沖縄での暮らし

ハブ様には出会わないのが一番、もし遭遇してしまったら・・・

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皆様がお嫌いなニョロニョロのお時間です。そうですか、頂戴したコメントを読んでやはり天を仰ぎました(←大ゲサな)。やっぱりヘビはダメですか。

多いんですよ。人類の半分、いや3分の2はダメなようです。その分、残りのヘビ好きはかなり偏愛モードの人もいるようです。

私はさほどではありません。怖くないと、よく見ればキレイではないかの間くらいです。本土でもヘビくらいは見ていましたが、脅威として認識したのは沖縄に百姓修行に入ったあたりからです。

僻村というのもおこがましい、ヤンバルの究極の過疎の村に就農してしまったのですが、電気が本島で最後に通った村などとニュースにされていたような場所です。

当然、そここに空家がありますわな。入り口が壊れていれば、つい入ってみたくなりますが、それはおよしになったほうがいい。その空家はハブ様ご一家のお住まいです。

梁の上に優雅にのたくってお休みになっているハブ様の眠りを妨げようものなら怒りの急降下爆撃に遭遇するはめになります。

というわけでせっかくですから、ハブ採りクチョーおジィの防衛法を伝授いたしましょう。

まず絶対原則。アブナイ場所には行かない。な~んだという人は呪われるでありましょう。思いつくままに危ない場所を書き出してみます。

・石垣・瓦礫・・・石の隙間におられる場合濃厚。見つけると部落総出で石垣を崩して捕まえてしまいます。
・空家・・・死にたければどうぞ。
・側溝・下水・・・こういう湿り気の多い場所は大のお好き。繁華街の下水にもいます。
・森の淵・・・涼しいところはたまりません。
・小川の近くの草むら・・・同じく。泳いでいるのを見たことがあります。
・木の枝・・・昼寝に最適。ポトっと落ちてきます。
・夜の道・・・夜道で枝をまたがないということをよくシマンチューは言います。
・床下・天井・・・理由は分かりますね。だから沖縄には忍者はいません。
・草むら・・・いかにもあぶなそうでしょう。やっぱりあぶないんです。

まぁ要するに、涼しくて、湿りけが適度にあって、身を隠す空間があるような場所がお好きなようです。

那覇の桜町という繁華街の側溝で2mの大物が見つかったことがあるそうです。繁華街は残飯を食う太ったネズミが沢山いるので、ハブ様絶好の猟場。ネズミ獲ってんだから、人間から嫌われる筋合いじゃないと思いますがね。

万が一、いや本島では万が千くらいでいるところにはいますが、ハブ様に遭遇した場合はいかがいたしましょう。

クチョーおジィからひとこと。「逃げるしかないねぇ」。そう逃げるしかありません。ただし、その場合なけなしの勇気をふるってハブ様をよく観察して下さい。

その時ハブ様がニョロニョロと道脇の草むらに逃げ込もうとしていたら、なにもしないで静かに見守ってやることです。これはハブにとって逃避・無害モードだからです。

逃げようとしているのに、こっちが棒で叩いたりしたたら、ハブ様は「なんでなんや」と反撃モードにスイッチしてしまいます。

反撃・攻撃モードに入った怒りのハブ様は本島における食物連鎖第1位だけある恐ろしさを見せます。

まずはそのデルタ・ヘッドを優雅にもたげてSの字に鎌首をもたげるでしょう。おお、これが亜熱帯最強のハブの攻撃準備態勢なのです。Sの字を軽く前後に振り子のように揺らす仕種は、間合いを測っているのです。

このSの字態勢のハブを見たら、ゆっくりと間合いを開けていきます。つまり逃げるんです。ただし、正面を向いたままでゆっくりと、ゆ~くりと後ずさりしてください。

間違っても後ろを向いてヒャーなどと叫びながら逃げないように。ハブ様はそのヘタレ声を合図にしてミサイルよろしく飛んできます。成体ならば軽く3~4m飛んできます。

ひとことで3~4mといいますが、実感で言うと、「えっこんなに遠くまで」というほどの距離ですのでお気をつけ下さい。

漫画だとシャーとかの擬態語がつきますが、まったくの無音。だからいっそう怖い。そして逃げようとしている足のフクロハギにカプッ。短パンならばそのまま一本。ジーパン程度でも牙は貫通するでしょうね。

その牙から、神経毒じゃなかった出血毒(南の島様ありがとう)が注入され、牙は引っかかったまま抜けなくなります。

この毒は消化酵素の一種でハブ様は食べる前に獲物を消化しておこうということなのだそうです。ですからジワジワとあなたは生きながら消化れさていくことになります。こわいぞぉ。

ま、それはオーバーで、噛まれた部分が壊死してやがて死に至るわけですが、今は血清治療が確立して100%助かりすます。だから、大急ぎで噛まれた部位の上の動脈を縛って、血清を打ってもらいに病院か、近所の家に駆け込まねばなりません。

ちなみに、沖縄北部の部落には必ず血清と注射器などの医療器具は常備してありますからご安心を。

■写真 わが村の風景。郵便屋さんが入ると絵になります。

■明日は臨時休業いたします。

 

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ハブという可愛い奴がいる

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ハブという可愛い奴がいる。

チャーミングな目は輝く金色。体型はあくまでスリム(←あたり前だ)。頭は優美なデルタ。くわっと開いた顎からはふたつに割れた舌がピラピラとのぞく。

嫌いな方にはたまらないだろうが、私のような蛇がキレイだと思う人間にもたまらない。

第一、噛まれたら死ぬ。死なないまでも噛まれた場所が腐っていく。シャレにならない。

初対面は今から30年前のことだ。所は沖縄の農場の納屋だった。

仕事をしていた私の横に天井の梁からボテッと落下した奴がいる。なにか雑巾でも落ちて来たのかと初めは思った。

それがハブだった。私の数メートル横にいた鼠を襲ったのである。瞬く間にくるくると鼠を頭を残して巻き上げ、おもむろに最後に残った頭をカッと顎がはずれんばかりにしてカプッ。

哀れ鼠は凍りついたままクイクイとばかりに呑み込まれていく。最後にシッポが今生の名残を残すようにひらひらとうち振られて往生。

それまでに数分とかからなかった。唯一の観客たる私もまたネズ公のように凍りついたままだった。

だってあなた、もう数メートルハブがハズれていたら私の首筋にカプッですぜ。そうしたら私は享年32歳でたいして惜しまれずにナンマンダブだった。

腕や指を噛まれるのとは違って、首筋の動脈にハブの神経毒をもらったら命はない。

何回か登場しているクチョーのオジィの右手の小指は曲がったままだが、オジィに言わせると手首だったらアウトだったそうだ。

この時は幼体のハブを放してやろうとしてやられたそうだ。仏心がアダになったさぁとはオジィ。

クチョーは調査には職業農業などと書いているが、ほんとうはハブ採りで金を稼いでいる。一日3匹もつかまえればウン万円で名護の保健所が買い込んでくれるのだそうだ。

狙い目は早朝と夕方。蛇は涼しいうちにしか仕事をしない。涼しい水際か、森の淵でハンティングをする。

私が遭遇したようなまっ昼間は例外である。あの時ハブは梁の上でうたた寝をしていたのであろう。そして人の気配で目覚め、眺めるともなく見ていると、マヌケな人間(←私だ)の横にご馳走がある。

ハブはやや迷いながらも、人間がボケてそうなのでついご馳走を食べる衝動に勝てなかったというわけだ。

クチョーにその話をするとかなり珍しいケースだそうで、ハブは人がいるとじっとしているそうである。人がチョカイを出すして危険を察知すると、ようやく反撃に出るのだとか。

後に私は、牛舎でハブと一対一のガチンコ勝負をすることになる。

それにしても、私がカエルやヘビが好きだというと信じられないというような目で見る人が多いのは、残念である。

あんな見事な生き物をと私は思う。私には美しい花のように見えるのだが。

■写真 まだ青いホオズキ。わが農場は自生して群落になっています。

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ヤンバルの共同売店

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私が知っている沖縄は、本島北部のヤンバルといわれる地域です。

今はどうか知りませんが、私が住んでいた当時は売店ひとつない地域がごまんとありました。

たまにあっても、なんとしたことか定価より高いのです。定価100円の上に120円などという手書きシールがペタっと貼ってあるのです。

こんなものは初めて見ました。激安デフレの時代にまっこう楯突く地域、これがヤンバルでした。

本土から那覇に来ると、値引きどころか定価維持で精一杯、それが国道58号線で下るにつれてだんだん高くなり、名護を超えると割高セールとなってしまいます。

それも割高であろうがなんだろうが、売ってくれる商店があればこそですが、それがないのです。食品店などがあるのは名護まで。それ以北は店すらありませんでした。

日航オクマリゾートがあるって?あれはナイチャーの作った租界地です。

ないとなると名護までいちいち出かけなければならないのであまりにも不便、というわけで「共同売店」というものを作りました。

ムラの人たちが、資金を出して小さな店を作り、商品を買い入れて、あんまーやネェネェが替わり番で店番をするのです。

新聞もここに取りに来ます。ちょっと集落から離れた場所の人は、郵便もここに置いてあります。

私の住んでいた場所は、本島北部脊梁山脈の真上の猫の額のようなウルトラ過疎地だったので、郵便屋に来いというほうが無茶です。

毎夕、共同売店に出かけて新聞を取って、郵便をもらうという生活をしていました。そのとき必要な買い物をするのですが、当時は米軍の横流し物資が悪びれもせずに売られていました。

バドワイザー120円、オリンピア100円、島ビールのオリオン180円といった具合で、私が島暮らしをしていた当時はオリンピアという水みたいなビールしか飲んだことはなかったですね。あ、そうそう、アサヒやキリンなど影もなし。

島ビールは復帰特別措置法の酒税軽減でそうとうに優遇されていたはずですが、なぜか米国産ビールに価格では太刀打ちできませんでした。

ま、そりゃそうだ。アメちゃんビールは米軍基地のPXからのもので、基地に勤めている知り合いから買い込むのです。

そもそも米軍基地のPXは在外駐留米兵のために価格を下げてしいるのですから、かなうはずがないのです。

ですから、ヤバルで老人会や豊年祭があると、おジィ、おバアがサンシン片手に飲むのは、バドワイザーと決まっています。

本土に帰ってから、若者たちがナウ(←死語)に「バドくれ」などと言っているのを聞くと、私は「バドワイザーはヤンバルではジジババビールだぜ」、と可笑しかったものでした。

午後、牛にやるグヒチ(カヤ)を刈りにポンコツトラックで北部を回り、1トンほど刈り取り、シャツを絞れば汗がしたたるようになった帰りすがりに寄る共同売店。ありがたかったですね。

そこで一本のオリンピアとテンプラ(さつま揚げ)を1枚買い込み、私ひとりしか知らない東シナ海の蒼い海がみえる眺望の丘で飲む一時。

ああ、あれが人生の至福というものでしょう。

■写真 ムクゲに寄り添うアゲハチョウ。

■今週から土日をお休みとさせていただきます。ちょっと毎日更新じゃあ続かなくって。

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年の瀬になると思い出す一杯。ヤンバルのオジィの沖縄そば

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ほんとうに長い1年でした。こうして平穏な大晦日が迎えられるのが嘘のような気分すらします。改めてこの拙いブログをご支援いただきました皆様、そしてお越しいただきました皆様に心より感謝を申し上げます。
 

などと書いているとホウシャノウという文字が脳裏に明滅してしまいますので(苦笑)、かくてはならんと今日は沖縄の年越しそばのお話。  

沖縄には、「沖縄そば」という面妖なものがあります。上の写真はわが家の沖縄そばですが、ご覧のとおり蕎麦粉などは耳掻き一杯も入っていません。  

蕎麦はその気になればヤンバルでできそうなものですが、島内で「そば」といえば問答無用にこれです。これしかありません。すばともいいますが、私が居た時には「沖縄そば」とだらだら言う奴はいなかったな。  

ただ、きっぱりと決意を眉間に込めて「スバくれ!」。これが島の男さぁ(←てなもんか)。 

いわゆる日本そばは「黒そば」という気の毒な名前で呼ばれていて、ほぼまったく食べないのではないでしょうか。私が居た頃は日本そばの店は、那覇の松尾に一軒しかありませんでした。なんかカトマンズの日本食レストランという雰囲気。  

ちなみにラーメン屋は太陽軒という店がただひとつでした。懐かしくて、ヤンバルから那覇に上京するたびに食べていました。今は増えたでしょうね。  

沖縄そばは、麺はラーメン文化圏のものですが、出汁が日本そば文化圏、それも関西そばのものです。  

腰のある平打ち麺にカツオだしのお汁、具にはカマボコ(カマブク)と三枚肉がデロンと乗ります。今日は写真に撮るので、見栄を張って3枚乗せてみました。普通は1枚で充分です。

そしてマストノットアイテムとしては、紅生姜とわけぎ。これがないなら食べないほうがましというものです。三枚肉はサイフの都合で入れなくとも、これは入れましょう。  

写真右の瓶はヒバーチ粉です。原音忠実主義で言えばヒファーチ粉です。島胡椒のことで、八重山特産のペッパー類の一種らしいですが、風味はまぁ嗅いでみて下され。強烈エスニックです。

いわゆる私たちナイチャーが知っている胡椒とはまったく似ても似つきません。クセになります。実は私はこのヒーバチ粉を石垣島で知り、以後肌身離さず持ち歩いていた時期があります(←オーバー)。  

八重山ローカルな香辛料で、本島ではまったく使いません。本島では島唐がらしことコーレーグースーを死ぬほどかけて大汗をかきながら食します。 

要するに、鰹出汁の効いた塩味ベースのスープに、カンスイが入りうどん、それにラーメンのようなトッピングが乗る、というところでしょうが、説明すればするほど、まぁ現地で食べて下さいというしかない沖縄人のソールフードです。  

この中華風と和風のフュージョンがいかにも沖縄風で、この島の歴史の両属性を象徴しています、な~んてつまらない講釈はさておき、私はこれをヤンバルの山奥から名護に出るたびに食べていました。  

岸本食堂という、今や観光ガイドにも出て本土のネイネイまでがやって来るお店になってしまいましたが、当時から「輝け!ソーキそば発祥の店」として有名な存在でした。  

あの小ぶりな丼からはみだうそうになる、というか現にはみ出している骨つきソーキ(アバラ肉)の層をかき分けるようにして食べるソーキそばは、お好きな方にはたまりませんが、本土のお客さんはだいたい食べ残すようです。見ただけで腹一杯になりそうですもんね。 

ところでこの沖縄そばは、起源はやたら古いのだそうですが、戦前は小麦が島内で取れないために内地からの輸入で、そうそう庶民がめったに口に食べられるようなものではなかったそうです。  

盛んになったのは戦後に米国が大量に持ち込んだ余剰小麦がガバガバあったからで、それに先島特産のカツオ節のだし汁をかけたわけです。 

本来の沖縄そばの麺はカンスイを使わずに、ガジュマルの灰を使います。私の住んでいたヤンバルのオジィは車など持っていなかったために、そばは自分で打っていました。  

一度だけ年の瀬にお相伴させていただいたことがあります。麺から打つのですが、カマドにある灰をかき集めてその上澄みを掬い出します。あれはイジュの枝だったような、ま、いいか。  

そしてこの灰汁汁を入れながら小麦粉を打ちます。灰汁を練り込む以外はまったくうどんと一緒ですね。  

練って寝かせ、伸ばして折り畳んで、ザクザクと切っていくわけです。いや太かったですね。ただでさえ太打ちの沖縄そばが、超々太打ちとなり侍り。  

しかしオジィが根性を入れて打っただけあって、バラバラになることもなく(なったらスイトンだ)、えらく腰のすわった沖縄そばになりました。麺はヤンバルの樹の灰汁で染まってほのかな美しい黄色。 

超々太打ちとあいまって、もはや見た目はほとんどカンピョウみたいでした。 

これに朝からガリガリと私にかかせたカツオ節が参ったかというほど入ったカツオ節臭い、いやもとい、黒潮の香りも高い汁に、そこにオジィの汗がしみこんでいる(しまった。思い出してしまった)噛むと快くプチッと切れる麺がまた最高の沖縄そばでした。 

具ですか。共同売店で買ったカマボコの切れ端が乗っていたような。ワケギはニラだったような。さすがニラは勘弁なので、どかして食べた記憶があります。紅生姜?そんなものはハナっからありません。 

しかし、それまで食べてきた沖縄そばで、最高の一杯だったことは確かです。オジィが上機嫌で、ウサガミソーレと言って出してくれた年越しそば。親指が漬かっていたような気がしますが、年の瀬になると今でも思い出します。 

皆様、来年が良い年でありますように祈念いたしております。来年こそ、この列島に住むすべての人が幸福で、支えあって暮らしていけますように! 

■写真 沖縄そば。どんぶりもヤチムンです。島に住んでいた時にはディテールにはこだわらなかったのですが、離れると、つい。今夜も紅白を見ながら食べるとしましょう。

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私が入ったヤンバルの村    おまけ・チキンのばらし方マニュアル

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ヤンバルの続きを書きましょうか。ヤンバルとは山原のこと。要するにかつての王府・那覇から見て片田舎といったニュアンスですが、その境界ははっきりしません。 

中部のどこらからかヤンバルが始まるという人もいれば、いや名護からだという人もいます。中部のどこからか説は、もっぱら「片田舎の始まり」とされた名護の連中が言っているようです。 

では中部のどこからかということになると、定説はなくて、一説によればなぜか恩納村なのです。

「オンナ村に入ればりっぱなヤンバルさぁ」と北の名護人は言います。冷たいことに同じ中部でもより南のコザ(現沖縄市)の連中も、そうさね、やっぱり恩納村はヤンバルでしょう、などと突き放します。泣くな、恩納村。 

私が住んでいた所は、その逃げも隠れも出来ないヤンバルの真っ只中でした。海沿いを走る1号線から山に入ること30分の鬱蒼たるジャングルの中でした。 

今、ふと「1号線」と書きましたが、行政的には58号線です。58号はこのまま国頭(くにがみ)からためらうことなく海中に身を投じて海の中を泳いだ先は鹿児島県、という不思議な海中国道です。 

「1号線」とは軍用1号線のことで、米軍施政権下で、大型軍用トレーラーがブワーっと通れるだだっ広い軍用道路を米軍はお作りになったわけです。カッコつけてハイウエイ・ワンなどとも言います。 

ともかく直線、どこまでも直線。参ったかという直線。ジェット戦闘機も離発着できるさぁ、というのが島の人の自虐的自慢です。いかに住んでいた住民を無視したかお分かりでしょう。

那覇から走ると、両側は行けども行けども米軍基地。観光名所にするべくヤシの樹なんぞ植えてやがって、ここはカリフォルニアか、つうの。 どうせ植えるならヤエヤマ・ヤシを植えなさい、と言いたい。

考えてみれば、こういう力づくで押し寄せて来る外国をいったん受容して、やられっぱなしかと思うと、どっこい鼻づらを掴んで手玉に取るようなことがウチナーの伝統芸ではあります。

今も仲井真さんが名人芸を見せて、政権のニワカエライさんを引きづり回していますね。日本も半分は「外国」ですから。 

それはさておき、その1号線からとある河の源流にあったのが私が入植した村でした。一回廃村になりかかっています。 

廃村になる理由というのは学校問題です。村には小学校がないのです。東海岸の天仁屋(てにや)に行くか、西海岸の源河に行くか、いずれにせよ子供が歩いて通える距離ではありません。 

道路に転がっている棒っきれかと思えばハブ、縄張りを荒らされてはならじと自動車に突撃を敢行してくるノータリンのリュキュウイノシシなどが道路の上に珍しくもなくのたくっていますから。  

この私が入った村、島の言葉で「シマ」は、一時は多くの村民がお茶やミカンを作っていたようです。島米を作った水田跡も残っています。  

戦時中は南部からの避難民が決死の逃避行をした場所としても有名で、多くの避難民が病死したり、ハブの餌食となった哀しい話も残っています。 

このシマも復帰以降に急速に村民を減らしていきました。やはり海洋博やそれに向けての高速道路建設がきっかけでした。 

海洋博は目と鼻の先の本部(もとぶ)で開かれたのですが、ここへの出稼ぎに男たちが大勢行ってしまい、留守を預かるのはオジィとオバァ、それにヨメさんと子供ということになっていったようです。 

こうなるとヨメさんの肩にズシッと重圧がきます。残った田んぼや畑の管理、炊事、子育てにめげそうになったのでしょう。そして亭主が働く町場に田畑売り払って、一家総出でひとりまたひとりとシマを出て行ったのです。 

こうしてこのシマにはただひとりのオジィを除いて廃村になったのでした。 

                                    (続くかもしれない) 

■おまけ [鳥飼が教えるローストチキンのばらし方]

❶モモの内側に切れ目を入れて、外側にエイヤーと開く。そのままナイフでモモ肉をはずす。
❷手羽元に同じように切れ目を入れて、筋を切りながらドリャーとはずす。
❸手羽先の関節も同じように内側に切れ目を入れて筋を切りながらはずす。これで手羽先、手羽元が別になる。
➍胴体部分は、正中線にある胸骨の両側にナイフを入れて表面にあるムネ肉を削いでいく。
➎ムネ肉の下に眠っているササミを取り外す。

書くとめんどくさそうですが、実際に馴れれば5分です。ガラは勿体ないからダシにしてください。メリークリスマス。

■写真 ヤンバルのお茶畑。強烈な酸性土壌にはお茶とミカンがあっていて特産になっています。

■少々くたびれ気味なので、明日は更新をお休みします。明後日から再開します。堅い記事になるかどうか。この震災からの9カ月間、ずっと硬かったので、ちょっと気分転換してみたい気はします。

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昔、ヤンバルに馬鹿な百姓志願の男がいた。 誰にも勧められない就農マニュアル

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昔、沖縄のヤンバルの山の中に百姓志願の男が暮らしていました。隣は米軍のジャングル戦専用の北部訓練場があるような場所でした。 

なにを考えたのか、牛がいいだろうとなけなしの金を出して和牛を飼い始めました。しかも二頭です。 

牛を選んだのは、粗飼料で飼えるとどこかで聞きつけたからです。粗飼料ということは餌がタダじゃないか、とこの男はそう思ったのです。 

ついでに養護施設で飼えなくなったというアーグ(在来豚)も2頭とヒージャ(山羊)もタダでもらってきました。これもウンム(イモ)のクズと葛だけで飼えるはずだと算盤を弾いたようです。 

考えてみれば、農業技術がない、経験もない、ついでに金もないという逆トリプルAのこの男が、いきなり難易度トリプルAのヤンバルに入って百姓をしようということ自体が英雄的なバカであります。 

この男の日課は、午前中は火星の土のように赤いヤンバルの土の上でスコップ仕事をしていました。 

畑とは名のみ。ただの原っぱの中でスコップでなにやらほじっているというのも異様な風景ではあります。別に当人としては掘り出しているのではなく、耕しているつもりです。、 

それほどまでにヤンバルの山土はガチガチでした。初めに入れた鍬は一発でグニャとだらしなく曲がり、これではならじと満身の力を込めて耕しても表土をなぜるだけでした。 

土をなぜていても仕事になりませんから、剣スコップでまるで側溝を掘る要領で「耕す」のです。よもやスコップにこういう使い方があるとは知りませんでした。 

いや、今でもスコップ農法など聞いたことがありません。今の私なら、なぜトラクターをかけないのか、とその男に問うでしょう。 

まずは土質を調べ、肥料設計し、そして堆肥などの土壌改良材を充分に散布してから、おもむろにプラウニングし、仕上げにロータリーをかけろ、と指導するところです。

さすがこの男もトラクターの存在くらいはおぼろに知っていたようです。しかし牛に金を出しすぎて手が出ませんでした。若かったし体力自慢でしたから、まぁなんとかなるだろうと、甘く思っていたようです。 

後にこの男は小さな管理機を手に入れることになるのですが、これが機械化農業だと感動したものです。 

ちなみにこの管理機には、ヤンバルの土は手に負えず、すぐに黒煙を吐き出して抗議のストライキをしたものです。

沖縄の農家は、長袖のダブダブの上着を着て、首回りにもしっかりとタオルを巻き、軍手は必須、足元はゴム長が定番装備でした。

この男は、コザで買った米軍払い下げの迷彩服を着ていましたから、この姿でスコップをふるう姿はさぞかし異様なものでしょう。

ついでに襲い来るシーベ(ブヨ)の大群から身を守るために、これも払い下げのモスキートネットを頭からスッポリとかぶっていましたので、知らない人がみれば、米兵が特殊任務でもしているように見えたかもしれません。いや、見えないか。

しかし、このネットが息苦しいこと。やけくそで取ると顔かたちが変わるほど刺されました。 米軍の臭い防虫クリームが手放せませんでした。

借りた土地はサトウキビ畑が5反歩と畑と称する原っぱが7反歩でしたから、毎日学校の校庭ほどの土地をスコップでほじているのが日課だったわけです。 

午後は優雅な昼寝の後に、草刈りに出かけました。沖縄の夏で本土のように1時から働こうものなら、たちどころに干からびて死んでしまいます。 

沖縄の百姓には、「朝ブシ、夕ブシ」(朝星、夕星)という言葉があると教わりました。暑いので星が消える前の朝5時から働き、夕方は星が出るまで働くという格言のようなものです。まぁ途中で昼寝しているんですがね(笑)。 

グヒチ(カヤ)を2トントラックで満載になるまで刈ります。これがこの男の農家経営の核心でしたから、それは必死でした。

沖縄北部を泣くような思いで毎日さまよってはグヒチを刈り続けました。しかも鎌で手刈りです。あまりめげることを知らないこの男も、連日2トントラック一杯の手刈り作業には顎が上がりかかっていました。

ハブがウヨウヨする山奥にひとりで鎌一本を腰に差して分け入るのですから、無知ほど強いものはないと言いたくなります。ハブ採り名人ともお近づきになりました。

一度山奥で指2本をすっぱりと鎌で10針縫うケガをした時には、傷口をタオルで縛りながら片手運転で山から逃げ帰ってきたものでした。

そこで、名護の農機屋の裏に捨ててあった刈り払い機をもらって治し、機械がブンブンいった時には飛び上がって喜んでいました。たわいないものです。

こんな男の唯一の楽しみは、共同売店という北部にしかない地域共同の店で大きなテンプラ(さつま揚げ)を一枚買い込み、いちばん安いオリンピアというビールを一本買って、荷台に積んだ刈ったばかりのグヒチの香りに包まれて、誰もいない海岸でひとりで乾杯することでした。

「沖縄に乾杯、がんばっているオレに乾杯・・・!」

写真 ヤンバルのパイン畑から八重岳を望む。

 

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ジルーという陶工と会ったことがある

002_edited1 沖縄に金城次郎さんという伝説的な陶工がいる。
沖縄の民窯をヤチムンいう。そもそも完全な日用品として始まった。戦後、焼け野原になった沖縄ですっかり什器が焼けてしまったんで、せっせと日常使いの皿やお碗を作ったのが、金城次郎さん、いやジルーたち戦争から返ってきた沖縄の陶工たちだっだ。

ジルーの陶器を特徴づけるのは、そのスピードと勢いだ。
アートを作っている気なんか作る方も使う方もさらさらないから、スピードが第一。一日何個が出来るのかが大事だったんだろうね。そして当時はガス窯なんかないから、登り窯だろ。もう製品としてばらつきなんてのは当然なわけだ。それがジルーの勢いのある線彫りの面白さとなって生きてくる。手工業的ではあるが、量産がジルーを生んだともいえる。
彼の作品はたまに抱瓶(ダチビン)の注ぎ口がゆがんでいたりする。たぶん大手の工房でこんなものを作ったらハネ品だろう。上の写真のダチビンも実際にジルーの工房で買ったものだ。まだ彼がご存命だった時だ。たぶん彼が50代のバリバリの時だ。まだ私が29の時くらいだったか。
その時のことは今でも鮮明に覚えている。8月の沖縄。ご想像くだされ。12時半くらいに、迷い迷って彼の工房にたどり着いて、昼休みだったので汗だくでへたへたと木陰にへたり込んでいた。
1時頃に工房の人たちがぞろぞろ出てきて、その中にジローさんもいて、冷たいャお茶をごちそうになり、ちょっとだけ話が出来た。
こっちも汗だくだが、ジローさんもヨレヨレの汗くさいTシャツを着て、グローブみたいな「
使える手」を持つ働く男だった。まるで農民みたいだった。
工房(なんてシャレたものというより町工場)の横で直販していたヤチムンをいくつか買った。そのときにジルーはいくつかあるダチビンの中で、いかにも金のない私を見たのか、「これがいいよ。口が曲がっているが。色がいい」と言って譲ってもらったのが、もう手元にはないが、藍色のグルクンが踊るダチビンだった。
すばらしいあの藍色、線刻の勢い!グルクンがあの狭い空間が足りなくて、踊って飛び出しそうだ。そして私はあの藍色がたまらなく好きだ。あれは豊穣の沖縄の海の色だと思う。
その深い藍色はお孫さんの金城吉彦さんにも受け継がれている。しかしスピード、つまり勢いまでは遺伝しなかったが。なぜなら、今彼が作ろうとしている工芸であり、アートであり、偽悪的にいえばみやげ物だから。そして祖父が作っていたのは日常雑器だったから。_edited
ジルーは人間国宝なんてものになりたくもなくてなってしまい、自分のたかだか一個のマーカイ(お茶碗)がウン万円の値がつけられた時に、「ちゃーならんさ」(訳す必要はないだろうが、「しょうがないね」)と言ったそうだ。そして老齢も重なって急速に作る意欲をなくしていった。
生涯一陶工で何が悪い。ゲージュツ家になんかなるものか、それがジルーの心意気だった。
ま、金城吉彦さんもジルーの孫という七光プレッシャーと戦っているのかもしれない。なにせ今や彼の属する工芸集団は金城一門なんて大相撲みたいな存在だからな。確かに線刻の勢いはないが、それは偉大すぎたジルーオジィと比べられるからだと思う。
■写真 上が金城次郎さんの海老のダチビン。よく見ると右肩に「次」のサインインがあります。下が孫の金城吉彦さんのグルクンの皿。ちなみにサインは「吉」。

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オキナワ・スバとチルダイ

_edited 私が沖縄で住んでいた名護の山の中から、東海岸沿いに那覇に行くと、ヒルギ(マングローブ)の生い茂った川口があって、その近くに亀スバという小さな店がありました。

看板に「スバ」と沖縄語の発音のまんま書いてあるのがしぶいっしょ。

この表音一致というのは沖縄ではよくあります。そうですな、「アイスクリンあります」なんて貼り紙がしてあったりします。初めはなんだこりゃですが、アイスクリームの米語の発音のまんま表記したんです。「ムリンコ」はマリンコー、海兵隊ですね。いちばんすごいのが、「コーヒーシャープ」。これはなんだと思います。コーヒーはいいですよね、シャープは別に電気会社シャープとは関係ない。ショップの米語読みです。ヒージャーミー(山羊の青い目ん玉。転じてアメリカさんのこと)の発音をそのまま書いちゃったんですな。

_edited_2 スバはソバのこと。沖縄語は母音のOがUになるので、スバになっちゃうというわけです。オキナワだとウチナワ、語尾のワが伸びてウチナーです。「ワッターシマ、ウチナー」なんて言い方をします。ま、訳さないでもわかりますよね。ただこのシマは島の意味もありますが、村くらいの語感です。沖縄県全域というより、もっと狭い自分の住んでるとこくらいのニュアンスです。

左の写真はわが愛しのかどやさんです。なんちゅうこともないただの大衆食堂ですが、ここのナカミイリチーが美味い。ナカミは中身、豚のモツのイリチー(炒めもの)です。

オキナワの人のモツの処理はそれはそれは天才的なものがあって、まずヤマトゥ(本土)のように味もそっけもないゴムパッキングのようになったモツなどぜったいに食べません。食堂のアンマー(お母さん)が、生もつを丁寧に小麦粉で洗って、塩でもみ慈しむように下処理したものを茹でます。それも茹ですぎたらパーで、あのモツのキョトキョトした食感が命です。こんな下処理をしたモツを一気に野菜と炒めてガッガッと食べる。ウマッサヌー!

私は山の中から西海岸に出て名護の町に行くと、このかどやさんでナカミイリチーとスバの小のセットを頼みました。ひと仕事終えての昼下がりの食堂で、畳の間に上がりこみ、くしゃくしゃの沖縄タイムスを読みながら、ボーっとRBCラジオの民謡放送に耳を傾け、なぜか沖縄の大衆食堂のテーブルにサービスで置いてあるアイスコーヒー(クリーム、砂糖が全部入っていて、沖縄にしか売っていない珍品)の粉に水を入れてぐびぐび飲む・・・あ~これがオキナワン・チルダイのだいご味。

チルダイのだいご味といっても、輝く海岸をワーと走る青春などというかんじじゃなくて、あんまり暑いので、ボ~としていましょうかねぇ、外はまぶしいねぇ、観光客は異様に元気だねぇー、三線の爪弾きを聞きながらちょっと昼寝でもしますか、くらいなかんじかな。強いて訳せばかったるいでしょうが、ちょっと違う。

でも、オリオンは飲まないよ、暑くなるから。サキはやっぱり日が暮れてから。ああ、チルダイ、チルダイ。

 

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うりずん、若夏、初夏、キビ刈りの思い出

Img_0003 ゆずの白い花が散って、小さな実がなりはじめました。

こんにちは、昨日はメチャクチャに暑かったですね。もう初夏。沖縄風に言えばウリズンです。ウリズン、若い夏、初夏。

きっとうまく沖縄語を訳せなかったんで「若夏」なんて言ったのかしら。でも若夏も悪くはない語感ですが。

そう言えば、昔は「若夏国体」なんて呼んでましたっけ。今だったら「ウリズン国体」の方がむしろすっきりしてカッコがいいと思うでしょう。

僕はこの時期になると猛烈に沖縄が恋しくなります。理屈じゃありません。心の底で静かに、しかし、あらがいがたく醸されるような熱です。こちらに来い、ここにくればいいと呼ぶような声です。

この季節は沖縄ではキビ刈りが終わってコシユックイの頃でしょうか。コシユックイ、腰ゆっくり、ああご苦労さんだったね、サキグワ(酒)のひとつでも酌み交わして曲がった腰を伸ばそうかね。

049_edited 昔は秋の田んぼの終わりの時でしたが、今は田んぼを沖縄はほとんど作らないので、キビ刈りの終わりなのかな。キビ刈りはそれは重労働なのです。

まず、キビ、サトウキビ、ウチナーグチでウージーがすっくとまっすぐ立ていると思ったら大間違いです。そのような性格のいいキビは半分程度しかありません。特に海岸に近いところで作ったら最後、Sの字です。

台風が東海岸を北上すれば、時計回りに暴風雨が吹きつけます。これでキビはひねて曲がります。そして今度は西海岸から来ようもんなら逆に曲がります。台風が一回で済むならいいのですが、まずない。往復ピンタのように何回も別方向から風速30mで煽られると、キビはなんとSの字になるのです。

これを切り倒すとなるとちょっとコツがいります。傾いだ逆から斧を入れていくのです。斧?そうオノ。キビは何で刈るのかと言えば、斧なのです。ちいさな手斧です。これで地面すれすれにガツっとかっとばします。

そして同じ方向に並べて、あとは頭の部分を切り、茎の部分の葉を落としていきます。これは男衆もしますが、主力は女衆です。炎天下に黙々とした作業です。

050_edited これを大きく一抱えほど束ねて約50キロ、いやもっとあるかな、道端に並べねばなりません。夕方に来る砂糖会社のトラックの荷台に一気にこのキビの束を背負って運びます。

荷台まで渡してある細い戸板にしっかりと足を踏ん張って、食い込むキビの束をヨッコラショと積み重ねていきます。ヤッとか、ソラッ、ヨッコラショ、ドッコイショという労働の掛け声がただあるのではなく、力を一点に振り絞る時に必要な声だとわかりました。

道から遠い畑の束は、えんえんと肩で背負って数十メートル運ばねばなりません。肩に濡れ手拭いをあてても、日没の頃には肩が真っ赤に腫れ上がってしまいます。初めの頃は痛くて夜眠れないほどです。それが面白いことには、キビ刈りの季節の終わりにはしっかりとした筋肉が張り、痛くもなんともなくなるのですから人体とはすごいものです。

夕方5時に村のサイレンが鳴って、こんな一日のキビ刈りを終えると、一風呂浴びたシマ(村)の誰ともなしに皆んなが集まってきます。いつもはアサブシ、ヨルブシ(朝星夜星)でも、なぜかキビ刈りの時だけは勤め人のように5時でお終いです。だって第一製糖のトラックはもう行ちゃいましたしね。ひとりで張り切ってもしかたありませんからね。

056 そして、もうひとつはキビ刈りというのは、本土の田んぼように村の共同体で揃ってやる仕事だからです。ユイマールといって労働の貸し借りを今でもひんぱんにします。

今日はシロタさんの畑、明日はウエバルのオジィのだ、来週月曜日はうちらが助けてもらう番だというように。

また、キビをひとりで刈ってみても、製糖会社のトラックは来ません。工場を動かすに足る量があって、運びに来るに足る量があって来るわけです。となると、とうぜんキビ刈りは村の共同体の仕事になってしまうのです。

さて、長い南洋特有の夕焼けパープルの陽が暮れ、男衆はゆるゆると集まります。手持ちの夕飯の余りのようなゴチソーを持ち寄り、シマザキ(泡盛)を飲みます。やがてほろ酔いともなると、誰かが得意のサンシンを奏で始めます。

恐ろしいことに、沖縄で男がサンシンひとつ弾けないのはブチョホー(不調法)といって死に優る屈辱なのです。男全員が唄えるのはともかくとして、楽器を弾けて踊れるというとんでもない芸能の島なのです、ここは。

負けずともうひとりが奏でて、やがてカチャーシーを踊って、ひとりふたりとへばって泥のように深く眠るのです。そしてまた翌朝からキビとティダ(太陽)との格闘が始まります。

これが僕の初めての百姓の場でした。沖縄のヤンバルといいます。赤土と赤瓦の屋根、紺碧の空、風に揺れる芭蕉の葉・・・ヤンバル、いいとこな。

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村に養蜂家がやって来た!そしてヤギ汁の大宴会!

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 恥ずかしながら、実は私、養蜂家になるのが帰農した頃からの夢でした。養蜂家って農業の変わり種なんですよね。
 
 なによりも、一カ所に定着しません。これは街の人にはピンとこないかもしれませんが、スゴイことです。農業というのは自分の圃場の土に依拠しています。言ってみれば、土に生えている樹のようなものです。樹がどしっと動かないように、お百姓もあまり動きません。
 仲間のかぁちゃんに聞くと、県都である水戸に年に一回行くか、行かないか。近くの鹿島ですら月に一回行くけっなぁ・・・とのこと。うちの夫婦のように、年がら年中、アッチに行ったりコッチに行ったりと遊びまわっていないことだけは確かなようです。
 
 さて、養蜂家は「旅をする農家」という不思議な人たちです。農業の定着という宿命から唯一日本で解放された農業人種なのです。かつて住んでいた沖縄のヤンバルに来た養蜂家のザキミさんもそんな人で、沖縄のウリズン(若夏・5月)の頃に山イッパイに咲くイジュという広葉樹の白い花をミツバチに吸わせるために年に一回来ます。トラックに30くらいの巣箱を乗せて、選挙の候補者よろしく手を振りながらムラにやってきました。
 
 その夜は三線と踊りの大歓迎会です。こういう時のウチナーの凄まじいまでのエネルギーには圧倒されます。
 宴のメインディシュ(てなもんか)はヒージャージル(ヤギ汁)です。ザキミさんが来る日はあらかじめ分かっていましたから、前もって用意してあった若いヒージャー(山羊)をツブします。これがオキナワ流の最大のもてなしで、その準備に朝から大変。この準備自体からもう既に祭が始まっているようです。
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 山羊をゴツンして、逆さにして血を抜きます。この血は洗面器に集めて後から別な料理に使います。毛はバーナーで焼き、皮を剥いでと、やることが一杯です。男衆は、器用に出場包丁を使ってスイスイと仕分けていきます。
 そして一番ジョートーロー(上等)の肉は、刺身にして、一番偉いクチョーが食べる。
 このヤギ刺身は珍味。オキナワではワサビはほとんど使わず、酢味噌に泡盛を入れたタレで食べます。
 次いで、タマキンも茹でてスライスし、まだ子供がいないリョーイチさんに食べさせます。白子風です。そして皆んなで大笑いしながら「チバリヨー、リョーイチ!チバリヨー!」(がんばれ、リョーイチ!)。新婚間もないリョーイチさん夫婦は真っ赤になりました。何に頑張るのか、まったくもう。子供がタマキンスライスを盗み食いしようとすれば、「お前にはまだ早い」とハタかれます。
 洗面器に取った血もチーイリチー(直訳すれば血炒め)にして、テキトーに野菜と炒め合わせて食べてしまいます。これは鮮度が勝負なので、さっさと料理してしまいます。なんせ、当時この「幻の村」には電気がなかったので、冷蔵庫などないのです。チーイリチーはレバーのような味と、モソモソとした食感で、案外いけました。
 後の肉と臓物は、肉は骨ごとブツ切りにして、煮こぼして茹でます。臓物は丁寧に小麦粉をまぶしてよく水で洗います。腸の中は特に丁寧にウンコを出してきれいにします。フテンマさんの奥さんはこの達人でした。慈しむように、ヤギの命を受け継ぐように、丁寧に、それは丁寧に洗浄していました。
 調味料はハードボイルドにも塩だけ。これをコトコトと、薪で3時間くらい煮るとこれぞオキナワのもっともディープな食といわれるヒージャー汁の完成です。フーチバ(よもぎ)としょうがをゴソッと入れて食します。
 煮えたヤギ汁の味見は、不肖ハマタヌが命じられました。「うりぃ、ナイチャーの兄さん、食べてみなさいよぉ」とクチョーの厳命。周りの村の仲間がニヤニヤと笑いながら私を観察しています。「ムリに食べんでいいからねぇ。吐き出したらもったいないよぉ」
 
 確かにあの匂いはすごい。ワキガがすごい外人さんを、1週間ほど山羊小屋に閉じ込めたようなフレグランス!大部分のナイチャー(本土人)はだめだそうです。しかし、ウルムチ、カシュガル、ラサ、トルコといった羊文化圏で鍛えあげたこの鉄の胃袋の私にとってなんのことやあらん!
 皆様の期待に反してわしわしとたいらげてしまいました。わ、はは。しかし、周りの村の連中はまだニタニタしている。「ハマタヌさん、今晩大変よぉ」・・・なんのこった?
 え~、その宴が終えた(2時だぜ、2時)夜、分かりました。全身がぽっぽとほてるのです。血行がすさまじい勢いで廻る、廻る。地球は廻る。私も廻る。酒ではない血行流通。
 そして訳もなく、ウヒャヤと笑いたくなる。ヒージャー汁がヌチグスイ(命の薬)というのがしみじみ分かりました。ありゃ合法ドラッグですな。昔、イトマン(糸満の漁師)が、子供を潜水で使った後に、体温を戻すために喰わせたという理由が分かりましたね。そして数日間、私の全身からあのヤギ・フレグランスが漂っていたらしく(当人はわからない)、奥方にアッチに行けと嫌われました。
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 さて、この養蜂家のザキミさんがなぜ大歓迎を受けるのでしょう。それは農業の大きな助け役になるからです。そう、受粉係なのです。
 カボチャ畑の横に巣箱を置いてあげるので、リョウイチさんは大助かり。タンカンを作っているフテンマさんも大歓迎。
 一種の花咲爺です。季節とともに来て、農家の役にたつから大歓迎されて、毎日酒宴を開いてもらい、しかも健気な従業員は餌いらず、だって勝手にそこら中から餌を採取するわけですからね。ニワトリではこうはいかない。餌を買ってこなきゃいかん。
 そして、従業員のハチたちがが腹いっぱいになって、蜜をしこたま蓄えたら、そろそろこの土地にも飽きたんで別な土地へと旅だって行く。ああ理想的な人生ではないですか。
 もちろん、現実の養蜂家の生活は厳しいそうです。トラックで寝る日も多いし、重い巣箱の移動で腰にも来るそうです。第一家族は学校の関係で連れてこれないので寂しいんだと、ザキミさん。
 しかし、だとしても、フーテン農家の養蜂家、いいよなぁ。
 写真は私の養蜂のお師匠のキラさん。蜜が溜まった巣箱を遠心分離機にかけているところです。中は遠心分離機の中に蜜が溜まっているのが分かりますか?下は、採れたばかりの自家製の蜂蜜。

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