なっているところだ。東南アジアのジャングルを思い出していただければ、ビンゴである。

私の就農第一歩がこのジャングルだったのだが、そこにはわずか十所帯に満たない人しか住んでいなかった。

クチョーを除く村人は、下の町から山に上がってきた連中だったが、クチョーだけはいわば先住民だった。

実は、この村は一回廃村になっている。沖縄では村はソンと言う。たとえば東村はヒガシソンというわけだ。そして村はシマと言い習わす。

このシマは一度廃村になっていた。なぜって、学校がないからだ。今でもない。

だから、小学校にもテクテクとと小一時間かけて山を下らねばならない。そして帰りもリュキュウイノシシがブイブイいう山道をまた歩いて帰る。

高校ともなれば、名護の町中に下宿させねばならない。この負担に耐えかねて村人たちは去っていった。

村人がひとりふたりと去るごとに、おジィはサンシンを爪弾いて、島酒を酌んで惜別した。最後の村人が去って、おジィの友はサンシンと島酒だけになった。

そして廃屋だけが残った。今でも、竹藪と化した住居はハブ宮殿と化している。

クチョーの家だけは、竹のくし刺しを免れて、傾きながらも生きている。竹というのは、床下から畳をぶち抜き、天井までもブスっとやるのだ。けっこうこわい風景だ。

その屋根の梁にハブが家族で住んでいるのだ。コワイぞぉ。無防備で入ってはいかんぞぉ。首筋にポトリと落ちてきたら死ぬぞぉ。

クチョーおジィの家は、ガタガタの赤瓦に、庭にはバショウの樹があった。バナナの樹というとシャレて聞こえるが、バショウは赤い花弁を子供の腕の長さほど伸ばし、ピロピロと亜熱帯の風にそよがせているのだ。オシャレどころか、かなり不気味である。

おジィがどうしてひとり残ったのか。子供はとっくに下界の建設現場に行ってしまったし、妻には先立たれている。身軽なものである。

それに役場の職業欄には書けないが、彼はハブ採りだったのだ。ハブは儲かるのだ。ただし命がけだが。

下界の町の保健所に生きたまま持ち込むとたしか当時1万円ていどにはなった。保健所はこれで血清を作るのである。

ハブがお出ましになる早朝と夕方に、猟場である山を歩けば数匹は捕まる。一日数万円。いい商売かもしれない。ただくどいが、命がけだ。

クチョーというのは、おジィが廃村を認めていないからだ。役場は、何度か足を運び下界に親戚はいないかとか、なんなら老人施設もあるからと猫なで声で説得を試みた。

その都度オジィは、「うんにゃ、廃村ではない。ワンがいる」と 突っぱねた。それどころか、「ワンはクチョウである」とすら宣言したのである。まるで独立宣言である。

市としても、まさか強制退去させるわけにもいかず、渋々追認した。「そこまで言うのなら、勝手に名乗ってなさい」という気分だったのだろう。

かくして、ハブとヤンバルクイナ、そして自分ひとりしか住民がいないクチョーが誕生した。沖縄の山の中のことである。

■写真 梅雨の前に花開く赤いバラの花言葉は、「愛情 ・ 美 ・ 情熱 ・ 熱烈な恋 ・ あなたを愛します」です。あなたには贈りたい人はいますか?

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さようなら、私の好きなジジィ

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村のジジィが亡くなった。享年88。末広がりの歳で大往生だ。合掌。むしろ祝ってやりたい。

ジジィは、おっと、年長者に対して無礼な言い方だと思われるかもしれないが、おじぃさんというようなヤワなキャラではない。

彼は今でこそ大人しい老人ヅラをしているが、終戦直後の若い頃はハッパをしかけて魚を獲ったというのが自慢だった。もちろんいい子はやってはいけません。当時だっていけません。手が後ろに回ります。

もうひとつの自慢は密造酒作りだ。これも自慢することかと思うが、芋焼酎に関しては「夏子の酒」(←愛読書です)の杜氏のじっちゃんのようだ。

今でこそ、作るより買ったほうが安いので、大五郎の2リットルペットボトルを愛飲しているが、ほんとうは今でも芋焼酎のほうが好きなようだ。

ジジィに言わせると、主原料たる芋は今どきの紅高系などはダメだそうである。金時などもってのほか。

あんなクソ甘い芋だと、ベタベタに甘くて飲めたもんじゃない、と言いながら2リットル1980円の焼酎をお飲みになるのはやめていただきたいものである。

ついでに渋茶で割るのはともかく、オロナミンCで割るだけはゼッタイに止めてほしい。味もさることながら、色がシュールだ。マカ茶で割っていたのも知っているが、ジィさんなにを考えていたのか。

この芋焼酎用の芋はクールでハード(てなもんか)に甘くない農林100号のような、いまでは見向きもされない品種のほうがいいそうである。

ジジィはドブロクにも手を出していて、私がかつて新米で挑戦した時に、沸かないのでイーストを入れた話をした時には、歯がない口で5分間ガハガハと笑われてしまった。まったくかわいくない。

ドブロクは古米、古古米で作るべきだそうだ。考えてみればとうぜんで、新米を売って現金にして、子供を学校に通わせて、親爺はおもむろに残った古米でドブロクを作るのである。新米でドブロクなどは瑞穂の神様にバチが当たる、というわけだ。

ジジィに「夏子の酒」で仕入れた吟醸酒精米率6割などという知識をひけらかしたら、バッカじゃないかという目で見られた。なんという無駄なことを。これまたバチあたりで、百姓はそのようなことをしてはならないのである。

かつて「富乃宝山」を手土産に持っていったことがあるが、かけた茶碗でグビグビ飲みながら(ちっとは遠慮しろよな)、「なんだこの水みたいな芋焼酎は」とぬかしおった。

あの芋焼酎の革命児と言われた宝山さまを、水と抜かす。ムッとなる私にジジィは楽しげにウンチクを披露する。しまった、このウンチクモードに入るとともかく長いのである。

ジジィに言わせると、芋焼酎は栓を開けるとガツンとくる毒ガスを発生させねばならないのだそうである。あの独特のイモの悪臭、もとい香りが室内に立ち込めて、女房子供は屋外退避する、これがいいのだそうだ。

つまみはいらない。せいぜいが畑で採れたきゅうりかなすの漬け物。それも古漬け。ほとんどピックルス一歩手前の漬け物でグビグビやる。

漬け物がなければ、味噌をつけただけで充分。野菜すらなければ、味噌だけで充分。味噌がなければ、塩だけでも。

前にハムを持って行ったが、ひと口も食べなかった。若い村の連中のようにすぐにから揚げに走るということをしないのは立派である。というか、空酒タイプなのだ。体にいいはずがない。

しかし88まで生きて、最後まで飲み続けたのだから天晴れである。ジジィは棺桶に入れるより、大きな酒樽にでも入れて、上から酒を入れてやるのが幸せだったのではないか。

晩年は震災と放射能禍で、家業が壊滅状態になってしょぼくれていた。もう百姓ができねぇ時代になっちまった、というのがジジィの最後の声だった。

考えて見れば、震災と放射能が殺したようなものだ。

おとなしく極楽往生するとも思えないが、極楽の蓮池で酒を飲んでいるだろう。

私はこんなジジィになりたい。無理かな。

蛇足 最近堅い記事ばかりで、データとグラフばかりですね、と昔からの読者に言われてしまいました。4年前に始まった時は、こんなエッセイ調だったんですが、たまに戻ってみると、書くのが楽しいですね。これからもたまに書きます。

■写真 菜の花です。春から初夏にかけての田園は翠一色です。私の中まで翠一色に染まっています。 

 

 

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村の共産党の老人が亡くなられました

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昨夜、私の村の共産党員のご老人が亡くなられました。大往生でした。

海軍兵学校の最後の生徒で、戦が終わり帰郷する途中に立ち寄った広島の被爆地を見て生き方を変えたと、どこかでおっしゃっていました。

帰郷してから、自分の地主としての農地を小作農に分けたりして弱い立場の人に立っていきてきました。村で唯一の共産党議席を十数年に渡って勉めてきました。、

私は共産党の支持者ではありません。そうとうに考え方が違います。

しかし、村の中で共産党でいることの大変さはよくわかるつもりです。村ではつい最近まで「アカ」という言葉が生きている所でしたから。

自弁で軽自動車を宣伝カーとして、村中を走り回っていました。そしてこまめに村民の相談に耳を傾けました。

どうしても村は実力者に頼る傾向があるのですが、実力者にはもって行けない悩み事を持つ人は彼の家の門を秘かに潜りました。私も一度土地トラブルで悩んでいた時に、彼に相談したことがありました。

すぐにあれをしろ、これをしろと言うタイプではなく、まして選挙で入れろなどというわけでもなく、話をよく聞くタイプでした。相談するほうからすれば、なにかお坊さんに悩みを打ち明けるという風情です。

結局、私の相談事では直接の役には立っていただけなかったのですが、なにか心の支えを頂いたような気になりました。

彼への義理で長年「赤旗日曜版」をとっていました。正直に言ってほとんど読まなかったのですが、毎週お顔を拝見できることが楽しみでした。

ある時、思い切って「あまり読まないのでこれで止めたい」と申し出ると、しわだらけの顔を哀しげにされて、ひょっこりと頭を下げられ、「今までありがとうね」とひとこと言われました。

それが最後に見たお顔です。

村の中の大切なものがまたひとつなくなったような気分です。

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湖岸地帯の「のっこみ」文化

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「のっこみ」という言葉をご存じだろうか?茨城弁なのか、普通に使われる言葉なのかは知らない。私の住む湖岸地方ではただ「のっこみ」と呼ぶ。

湖は昔、といってもそう大昔ではなくたかだか30年ていど前だが、コンクリート護岸などという無粋なものはなかった。今は周囲250キロの湖はくまなくコンクリートで護岸されて、道路になってしまった。

今も昔もかわらずに、湖のほとりはだいたいが水田となっている。それはそうであろう。水を満々と湛えた湖の側から、人は田んぼづくりをおこなっていったのだから。

そしてやがて米作りは川沿に沿って拡がり、そして里山の内懐の褶曲のひとつひとつにも谷津田を作るようになっていった。何百年、いや千年単位の百姓が作り出した風景だ。

さて、「のっこみ」とはこんなコンクリートが湖とその周辺を覆っていなかった時代のものである。湖の淡水は周辺の乾いた岸辺や水田との間に中間域を作った。淡水は出入り自由であるので、それに乗って浅瀬に住む魚やドジョウ、ウナギが沢山住んでいた。

春ともなるとこのような浅瀬の岸辺のヨシやマコモなどの草むらには、魚が稚魚を産み、水鳥が巣を作った。湖に住む大部分の生き物にとって、この岸辺こそがつがいを作って巣を作り、子を育て、餌を採って暮らす豊かな地だった。

湖の周辺に棲息するヒト科のオスにとっても事情はまったく同じであった。春ともなればつがいをつくるべく湖岸で奮闘し、採餌行動も盛んに行われた。生物多様性だなどと堅苦しいことを言わなくとも、魚も水鳥もそしてヒトも考えることは一緒なのである。

私の村の友人は、子供の時にこの「のっこみ」で大いに遊んだそうである。夏休みともなれば、ドリルなどやらずに兄貴とウナギ採りのヤナなど作って仕掛けておく。夜になると、オデコに手拭いを巻き、「八墓村」よろしく懐中電灯を指し、照らされた顔がコワイので手に持ち替え、オヤジの地下足袋をくすねて「のっこみ」に出撃した。

そして安眠をむさぼっている泰平の魚を手編みですくうのである。懐中電灯を点けすぎると「魚を脅す」と兄貴に怒られ、近くで水鳥がギャーと警戒の声をあげればびびり、忍び足で沼地を歩くものだからコケると頭から泥だらけになった。

しこたま獲った帰り道に、しかけておいたヤナを点検してウナギがかかっていないかを調べる。ウナギは食べずに、近所の料理屋に持っていくとそれなりの値段で買い上げてくれるのでいいこずかいになった。

このよい子たちにはめいめい秘密のポイントがあり、これさえはずさなければ入れ食い状態だったそうである。魚からすれば夜盗に襲われたようなもかもしれない。

しかし、コンクリート護岸になってからこの「のっこみ」が激減したために、この湖岸の男の「夜の娯楽」は壊滅状態だ。私が知っている「のっこみ」のプリンスは、今や水上バイクでブンブン湖上を爆走している始末。コンクリートで固められた湖岸は、生物種多様性の消滅だけでなく、湖の辺に住む男の民俗の継承すら潰してしまったようだ。

文末ですが、先の大戦において犠牲になられた約310万人の同胞の霊に深く哀悼の意を捧げます。合掌そして感謝。

■写真 朝もやの霞ヶ浦。われながら印象派のできそこないのような絵である。

■蛇足的追記 私はなぜか軽い話題は「である」調で、重い話題は「です」調です。なぜなのかは私自身がわかりません。普通は逆な感じもしますが。ま、どうでもいいか。

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オジィ自慢の芋焼酎

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わが村の飲んだくれのジジィは昔、ハッパで漁をしたことがあるというのが「自慢」(になるかよ)だ。今やったらとうぜん手が後ろに廻る、いや、当時でも廻る。

 このジジィ・・おじいさんというにはあまりにアクが強いので「ジジィ」ということにするが・・の趣味は密造酒だ。密造酒にはうるさい。これまた、当然のことながら違法である。
 
 酔っぱらった(1年中だが)ジジィに、間違って密造酒のウンチクをタレさせようものなら、確実に2時間はつきあわされるはめとなる。芋はあまり甘くないほうがいいだとか、(これは別な密造家と意見が分かれるのだが)、蒸し時間は何分だとか、舟という道具で絞って、露にして、冷やして焼酎瓶に詰めてと、まるで「夏子の酒」の杜氏のようだ。
 ジジィに言わせると、今時の芋焼酎など、ちゃんちゃら可笑しいそうだ。先日、銘酒「富乃宝山」を手土産にもって行ったが、「ナンダ、この水みたいのは」と言う。ジジィ、これが今の芋焼酎の主流なんだゾ、と教えてやっても言うことを聞かない。
 ジジィに言わせると、芋焼酎というのはガツンっと来る香りがあって、呑むとブワーっとならないとだめだそうだ。栓を開けると部屋の中に焼酎のあの香り、というかニオイが立ち込めて、女衆は鼻をつまんで皆逃げ出す、子供はおびえて泣く、というのが芋焼酎の大道だそうである。
 つまみはそこらに生えている行者大蒜か、キュウリと自家製味噌でもあれば充分。ハムなど持っていこうものなら、「こたらものは合わん。酒の味がわからなくなる」と口にしない。なければ、味噌と塩だけでよさそうだ。実にハードボイルドである。
 密造酒は、かつて私も作ったことがある。コシヒカリの新米を使った。湧かない(発酵しない)ので、イーストをぶち込んだ。ものすごい味のドブロクになってしまった。ジジィにこの話しをすると、歯のない口でギャハギャハと大笑いされてしまった。
 「新米を使う根性が悪い。新米が出来たら、余った古米で作る。麴はまじめにたてろ。麴がすべてだ」そうである。まことにごもっとも。
 今は買ったほうが安いので情けないことに、熊五郎のダブルボトルなどを呑んでいるが、ほんとうはかつて作ったイモ密造酒のほうが好きなようだ。

 

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蓮の華が咲きました  水鳥と人間様の隠れたバトル

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蓮の花がポンと咲き始めました。咲く時にポンっというそうですが、聞いたことはありません。一日にいくつも咲くので、ほんとうにポンっというなぱ、蓮田はポンポン景気のいい音で満たされていることでしょう。

蓮の田んぼの床土は、焼く前の粘土の器のようになっています。肌理の細かい粘土を練って練って作り上げた巨大な器です。肌理が粗いと、てきめんに蓮が上から押し潰したような歪な形になるそうです。楕円形ですね。よく練られた床土は、伸びやかに蓮の地下茎が伸びていくので、綺麗な円形に近い形になります。

私の村は湖にはさまれているので、北浦と霞ヶ浦の両方から水鳥がお越しになります。彼らはこの蓮がお好きとみえて、特に出始めた芽を珍味じゃとばかりにつついて食べてしまいます。

芽を食べられれば、人間様は困りますからあのてこのてで防ごうと知恵比べとなります。まずは昔懐かしき案山子ですね。今どきの水田で案山子が見られるというのは、蓮田くらいなものでしょうか。

あんがい初めは水鳥もダマされるようです。しかし、すぐに憎たらしくも、案山子の肩に止まったりするようになります。糞までかけるヤローもいます。

そこでお次は、テープです。キラキラ光る金属テープを田んぼの左右から掛け渡すわけです。あんまり見よいものではなくて、せっかくの美しい蓮の田んぼが、テカテカと光るテープでラッピング(はオーバーか)されます。

これをやられると水鳥はうまくスッポリと入っても、飛び立つ時に羽根がひっかかるとみえて不満げなギャーという声を上げて通過することになります。

これで一安心かと思うとこれが甘い。テープはひらひらと軽いので、強風ですぐによれたり、吹き寄せられて塊になったりするのですな。サッカー風にいえばスペースができるわけです。

このスペースを、戦術眼が異常にいい水鳥が見逃すはずがありません。そこからフワリと見事な着地を決めて蓮の芽ランチをお召し上がりになります。やれやれ。

そこで人間様デフェンダーはまた張り直して、吹き寄せられ、また張っては・・・ああどこまで続く水鳥とのバトル。

まぁ、農薬一発かければと思うんでしょうが、確かに農薬をかけられた蓮は水鳥は食べようともしません。では、これでいいのかといえば、農薬は田んぼの中のニュニニュルの微小生物(←ミミズともいうね)を殺してしまうので、今度は床土がカチカチになりかねません。

すると蓮が押しつぶされたようになり商品価値が下がってしまいます。で、そうも農薬に頼れないので、案山子をつくり、人によっては怖そうなお面まで被せ、息子がヤンキーやっていた頃のバイクメットまで乗せ・・・ああ涙ぐましい。

そろそろ村の人口が増えるお盆となります。夜は湖の花火。そしてあちらこちらで開かれる夏祭。奉納相撲。字で競う山車。

日本の夏は田舎がいちばんです。川南の村でも今年は夏祭があるのでしょうか。

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ご当地名物のメロン漬け

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なんの漬け物かなぁ?わかったらエライ!
え~これが、ご当地名物のメロン漬けです。メロンっすよ、メロン。あの果物のメロン(しつこい)。

わが地域は海岸に向けて全国でも有数のメロンの産地です。水はけのいい地質と温暖な地のりがあっているのです。そのわりには、夕張なんかに比べてぜんぜん有名じゃないんだな、ま、いかにもわが県らしいといえばいえますな。

わが県は全国二位の農業県でありながら、ブランドがあるようなないような。このメロンなんざ、全国2位でありながら知られていないでしょう。日本一のB級ブランドの汚名を晴らすべく、なんとかブランド化しようと努力が続けられています。

さてこのメロン、摘果といって小さい果実から取っていくのです。そうしないとちっこい果実ばかりがコロコロ成ってしまうわけです。こうして大きく立派なメロンとなります。

この摘果の時に出てきたのがかなりの量の小さな青いメロンです。同じウリの仲間ですので、味は要する瓜。目隠しされて食べさせられれば、ハヤトウリと間違います。いや待てよ、ほのかにメロンの香りがしますぞ。ん、なかなかいける。あんがい全国販売したら売れるんじゃないかな。

しかし残念、東京の市場までわざわざ出すほど量がありませんので、ご当地の直販所で一瞬の風のように登場してはなくなるという季節&地域超限定の一品です。食べ方はぬか漬けもいいのですが、ご当地の主婦の皆さんのお勧めはやはりあっさりとひと塩しての一夜漬けでしょう。

今年は日照不足と低温で、今ひとつ成長が良くないとメロン農家は嘆いていましたが、農家の気も知らぬ気にこの摘果メロン漬け、香りを楽しみながらコリコリポリポリと実に美味なのであります。

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東京タワーを作ったのは、このオレだ!

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少しばかり温かくなったような気もしますが、まだまだ寒いですね。三寒四温とは良く言ったもので、最低気温が零下4度、5度が4、5日続いた後に、2度ほどになると急に温かいと思うのですから、不思議です。

わが村の梅がそこに一本、あそこに2本と花を咲かせ始めました。農家は2月の声を聞くと、いっせいに忙しくなります。夏野菜や米の育苗、冬から春先に起こしておかねばならない畑や田んぼが待っています。仕込んであった堆肥も、一緒に撒いて、トラクターでかき回します。

堆肥を畑に入れられる時期は年に何回もなく、この冬から春先と夏野菜の前の大きく2回です。だって畑が開きませんもんね。

土壌せん虫の被害などは冬の天地返しでかなり防ぐことがでます。そりゃ虫もヌクヌクとお休み遊ばしていたのに、いきなり酷寒の野天に放り出されれば、寒いよな。この冬のひと手間があって、温かくなった5月以降の作柄が違ってきます。

昔、冬は東京に出稼ぎに行ったそうです。当時は今のように重油を燃やして加温するなどもったいなくて出来なかったし、セリやレンコン栽培も普及していなかかったためもあり、秋の稲刈りが一段落すると、東京に出稼ぎに行ってドカタさやっただ、というのが近所の農家のジィ様の話です。

初めは山谷にいたのですが、沖仲仕のほうが儲かるということで横浜の寿町にまで行ったそうです。しかし、コトブキは気性が荒く、毎夜のように賭場が開かれていて、出稼ぎのおいちゃんの虎の子の札が舞っていたそうです。くわばら、くわばら。
ジィ様(といっても当時は30代のバリバリですが)は、賭場の借金で首が回らなくなり、故郷に帰れなくなった仲間を見てチビって山谷に戻ったそうです。

東京タワーを作ったという豪の者もいて、その孫に言わせると映画「三丁目の夕陽」などを借りてきたら、いつもは抜けた歯で茶碗酒をしゃぶっているようなジィ様が、がぜん元気となり、あの展望台の工事さ、オレがやったのだとポロポロ涙したとか。

秋から春のだいたい5、6カ月間くらいの出稼ぎは、そこそこにまとった金になったそうです。この金で子供を学校に通わせたり、妻や子に新しい服を作ってやったりしたのでしょう。

別のジィ様は、冬ともなると福島の方まで牛を買いに出かけたそうです。牛のセリでいい牛を落としてオンボロトラックで村に連れて帰り、かねてから話をつけていた牛飼いに高く売り込むのだそうです。うまくするとけっこうな儲けになったとか。いわゆる馬喰(ばくろう)ですな。

こうして3月くらいまで働いてから村に戻り、田んぼをうなって、水を引き、農民最大の行事、田植えが始まります。

30年代の大恐慌時代の米国をさすらって歌ったピート・シーガーの唄に、「この橋を作ったのはおれたちだ」があります。その一節を思い出しました。


・・・オレの先祖や子孫には偉い奴などひはりもいない。けど、石炭掘って、橋を作り、この国を作ったのはこのおれたちだ・・・そう、この国の土台を骨をきしませて作ったのはこんなジィ様たちだったのかもしれません。

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秋の空は高い、飯がうまい!

_edited秋の空というのは高いですね。そして雲の美しさも一年で一番です。こういうのを日本晴れと言うのかしら。

今村は芋の収穫の真っ盛りです。雨が多いので、その合間に掘り出していきます。雨のために土が柔らかくなって、芋にへばりついてくるかんじです。同じ収穫量でも湿った土の分、ずしりと重いのです。腰にきます。洗い上げて、計ってダンボールの出荷箱に詰めて、長かった芋の栽培も今年はお終いです。一部はケアリングという保管庫に入れて越年です。

芋に関しては、米と違って堀りたてより、年越しのやや水気が抜けたほうがおいしいと僕は思っています。甘味が凝縮するとでも言うのかしら。食べ方はなんて言ってもやっぱり焼き芋でしょう。うちではオーブンに入れて250°で30分焼きます。ゆっくり加熱しないと芋のでんぷん分解酵素アミラーゼが活発にしならないのだそうです。

昨夜は、秋の野菜味噌汁を作ってみました。サツマイモは皮をむき、一口大に切って、水にさらしておきます。さらさないと黒くなりますよ。具は秋の野菜オンパレード。にんじん、ごぼう、タマネギ、ねぎ、それとお豆腐にこんにゃく。これだけでおかずになっちゃいますね。昨夜はこれにサンマの塩焼きと新米でした。日本人に生れてよかったぁと、しみじみ秋の夜。

沖縄や南九州では、芋ご飯を作ります。さつまいもをサイコロ切りにしてさらし、出し汁、酒と塩を少々くわえて芋をと炊きあげます。食べる時にゴマをハラハラとかけて下さい。

栗が大量に採れたので、煮て、殻からスプーンでこそいでジャムにしました。大部分はプレーンですが、一瓶はラム酒、一瓶はココナツ酒をちょびっと入れてみました。蒸し器でしっかり抜気して食品庫に。

中国の猛毒インゲンのことにコメントしようと思ったのですが、あまりに続くのでややげんなりこっこ。皆さん、自分の国の風土から生れた食をたべましょうよ。外国からの農産品はまずいだけじゃなくて、その国の汚染やテロ(今回はたぶんテロ)まで持ち込んでしまうんですから。

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秋茗荷が出てきました

Img_0017  秋茗荷が出てきました。私の秘密の場所です。連れ合いと私と、ワンコロしか知りません。

 初秋の頃には一面の茗荷の原になります。茗荷は日陰を好みます。ですから、こんな雑木林のちょっと開けた場所に、片寄せ合って生きているわけです。

 現在市販されている茗荷は当たり前ですが、栽培ものです。夏の冷や奴や鰹の叩きには欠かせませんが、薄ぼけた味です。自生している茗荷は鮮烈に「あたしはミョーガ!」と叫んでいます。この近くには蕗(ふき)もあって、文字どおり路の端に列をなしています。福寿草やタラの芽など、食べられる小径なのです。

 今は、農家は忙しくてこんな恵は誰も目を向けなくなってきています。柿さえもカラスがついばむだけ。ましてや渋柿にいたっておや。ですから、採らせて下さいと卵のお礼など持っていくと、喜んで採らしてもらえるのです。渋柿はヘタを縛って軒に吊るしておくだけで、素晴らしいお八つになります。これも中国産の干し柿とは似ているのは外形だけ。あのムニュとした食感と、ほどの良い甘さはたまりません。和菓子の甘さの原点は、この干し柿にあるという話しもあるくらいです。うちには2本柿の木がありますが、渋柿が一本欲しいねなどと言っております。

 Img_0013 下の写真がなにかわかったらえらい。答えはアシタバです。しかも自生しているアシタバです。葉の先を摘んでおひたしやチャンプルーにします。この季節はドクダミの花が満開です。これも茎から摘んで、陰干しすると動脈硬化予防や利尿に効く薬草茶になります。

 私は畑でチマチマと作るより、こういう里山の頂き物のほうが好きだなぁ。どうもまっとうな農家にはなれそうにないですね。採取農家なのかしら私らは。

 このうっとおしい梅雨の季節、里山を下ばかり見て歩き回る私たちです。あ、そうそう、秋になれば上も見ますよ。アケビがたわわに実る場所を知っているんですから。

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