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2009年7月24日 (金)

緊急シンポジウム  ウイグルで何が起きているのか?/ラビア・カーディルさん緊急来日!

46c1b2aa91b26f46a9a9db9023c136e8_3 緊急シンポジウム ウイグルで何が起きているのか?

【日時】
7月26日(日)
開場18:15 開会18:45

【場所】
国立オリンピック記念青少年総合センター
センター棟4Fセミナーホール(417)
※交通案内

【資料代】
2千円

【主催】
日本ウイグル協会 イリハム・マハムティ
D0123476_7575114 2009年6月26日、中国広東省の玩具工場で6000人の漢人が200人のウイグル人労働者を襲撃する事件が起こりました。事件の現場では、警察が5時間以上虐殺行為を放置し、中国政府は事件をまったく報道しようとせず、犯罪者を逮捕しようとも事件を究明しようともしませんでした。世界中のウイグル人がその虐殺事件を知ったのはインターネットにあげられた事件の動画や掲示板への書き込みで、それは事件に関わった中国人たちが「ウイグル人を殺してやった」と喜び自慢する、あまりにも残酷な内容でした。

その事件に抗議するために7月5日、中国ウイグル地域ウルムチのウイグル人大学生が中国政府に抗議するデモを行い、多くのウイグル人がそれに賛同しました。しかし、中国政府は平和的な抗議デモを武力鎮圧し、電話、インターネット、報道、全ての情報を規制。ウルムチでそして他のウイグル地域で何が起きているのか分からない状況が現在も続いています。たくさんの死者、逮捕者、強制連行されたウイグル人たちの安否は分からない状況です。それだけではなくウイグル地域や中国全土に住むウイグル人が安全に生活できているのかどうか、確認するのは難しい状態です。

中国政府は漢民族が被害者であり、ウイグル人は暴徒だ、テロリストだと嘘の情報を世界に伝えています。私たちは中国政府が行ってきた大量虐殺と人権弾圧の歴史について知っています。何故ここまで悲惨な事件が中国によって繰り返されなくてはいけないのか? 私たちは現在入っている今回の事件の情報を中心に、真実を世界に伝えるためにシンポジウムを行います。

パネリスト

イリハム・マハムティ
世界ウイグル会議日本全権代表 日本ウイグル協会会長

ペマ・ギャルポ
チベット文化研究所所長

石平
評論家

永山英樹
台湾研究フォーラム会長

青山繁晴
独立総合研究所代表取締役社長

西村幸祐
ジャーナリスト、チャンネル桜キャスター

今、我々にとって一番心配することはこれからなんです。たく さんの若い者らが逮捕されて彼らの運命はどうなるか? これからウイグル地域でのウイグル人への弾圧は一層、厳しくなるのは間違いないです。

弾圧するためのいろんな口実を中国が作っています。それは何かというと「今回の事件を計画して実行した主な犯人はまだ逮捕されていない」。これはもちろん口実を作ったもので、これでその人の情報を得ているとか、誰々がその人と関係があるとか、そういう理由でこれからたくさんの人が刑務所に入ってしまう。殺される。

実はそういう逃げた人がいるかどうかが問題なんです。私たちの考えではそういう人はいないです。何故ならウルムチ全域、その日その夜、全面的にコントロールした中国政府はそんな一人二人を逃げさせるわけはないです。その夜に殺されて遺体を隠され、この世の中にいない人間を探すという運動をやってたくさんの人々を逮捕する。刑務所に入れる。これからたくさんの人が被害に会うとおもいます。

死ぬ人がこれから出るんです。ですから、今までこの件に関心を持たなかった全ての国の国際的な組織とか、いろんな宗教の団体とか、それから全ての民主主義の国々の国会とか、その国を代表する議員たちらがこの件に対してはっきりと意見を出して、そのウイグル人らの命を助けてもらいたいです。

もしそういう組織、あるいは議員、あるいはそういういろんな団体と関係がある方がいらっしゃったらぜひこのことをアピールしてくれて、たくさんのウイグル人の命を助けてもらえれば大変ありがたいです。ウイグル人はみなさんが助けてくれたこと、やってくれたこと、絶対に忘れません。どうかみなさんよろしくお願いします。

イリハム・マハムティ(ネットラジオ番組 RFUJラジオフリーウイグルジャパンより)

■本記事は日本ウイグル協会HPを転載いたしました。

日本ウイグル協会HP

http://uyghur-j.org/urumqi_symposium_090726.html124701000233916105569

ラビア・カーディルさん緊急講演会

ラビア・カーディルさんに聞く――今、ウイグル人に何が起こっているのか?

◇◆◇開催趣旨◇◆◇

 7月5日夜にウルムチ(新疆ウイグル自治区)で起こったウイグル人の集団抗議事件が世界の注目を集めているが、事件の真相についてはウイグル人の声が発信されることが少なく、中国当局による映像と情報がもっぱらされている。

 そこで、在外ウイグル人のリーダーであるラビア・カーディルさん(世界ウイグル会議議長)を日本にお招きし、ラビアさんの知り得た事件の経緯と現状についてお聞きすることとした。また、事件の背景にあるウイグル人の置かれた状況、さらにラビアさん自身の体験についても語っていただく。

◇◆◇開催要項◇◆◇

日 時 7月30日(木) 午後6時30分(6時開場)~8時30分

○会 場 アルカディア市ヶ谷(私学会館)

       http://www.arcadia-jp.org/access.htm

    

東京都千代田区九段北4-2-25

 03-3261-9921

    地下鉄有楽町線・南北線・都営新宿線「市ヶ谷」駅A1-1出口から徒歩2分

    JR中央・総武線「市ヶ谷」駅から徒歩2分

○参加費  500円(資料代として)

○お申し込み

 会場整理の都合上、事前のお申し込みをお願いします。下記の方法で「お名前」「ご住所」「お電話番号」をお知らせ下さい。

  Eメール rebiya0730seisaku-center.net

  FAX  03-6380-8215

  TEL  03-6380-8122

写真 ノーベル平和賞候補 世界ウイグル会議代表ラビア・カーディルさん

2009年7月15日 (水)

琉球独立派友人からの手紙

_edited 私は沖縄の焼き物であるヤチムンが好きです。その鮮やかな藍の色彩、踊るようなグルクンの姿、素朴な手触り、まさに日本を代表する民窯です。

このウイグルの悲劇の稿を締めくくろうとした時に、年来の沖縄の友人からメールが来ました。彼は混じりっ気なしの琉球独立論者です。常に「俺は日本人ではない。琉球民族だ。文句あっか」といっている男です。その彼がこういってきました。了解を得て掲載させていただきます。

今回のウイグルの事件を俺ら独立派も注視している。沖縄は第2次琉球処分の時に(*明治国家成立直後の1879年、琉球国の廃絶、廃藩置県による沖縄県の成立のこと)、清国にすがる形で独立を保つ可能性があると思っていた。しかし、当時の琉球国の支配層には、独立を維持する能力がなく、結果として沖縄は中国領土になっていたかもしれない。

_edited 7月5日のウルムチの虐殺事件を見て、そうならなくてよかったと正直そう思った。中国の「琉球族自治区」などになった時に、俺たちのような沖縄の真の独立と自立を求める琉球独立派がどのような目に会うのかよく分かった。俺などとうの昔に監獄か、墓場行きだっただろう。しかも門中(*もんちゅう・一族郎党のこと)丸ごと連座してね。

今まで琉球独立派は、ヤマトしか見ていなかったと思う。ヤマトやアメリカに対する、基地や戦争への恨みと怒りを告発し続けることこそが、大事なことだと思ってきた。

それは間違っていないと思うが、眼が東に行き、距離的には本土より近い中国という巨大な存在を忘れていたことを、今回思い知った。

124727744480316417495琉球独立派には、ヤマト・本土政府への反感から、どうしても中国へのシンパシーが潜在的にあったのは確かだ。ひと世代前の人など、いざとなったら中国人民解放軍に来てもらうさ、などと内輪では公然と言っていた人もいたしね。

俺はとんでもないことだと思うよ。今はまだ頭が混乱していてうまく言えないが、独立は他国の力に頼ってはダメだ。そんなことをすれば支配者を変えただけで、百年居すわられて奴隷にされる。独立は民族の魂だ。それを今回俺は,ウイグル人に教えてもらった。

ともかく俺ら琉球独立派も、ウイグルに平和と自由が来ることを心から祈っている。小さな声だが、沖縄からも届けと叫ぶ、フリー・ウイグル!東トルキスタンに自由を!

*本記事は事情により、メールそのままではありません。私がリライトしております。

■写真1・2  金城吉彦作 名工金城次郎さんのお孫さん。次郎さん一門の若手ですが、私はいちばん好きです。

■写真3  東トルキスタンの国旗である青天牙月旗 イスラム諸国を中心として抗議の声も高まっている。撮影者AP通信

2009年7月14日 (火)

ウイグルの原爆 まさに悪魔の所業

_editedウイグル問題に首を突っ込んで、まぁなんて言うのか、怒り疲れたという気分になっています。 知れば知るほど、どうしてこうもひどいことになっているのか種は尽きまじ、なのです。

今回は国家により秘匿され続けてきた、核実験場としての被曝地ウイグルです。

ウイグルで核実験が行われていたことは薄々日本でも知られていました。しかし、それがどのような規模と回数をもって、何回行われたのかについては、まったく闇の中でした。というのも、中国が相手だと毎度のことですが、中国政府はまったく核実験について公表しないからです。

ですから、ウイグルに隣接するカザフスタンでの観測資料と、日中友好協会(「正統本部」ではない方)から中国研究者の平松茂雄氏が入手した資料によって、日本放射線防護センター代表・幌医科大の高田純教授が「中国の核実験 シルクロードで発生した地表核爆発災害」(医療科学社)という労作にまとめたものしか、この世には存在しないことになります。

_edited_2いや、正確にいうならば、英国のテレビ局が記録映画「死のシルクロード(Death on the silk road)」を放送して、フリーランスの映像作家に与えられる最高の賞を受賞しています。しかし、これも日本においては公開されていません。(*youtubeで見られるそうです)

さて、高田教授の本を早速Amazonから入手して読みました。衝撃的な内容です。今までこのような事実が世界に明らかにならずに隠蔽されてきたこと自体に、哀しみとも怒りともつかない気持にさせられます。

高田教授は、このウイグルでの中国の核実験の規模とそれが与えた放射線被曝の影響をこう報告します。

ウイグル人の暮らすウイグル地区のロプノルで中国当局は1964年10月16日から1996年に渡って、0・2メガトン級~4メガトン級の地表、空中、地下で延べ46回、総爆発エネルギー20メガトンの核爆発実験を行っている。うち、放射線災害として最も危険な地表核爆発を含む大気圏実験を、少なくとも1980年までに21回実施した。

ウイグル地区の当時の平均人口密度の推定値6.6~8.3人/平方キロメートルから、死亡人口は19万人と推定される。また、健康影響のリスクが高まる短期および長期の核ハザードが心配される地表の推定面積は、日本国土の78パーセントに相当する30万平方キロメートルに及ぶ。

D0123476_2222492 この延べ46回、総爆発エネルギー20メガトンという規模と回数自体信じ難い回数です。そしてそのうちの21回は最も放射線被害が危険だと言われ、現在いかなる国も実施していない地表核実験と大気圏内核実験だという衝撃の事実です。

そして更に驚くことはこの核実験が、なんと人口稠密なウイグル族居住地域の付近でなされたことです。

中国では、新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)の楼蘭付近で、核実験を行い、周辺住民への甚大な健康被害と環境汚染をもたらしていた。

1981年まで継続的に降下した大量の核の粉塵によって、胎児に影響を与え、奇形の発生や、若い世代の白血病や癌の発生を引き起こすなど現地住民への大きな健康被害が多数発生した。しかし、中国共産党政府は核実験のことを公開しない上に、核実験による被害の事実を極秘に隠蔽した。

この周辺住民に核実験自体を秘匿し,避難もさせることなく実施するということ自体おおよそ近代国家では考えられもしないことです。私もかつて毛沢東思想華やかなりし時代に、原爆のキノコ雲に向けて突撃をする多数の人民解放軍兵士の姿を見てびっくりしたことを思い出しました。その時のナレーションも忘れられません。たしか「毛沢東思想で強く武装した兵士は放射能すら恐れない」でしたか。たぶんあの兵士の一団で、5年先まで生き延びた者はいないはずです。

_edited_3これと同じ過ちは、アメリカも犯しており、ネバダ州の核実験場で原爆爆発直後の地域に兵士を突撃させて、多くのガンと白血病患者を生み出しました。これは兵士が訴訟をしたために、世界の知るところとなり、「アトミック・ソルジャー」と呼ばれました。

しかし、確かに彼らは気の毒であっても、核兵器に対して無知であったためです。核実験が実施されることは知らされていたはずです。しかし、付近の住民はそれすら知らされず、空中から長い時間をかけて降り注ぐ大量の放射能の粉塵と、放射能汚染された地下水で生活をすることを強いられたのです。

アメリカ軍のアトミック・ソルジャーたちは裁判で「私たち は原爆の人体実験に使われた」と訴えましたが、ウイグル民族はまさに数十万人単位で「原爆の人体実験」に供せられたのです。

中国がかつて実施した最大規模の核実験は4メガトンに達したが、旧ソ連の核実験を上回った10倍の威力だった。実験により大量に落下した「核の砂」と放射汚染は周辺住民計19万人の命を一瞬にして奪った。放射線汚染の影響を受けた面積は東京都の136倍に相当、中国共産党の内部極秘資料によると、75万人の死者が出たという。

そして高田教授はこう結論します。

核を持ち、核実験を実施した国はいくつかあったが、人口密度のある居住区で大規模な核実験を実施するのは中国だけだ、周辺環境への影響をまったく考えずに、まさに悪魔の仕業と言っても過言ではない。

(続く)

■写真最上段 前回お話したカミさんが担いできたモロッコ製の錫の大きな盆。これにも細密な金属彫刻がなされています。

■写真4番め ネバダ実験場の核実験。凍りつくような恐ろしい光景です。このなかを突撃させた軍部の正気を疑います。アメリカ人の核へのどうしようもない無知が恐ろしい。これと同質の恐ろしさを燐国は持っています。

※東京五輪との関係は間違っていましたので、削除しました。

2009年7月13日 (月)

2009年7月5日、ウルムチで何が起きたのか?  自国民に銃を向けた中国政府

_edited_2イスラム圏を旅していると、金属装飾好きの私やカミさんは、旅の終わりにはまるで金物屋と化してしまいます。空港でキンタンに反応してビービー鳴るし、カスタマーでは何これ?と聞かれるし、第一重いしね。

カミさんなど、直径80㎝はあろうかという錫(ピューター)の大きなお盆を抱えてモロッコから帰ってきたことがありました。到着ロビーからまるでローマ時代の楯のような巨大なお盆を引っ提げて出てきた時には、さすが私も驚きましした。なんでも、タジンというクスクス料理を盛るそうです。

イスラムの彫刻は、偶像が宗教的に禁止されているために、細緻な発展を遂げました。一般庶民が使う上の写真のような銅製の薬罐でも凝った文様が彫り込まれています。これはウルムチの隣街であるカシュガルの職人街で買ったものです。

店の奥で、オ ヤジがトンカンと薬罐を叩き出し、小学生くらいの伜が店番をしていました。数十個の薬罐や鍋がシルクロードの風にガランゴロンと鳴り、金物好きな私を飽きさせません。いつかまた行くと心に決めながら行きそびれているうちに、こんな悲惨な事件が起きてしまいました。

M965787月5日のウルムチで、正確に何が起きたのかは未だ闇の中です。

当局の公式発表すら時間を経過するごとに死傷者数が鰻登りしています。世界ウイグル会議は、死者を1千人から3千人と伝えています。当局の発表とは桁が違います。

また、現地ではようやく行方不明者の登録が開始されました。この行方不明者だけで膨大な数になると思われます。

このウルムチの悲劇は、国際調査団が入らない限り真相が明らかにされることはないでしょう。しかし、中国政府がそのようなものを受け入れる可能性がゼロである以上、亡くなった多くの人々は恨みを呑んで葬られることになるのでしょうか。

しかし外国メディアの取材でおぼろげな状況は分かってきつつあります。朝日新聞の7月12日のウェブから引用します。

以下引用

「デモは平穏に始まった」…ウイグル騒乱、そのとき何が 

 【ウルムチ=奥寺淳、西村大輔】中国新疆(しんきょう)ウイグル自治区ウルムチ市内で起きた大規模な騒乱から12日で1週間になる。当局の発表だけでは事実関係はわからない。何が現場で起きていたのか。騒ぎが拡大した経緯を、目撃証言からたどった。 ウイグル族のデモは北京時間の5日午後6時ごろ、市中心部の人民広場近くで始まった。非公式の現地時間で午後4時ごろにあたる。同日昼、「合法的に政府に抗議しよう」という携帯メールが出回っていた。「平和的だった」とウイグル族は口をそろえ、漢族の飲食店員(31)も「暴力をふるう様子はなかった」と証言する。

 だが警官らが立ちはだかり、一部が衝突。多くは大通りの解放南路を南下し、付近のウイグル族が次々と合流。規模が膨らみ、制御がきかなくなっていった。

 衣料品店員(27)は午後8時ごろ、解放南路でデモ隊と出くわした。すでにれんがや棒を持っていた。ほかの市民とともに隊列に加わり、「自由が欲しい」「ウイグル族よ団結しろ」と叫んだ。デモ隊は治安部隊に前後を囲まれ、石を投げて抵抗した。

 M27941前方の治安部隊が空に向かって警告射撃を始め、その後、水平に撃ち始めた。タタタタと銃声がし、50人ぐらいが倒れた。下半身を狙っているように見えた。銃弾が脇腹に命中し、苦しむ女性がいた。「帰れ、解散しろ、早く行け」と治安部隊が叫ぶ。

ウイグル族のある男子高校生は、解放南路の交差点で三方から治安部隊がデモ隊を囲み、発砲するのを見た。路地や団地の中庭などに逃げ込むデモ参加者を治安部隊は発砲しながら追い、拘束した。

発砲を目撃したウイグル族住民の男性(45)は「午後9時すぎ 、大勢の警察が遺体を引きずって片づけていた」と証言する。

 ウイグル語ウェブサイト「祖国ウイグル」の情報によれば、5日、ウイグル族と警察の衝突は市内4カ所で起きた。ウイグル族居住地区の山西巷では17人が警察の車にひかれて死亡したという。

 ウイグル族の男性会社員が怒りを込めて話した。「民衆を銃弾でねじ伏せた点では天安門事件と同じだ」     (朝日新聞7月12日3時5分)

引用終了

各種の報道を整理してみるとこのようになります。

①7月5日の午後6時頃。広東省韶関市で起きた漢族のウイグル族殺人事件に抗議して、非暴力的なデモが自然発生した。

②この平和的なデモに対して、武装警察が阻止線を張り、鎮圧した。ウイグル族関係の情報ではこの時、不審な者が多数現れて、バスに放火を始めてデモを混乱させたと証言している。このような挑発者が平和的なデモ紛れ込んで、暴徒化させる手段は、一昨年のチベット「暴動」時にも使われた。

この段階で新疆の外部とのインターネット、電話回線は切断された。

③午後7時半頃、これに抗議して市内のウイグル族が集まり始め、「ウイグルに自由を!」と叫ぶ3千人から4千人規模の大きな抗議行動に発展した。民衆の一部は武装警官に対して投石で抵抗した。また、興奮したウイグル族による漢族襲撃もあった(この事実は世界ウイグル会議も確認している)。

124743636505216209827午後7時半から8時頃。人民政府は武装警察に対して無差別発砲を許可した。最高責任者の胡錦濤は不在だったが、中央政府の命令なくして、自国民への発砲が許可されるとは思えない。

⑤武装警察の 自動小銃による発砲は、病院に搬送された遺体や負傷者の多くが、ウイグル族と漢族を問わず、頭や胸に被弾していることから、無差別発砲だったと思われる。この無差別発砲により、ウイグル族、漢族双方に千名を超える膨大な死傷者を出すこととなった。このような膨大な死傷者は、ウイグル族「暴徒」による投石では説明しきれず、組織的な虐殺行為、ジェノサイドがあったことを物語っている。

ウイグル人の居住区である天山区の通りでは、戦争が終わったばかりの惨状で、大勢の死傷者と死体が路上に横たわっている。

⑥この事件による逮捕者は1,434人。一晩の逮捕者としては異常に多い数字である。当夜集まったウイグル民衆が3千人規模と見られるので、うち千人以上が死傷し、1,500人が逮捕拘束されたことになる。つまり、集まったウイグル族民衆で無傷で家に帰れた者はごく少数だったということになる。

124743729285116211949現場にいたウイグル人高校生の証言によれば、武装警察により、解放南路の交差点で三方向から包囲され、三方から射撃を受けたという。これは警察活動ではなく、むしろ軍事的な制圧行動と呼べる。

ロイターの記者はグランバザールの横にある中国銀行の窓に弾痕を発見した(左上写真)。この弾痕は、弾丸が水平方向から発射されており、窓が頭の位置であることから頭部を狙い打った連続射撃であることを証拠立てている。

翌6日に、意外なことに政府当局は外国メディアに取材を許可したが(*チベット「暴動」では封鎖期間が長期に渡った)、当局者に率いられた取材ツアーであり、中国政府の公式見解(ウイグル族暴徒の漢族への襲撃事件)と異なる報道は禁止された。それを無視した外国メディアが多数拘束された。その中には日本人記者もいる。そのような当局の隠蔽工作にもかかわらず、家族の安否を心配するウイグル女性が、外国メディアに必死の訴えをし、真相が徐々に明らかになった。

124700948270416232593⑧7日。漢族による組織的な暴力デモがあった。漢族は公然と武器を所持し、わが者顔にウイグル族の商店や居住区を襲撃した。この時、武装警察はまったく黙認し、制止すらしなかった。これは外国メディアの眼前で行われたために、多くの証言と写真の証拠がある。

⑨現在、治安は平常に戻ったとされているが、ウイグル族に対する事後逮捕が大規模に続けられている。また、密告が奨励され、両民族の間には決して埋めることの出来ない亀裂が刻まれた。

⑩国際的人権団体アムネスティ・インターナショナルは7月6日に声明文を発表し、この抗議行動で亡くなった人々に対して、「透明かつ独立な調査が必要である」と指摘した上で、逮捕されたウイグル人の釈放を求めた。

東トルキスタンのイスラム教モスクが閉鎖された。現在に至るも現地のインターネットと海外電話通信は切断されている。

残念ながら、わが国も含めて各国の反応は鈍い。

(続く)

■写真2番/8日ウルムチ市内に進駐する武装警察軍。撮影者AFP■写真3番/屋上より携帯で撮られたジェノサイド。撮影者不明。■写真4番/ウイグル族老人に自動小銃を向ける武警。「武装警察」を名乗っているが、実体は迷彩服を着用し、自動小銃と装甲車で武装した軍隊。撮影者共同通信■写真5番/市内中心部の中国銀行の窓の弾痕。人の頭位置に連続射撃されている。撮影者ロイター。■写真6番/武装警察の横を堂々と武装して通る漢族。撮影者ロイター。

2009年7月12日 (日)

ウイグルは誰のものか?

_edited 私がウルムチに行った1990年代には、ウルムチはまだウイグル族の街のたたずまいを失ってはいませんでした。

路ばたでハミウリというまるでラグビーボールのような大きな瓜を買い、宿の井戸水で冷やして皆で分けて食べました。皮も果肉も淡いレモンイエローで、たっぷりと甘い果汁を含んでいました。午後ともなると、あまりの暑さに表を歩く人も減り、たまにロバががたごとと荷車を引き、大きな網籠に入ったアンズや葡萄などを運んでいます。男性は皆小さなイスラムの帽子、婦人はスカーフ姿でした。帽子は丁寧な刺繡が入っていて、様々な意匠があるようです。

見かけた街の楽器屋で、上の写真の五弦楽器を買いました。なんという名前なのでしょう。聞きましたが、覚えられません。弾いてもらうと、なんとも枯れた涼やかな音色が奏でられました。思わず拍手をすると、楽器屋のオジさんはちょっと嬉しげに、奥さんにウイグルのコーヒーを出すように言い、近所から仲間を呼んでの五人のオジさん合奏会となってしまいました。もう私のことなどそっちのけで一生懸命です。そして演奏を終わっての、ムスリムですからコーヒーでの乾杯と握手。ほんとうに楽しい記憶です。このようにウルムチは、活気の中にも人の温もりのあるほんとうにいい街でした。

そしてこのウルムチから、カシュガル、タシクルガン、パミール高原、クンジュラブ峠を超えて、パキスタン領に入り、楽園のフンザ、ギルギット、そしてイスラマバードに至る数千キロの旅を続けました。その間、私の背にはこのバスタオルに巻いた名も知れぬウイグルの弦楽器、ザックには薬罐2個がガランガランとぶら下っていました。旅の教訓、旅の初めにデカイものと、うるさい金物は買ってはいけない(笑)。

D0123476_7575114さて、当時から既にウイグル族の土地への漢族の侵入は開始されていました。ウルムチは、ウイグルの経済の中心地であっただけに特にその度合いがひどく、伝統的な家並みの調和を破壊するように巨大なビルが立ち並び始めていました。ホテル、オフィスビル、官庁街など、それはほぼすべて漢族の所有によるもので、もともとの先住民であるウイグル族は、旧市街の片隅に追いやられていきました。

1949年、つまり元々のウイグルには、漢族はわずか4%しか居住していませんでした。それが、独立を奪われてから20年ほどたった70年代末には、新疆全体に占める漢族の割合は 30%に増加し、更には2000年には40%、そして現在ではウイグル族とほぼ同じ人口を持つに到りました。

つまり、先住民族と、独立を奪って入植してきた漢族がほぼ同数となってしまったのです。これはたまたまそうなってしまったのではなく、その背景には中国政府の強引な政策的な植民政策があります。

それどころか、ウルムチでは漢族が75%にも達し、先住民族をはるかに凌ぐという有様になっています。もはやウイグルの土地は、ウイグル人のものではなく、金と権力を使って奪っていく漢族のものになりました。

124700798800016101427ウイグル族は、漢族から「ウイグルの犬」と蔑まれて差別され、漢族が経済のすべてを握ってしまったために経済格差と失業に見舞われています。漢族がウイグルの天然資源を安く買って、工業製品を高く売るということをしたためです。

そして、ウイグルの天然資源である豊富な石油は、中国の3割にも達する埋蔵量を持つために、開発が急速に進められた結果、自然破壊は目を覆うものがあります。

ウイグルはまた、核実験の実験場として数十回もの被曝地ともなりました。1964年年から1996年にかけて、地表、空中、地下で延べ46回、総爆発エネルギー20メガトンもの核爆発実験を行っています。(札幌医科大の高田純教授「中国の核実験 シルクロードで発生した地表核爆発災害」)

先住民族であるウイグル族と、支配民族である漢族が、中国政府が謳うように平等であり、また自治区という名にふさわしいものであるかどうか、7月5日の虐殺と、7日の漢族の武装襲撃が明瞭に物語っています。

3番めの写真のこん棒を持ってのし歩く男たちの群は、7月7日の漢族の報復襲撃時ものです。こん棒や鋭い鉄パイプで武装し、ウイグル族の商店や居住区を襲撃しました。 124700584429916331573

4番めの左写真は外国のメディアが撮影した漢族のウイグル人の商店を破壊し、焼き払っている時の画像ですが、画面左上(*赤で囲っただ円・クリックして拡大してください)のヘルメットを被った武装警官が自動小銃を持って警戒しているのがわかりますか。驚くべきことに、まったく制止する様子がありません。銃口もまったく別な方向を向いているのがわかります。

官憲が黙認する中、漢族がウイグル族を襲撃したことが、この写真から手に取るようにわかります。そもそもウイグル族が手に武器を持って行進することすらありえないことです。写真にみえるような官憲の前で、暴力的な示威行進をすること自体が、現在の中国では不可能です。官許のもの、いや中国公安当局自身が手を回して煽動している疑いすらあります。

D0123476_7595162_2私がそう指摘する根拠は、5番めの左写真をご覧ください。公式発表でも千人を超える死傷者を出した、ウルムチ「暴動」の翌日、7月6日の写真です。外国メディアに必死の訴えをするウイグル女性の抗議を、武装警察が楯とこん棒で容赦なく殴りつけています。胸が悪くなり、口に苦いものが湧き出すような画像です。

行方不明の家族を探して抗議する、非暴力のウイグル女性に対しては非情な暴行を働きながら、方や屈強な漢族男性の暴力的示威行動は黙認し、あろうことか略奪、放火まで許容する。このどこが民族の「平等」なのでしょうか!なにが法治なのですか。そしてここのどこに「和諧社会」(調和社会・中国政府のスローガン)があるのですか?

本来、ウイグルはウイグル人のものでした。2度に渡る独立建国運動で、「東トルキスタン共和国」であった土地です。他民族の国に侵攻してわが領土とし、その名も「新疆」、即ち「新しい領土」と悪びれる風もなく改名し、数百万人の膨大な漢族を送り込む。そして支配民族として増殖し、奪い、差別する。

かつて、北米大陸で、中米、南米大陸において、オーストラリアで、タスマニア島で、パレスチナの地で、そしてチベットなど無数の地域でなされてきた悲劇が、21世紀の現代においても生き延び、むしろ拡大され、増殖し続けていることにいいしれぬ怒りを感じます。

(続く)

2009年7月10日 (金)

ウルムチの悲劇

_editedこの世は不条理で満ちていると思うときがあります。またもや、中国で少数民族であるウイグル族の「暴動」がおき、少なくとも中国政府当局の公表した数字では、死者140人以上、負傷者828人にのぼります。

また、ウイグル世界会議が、ウルムチ現地からの情報として伝えるところでは、死者は500人を超え、1000人という驚くべき数に登っているとも言います。

124690572572716210125 7月5日に起きたウイグル民族の「暴動」は、初めは非暴力的な平和デモであったことは明らかです。これはyoutubeにアップされた動画や、左の市民撮影の映像からも確認することができます。いたって平穏な市民デモであり、一般の国ならば、まったく問題のない合法的な抗議デモであることが確認できるでしょう。

http://www.youtube.com/watch?v=T24eO8AnG2k&feature=related

しかし、この平和的なウイグル族のデモに対して、武装警察(武警・治安用準軍隊)と、特別警察(特警)が進路を阻み、強制排除に乗り出しました(写真下・市民撮影)。なぜ自動小銃と装甲.車で武装する武警が、このように早い時期に投入できたのかといえば、それはウイグル族の住む新疆ウイグル自治区、あるいはチベット自治区には、常に大量の武警と軍隊が常駐しているからです。

124690608446116128822 そして武警とウイグル民衆とが衝突し、その一部が暴徒化し漢族の市民を襲撃し、バスや警察車両を焼き払ったという映像や報道が繰り返しなされました。それはこの数日の新聞、テレビでご覧になったと思います。

ところが不思議なことには、この暴徒化するデモやバス焼き討ちの映像は新華社と国営CCTVの官製報道のもので、市民撮影の映像にはないのです。(上の写真は市民が携帯で撮影したもの・下の炎上するバスは新華社の発表)

124690789054116314135 これも通常の民主的国家ではありえないことです。もし、日本で150人もの死者を出すような騒乱が起きたのなら、ありとあらゆる膨大な映像と情報が飛び交うことでしょう。

ところがこの警察国家というのもおこがましい中国においては、少数民族がデモをすると同時に、インターネットと外部への電話が切断されます。このウイグル「暴動」も、その発生と同時に遮断されました。

試みに、現在の中国がいかなる一党独裁の全体主義国家なのかは、Yahooチャイナを検索されるとわかるでしょう。「六・四」、「天安門事件」を検索してみて下さい。出て来ないはずです。すべてがフィルタリングというインターネット統制に引っかかってしまうからです。

124700835908216300910それどころか、中国国内でそれを検索すれば、したアドレスまで逆探知され、その時からあなたは常に、公安警察の監視下におかれることでしょう。

しかし、それをくぐり抜けるようにして、市民が撮影した映像や情報がTwitterなどを通して秘かに外国に伝えられました。あまりにむごいので、アップはいたしませんが、この中には虐殺されたウイグル市民の遺体の映像もあります。

いったいなにが7月5日、ウルムチで起きたのでしょうか。手に入る資料で見ていきたいと思います。

(続く)

■最初の写真 私が96年8月に、今回の事件の起きたウルムチで買ったウイグル族の銅製のポット。イスラム独特の微細な彫刻がなされています。

2008年6月10日 (火)

雪の国の悲劇 第3回 胡錦濤氏の犯罪

5228  1989年2月。パンチェン・ラマ10世の命をかけた演説と、その直後の謀殺に抗議する怒りがチベット族の間に高まり、また時あたかも2月のチベット暦正月を祝う年間最大の宗教行事であるモンラムが予定されていました。

 これに対して、新「総督」胡錦濤氏は、全国各地からチベット族が集まり抗議運動に発展することを恐れて、あろうことかモンラムを禁止するという暴挙にでました。仏教が民族の背骨の民族に、その背骨を捨てよ、と。年に一回の最大の宗教的、民族的な祭祀を止めよ、と。

 これにチベット人の怒りが爆発しました。2月7日にチベット仏教の聖地ジョカン寺(チベット仏教の総本山)で大規模な抗議集会が、僧侶、市民によりもたれました。

 胡錦濤氏が、この平穏な僧侶を中心とする抗議行動に打った手は、このようなものでした。まず、文官でありながら、チベットに展開する中国軍の指揮権を自分に与える要求を党中央に要請し、党中央が認めるやいなや、軍と武警(武装警察・鎮圧用軍隊)をもってこのチベット僧侶と市民に襲いかかったのです。

 市民、僧侶はチベット民族の国歌「雪国の理想」を歌いながら、まったくの丸腰で軍と立ち向かいました。今まで大切に隠されていた何本もの色鮮やかな雪山獅子旗が、涙ぐましいラサの蒼穹にたなびいたそうです。

 1989年3月14日、チベット、ラサ。午後1時40分。胡錦濤氏は軍と武警に無差別発砲を認め、装甲車が民衆の中に乗り入れ、人々を虫のようにひき殺しました。装甲車の車輪は血と肉で滑ったそうです。本来、正月が祝われているはずの平和なラサの街は虐殺死体で溢れかえり、負傷者の助けを求めるうめきと血で染まりました。


 これが1989年3月14日のジョンカン寺における大虐殺事件です。そして中国建国以来初めての戒厳令がラサに敷かれ、徹底した摘発と投獄が行われました。この悲劇を現出させた張本人が、胡錦濤氏です。彼はこの「成功」をバネに中央に戻り、出世の階段を登っていきます。

 そして20年後のラサでの抗議行動に、最も恐怖し、常識を逸した弾圧指令をだしたのも、彼の背後にいつまでもとりついているであろう1989年3月の悪夢がなせるわざだったと思われます。

 また、ラサ暴動事件の直後の5月、胡耀邦氏を悼んで大規模な民主化要求闘争が北京で起き、これもチベットと同じように軍事的に残虐に制圧されたのが、第2次天安門事件です。このふたつの事件が、まったく同時期に起きた同じ根を持つ事件であることがご理解いただけたでしょうか。

 このようにして、1989年から2002年まで中国とチベット亡命政府との対話のチャンネルは閉ざされます。

 正義と真実を唯一の武器として闘う、心優しいチベットの人々に、安らぎと平和が訪れますように心から祈ります。
                (この稿終わり)

写真は、チベット国旗の雪山獅子旗。

 

雪の国の悲劇 第2回 1989年ラサ

チベット問題に理解をしめした希有な共産党幹部である胡耀邦氏が失脚をすると、一挙に暗転へと向かいます。

同年1月、唯一の希望を絶たれた囚われのハンチェン・ラマ10世は、勇気を奮って、共産党のチベット政策を批判します。もはや彼には、わが身を捨てての戦いしか残されていなかったのです。彼の最後の、チベット民衆へのメッセージは涙なくしては読めないものです。

そして、このメッセージを発した翌日彼は死にます。共産党は心臓麻痺による死と発表しました。謀殺であることは、疑う余地がありません。もちろんそのような発表を信じるチベット人はひとりとしておらず、世界も信じませんでした。

 そして同年4月、奇跡の友情で結ばれた盟友、胡耀邦氏が失意の中、パンチェン・ラマ10世の後を追うように死去します。

その前月、春浅いチベットで大規模な抗議が起きました。雪の国の心優しい

人々が、圧政に対して立ち上がったのです。いわゆるラサ暴動です。

 この時に、中国からチベットにいわば総督(チベット自治区党委員会書記)として送り込まれたのが、つい先日、日本に来た現総書記の胡錦濤氏でした。氏は当時46歳、この任務を昇進の大チャンスと考えて、張り切っていました。彼が来る前のチベットは、文革による徹底したチベット文化の破壊と虐殺の傷が癒えておらず、完全な軍政下にありました。
 高僧のあいつぐ処刑、しかもチベット民衆の前での公開処刑などで大きく揺れている時期でした。彼はこれを平定するために送り込まれたのです。

Lhasa00_f_2 写真は、ポタラ宮の屋上部分。現在のダライ・ラマなきポタラ宮は単なる観光施設となっている。高度3000メートルの蒼穹がまぶしい。

雪の国の悲劇 第1回 パンチェン・ラマ10世とその奇跡の友情

中国深せんで、チベット亡命政府と中国が会談をしました。中国側は、政府の外交部ではなく、中国共産党統一戦線工作部です。つまり、中国はチベット亡命政府を相手にしていないよ、ダライラマ14世と個人的に接触しているだけだよ、というスタンスです。

一方、チベット側交渉団の団長は、ロディ・ギャリ特使。ダライラマ14世の重要な側近です。今まで6回にわたる接触のリーダーだった人です。

 ギャリ特使は、80年代に鄧小平-胡耀邦が試みた自由化路線の時にも、中国政府と接触をもっています。
 当時の中国は、鄧小平の指導のもとに開放路線が敷かれており、鄧小平はこの時期「独立以外ならすべてを議題にできる」とも発言していました。

その流れを進めたのは、ダライ・ラマに次ぐ地位にあり、ダライ・ラマ14世のチベット脱出の際にあえてチベットに残留し、十四年間にわたる投獄と拷問を受けた故パンチェン・ラマ10世でした。彼は「ダライ・ラマを支持する」と言ったために恐るべき迫害を受けました。紅衛兵の少年少女によって、眼を背けたくなるような拷問を受けている写真が現存しています。

日夜続く拷問に、彼は獄中で何度も「殺してくれ!」と叫び、自殺を試みたこともあったそうです。この声は、同じ獄舎に繋がれていた民主活動家の耳にも達したそうです。

パンチェン・ラマ10世の悲劇に心を痛めた共産党幹部がいました。胡耀邦氏です。彼は10世と会話をし、チベットの悲劇を知ることとなります。そしてふたりの間には、奇跡のような友情が生まれました。

胡耀邦氏は、党の政治局会議で「チベット問題で党は重大な誤りを犯した」と発言したそうです。彼の総書記という立場を考えると、尋常ではない勇気が必要な発言でした。この発言が、彼を失脚と死に追い込む導火線となったのです。

彼を党中枢に引き上げたのは、ほかならぬ鄧小平氏でした。彼は改革開放路線の遂行者として胡耀邦氏と趙紫陽氏を取り立てたのです。しかし、民主化運動に対する胡耀邦氏の支持、そしてチベット問題に対する姿勢に、鄧小平氏は激怒します。

鄧小平氏の改革開放路線は、中国が強国となる方途であり、チベットを開放し、民主化運動を支持することは、一党独裁の中華帝国を解体することになると考えたのです。

鄧小平氏は、なんの未練もなく胡耀邦、趙紫陽両氏を切り捨てます。そして、胡耀邦氏は同年5月に失意の中で死去します。


 この短い「チベットの春」の時期にロディ・ギャリ特使が中国共産党の中枢と話しあっているとする人もいます。内容はまったく分かりませんが、この時期が過去において唯一のチベット問題解決の時期であったことは確かです

                    (この稿つづく)

                   写真はLhasa05_f_3 、チベットの宗教的中心部であったポタラ宮前広場。巨大な五星紅旗がたなびき、ミグ戦闘機が威圧的に鎮座している。