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2010年4月29日 (木)

父の土いじり好き

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風が吹いて炊いてたくさんの椿が散ってしまいました。この椿の樹は、私の神奈川の実家を父母が亡くなって解体した時に植え替えて持ってきたものです。

父は園芸が好きな人で、毎週の日曜日ともなると必ず庭に出て、ここをちょん切り、あそこを植え替え、芝を刈りとひねもす土いじりをしていました。

ただし、何も考えないで植えるもので、せっかく大きくなった庭樹がたちまちギチギチになる始末。今の私からみれば、こうレクチャーしてあげたい。
・・・お父さん、野菜や樹には適切な定植の間隔ってものがあるのですよ、これを株間といいましてね、密植すると根が干渉し合って土壌に空気がかよわなくなるだけではなくて、幹の風通しも阻害されるので蒸れて病気に掛かりやすくなるんですよ・・・

また六畳間ほどの猫の額の裏庭には、各種の野菜の種を蒔き、夏ともなると・・・やっている方はわかりますよね。野菜のドド降りです。

料理好きな母の各種野菜料理から始まって、最後のとどめはビューンとジューサーで野菜ジュースを飲まされるんです。母はこれにひと頃凝りましてね、ニンジン、ほうれんそう、小松菜、トマト、各種の豆まで入れてビューンとやるわけです。

ああ、高校生だった私はイヤダったな。今でいう青汁ですよ。いちおうハチミツなども入ってはいるのですが、あのニオイ・・・う、ごかんべん。ひと頃は、朝二階で寝ている時に、階下の台所からビューンの音が聞こえるたびにアーメンを10回唱えたものです。

これを毎日学校に行く前にバカでかいコップで飲まされるのです。オチョコでいいのに。完全に飲まないと母親が哀しそうな顔をするのです。私はこれに弱い。悔しいので、通学の途中でゲーッとやってやろうかとも思いますが、健康な胃袋にはそんな芸当はできないんです。う~クソ早く学校に行って、購買部で焼きそばパンでも食って口直しをしなきゃ。親の心子知らず。

おまけに楽しい日曜日に遊びに出かけようとすると、父親がやれ芝刈りをしろだの、畑を耕せだの、虫を取れだのとやられるのだからたまらない。バッカじゃない、と思って内心毒づいていました。

それがそれから十余年。よもや本職の農家になろうとは!私の中の父親の遺伝子情報が突如ビックバンしちゃったんですかね。時折、若き日の父と今の私が並んで畑を耕している姿を夢想することがあります。

・・・あ、お父さん、だめだめもっと株間をあけないと!定植おわったら畑を眺めながらビールでも飲もうや・・・

2010年1月21日 (木)

私の写真事始め

1_edited2 写真を撮ることが好きです。このブログを始める前まで、特に写真を撮るのが好きだと思ったことはなかったのですが、やはりアップできると気分が違うんすね。

たまに私の写真をダウンロードして壁紙に使っています、なんて言われるとホコホコと嬉しいのですな、これが。

さて、まだガキだった時、そうですね16くらいだったかな、親父殿のペンタックスを借りて飛行機を撮りに行きました。私の当時の実家は神奈川の厚木飛行場の近くにあって、大山山塊を従えた富士山を背景に、飛行機がまるで水面に跳躍するスイマーのように舞い降りてきていました。

不思議と記憶は無音です。白い機体を光らせながら、富士を真横にして滑り込んでくる情景だけが記憶に残っています。夢中でシャッターを切りまくりました、と言いたいところですが、実際は24枚撮りの高いフィルムで、しかも家族のニカッと笑った集合写真なども入っているヤツですんで、慎重に慎重にパチっと写しました。今のようにデジカメで撮りまくり、すぐにPCで確認して画像処理をするなどというのはSFの世界です。

ところがまるでシャッター速度が追いついていなくて、心霊写真よろしくボケていたり、機体のヒップだけだったりというトホホばかりで、親父殿から「お前、才能ないなぁ」と笑われたものです。そうそう当時は、ベタ焼きといって10枚くらいミニサイズで焼いて、その中からこれとこれね、みたいに選んで大きくしていたもんでした。ああなんと、昭和古老の聞き語り風な話であるよ。

高2の夏休みの時に、親父殿が新型カメラに買い換えたかなんだかで、このペンタックスはめでたく私のものになります。嬉しかったですね。今と違って花鳥風月などはゼェ~ッタイに撮りませんでした。なんせピカピカのメカ派でしたから。私が花や樹や雲を撮るようになったのは、もう少し後の山登りをしだしてからです。

高2の夏休みに厚木飛行場の着陸直下地点でカメラを構えていると、不思議な一団と毎日出会って、挨拶をするようになりました。オジさんばかりで、麦藁帽子をダサくかぶり、手拭いを首に巻くというおおよそヒコーキファンとは思えない姿で、カメラで米軍機を撮り、ノートになにやら記録をしているのです。

なんと怪しい人たち、きっとこれがあのスパイという奴なんかしらと思っていると、私に「坊や冷たい麦茶飲まないかい。菓子パンもあるよ」などと親切です。だいたい私は子供の頃から、何か食べ物をくれる人は皆いい人という固い信念の下に生きていたのでした。

これが一部では有名な日本共産党の反戦なんとか監視団という人たちでした。当時燃え盛っていたベトナム戦争から帰還して、厚木飛行場に付設された日本飛行機という会社で修理されていた米軍機を、しっかりと監視し、記録に取っている人たちだったんですね。

そのうち、「キミの写真も現像してあげようか。僕のうちで現像できるんだよ」なんて危険な甘言には、もちろん乗りました。だって現像代をどう工面しようかと、小さな胸を痛めていたのですから。

こうしてこの夏いっぱい私は、米軍MPが柵の向こうから車両をどっかりと据えて、望遠レンズつきカメラで遠慮なくバチバチと撮られている「スパイ団」の、唯一の少年になっていたというわけです。

■写真 里山から登る満月。まるでパラオかバングラディシュの国旗みたいですな。現実にパラオ国旗は、日の丸へのオマージュだということは知られています。

2009年12月22日 (火)

旧友 村上もとかのこと

_edited 寒いですね。暖冬、暖冬と行っているうちに本格的な冬になってしまいました。今年ももうおしまいですか。

私の高校の後輩の野口さんが(といっても、ぜんぜん重なってないけど)宇宙に行き、私の小学校の一番の友達だった村上もとかが「JIN」で大ヒットを飛ばし、これまたゼンゼン私の手柄でもないのになぜか嬉しい。

村上もとか、もっチャン、ガキの頃から暇さえあれば、教科書にでも、ノートにでも絵を描いていました。いつも。暇さえあればあきることなく。私たちガキ仲間は、彼に戦艦大和や零戦を描いてもらって、あまりのうまさに私など机の前にズッと貼っておいたほどです。
細密なメカを描かせると、美術の教師も唖然とするほど上手でした。いわゆる展覧会向きではないのですが、子供ばなれしていました。

夢中になると、口を半開きにして、舌をちょっと横に出して描き始めるんですが、子供にしてトランスしちゃうんですね。彼のお父さんは、神主にして、新東宝の美術の人で、彼はたいそう父親を尊敬していました。彼はまた、描くだけじゃなくて、描いた絵にお話をつけるんですが、これがまた面白いんです。

ただし運動神経ときたらゼロで、後に剣道漫画の「ムサシ」や「龍」などを読んだ時はびっくりしました。言っときますけど、主人公にはまったく似てませんよ。

私もウソ話は得意でしたので、彼とは毎日、学校の帰りにあることないことお話をデッチあげながら帰っていました。彼と私は高校が違ってからあまり出会うチャンスがなくなったのですが、高校を卒業した頃、そうですね19ぐらいだったかしら、駅で彼とひょっこり出会いました。

今、石森章太郎先生のところでアシスタントをしている、大変なんだって言っていましたが、すぐに電車が来てしまい、またなと言いながら、それっきり30余年です。私も地元を去ってしまい、いつでも会えると思っていても、会えないものです。

いつのことですかね、30歳代だったでしょうか、偶然、書店で村上もとかという名を見て、よもや、いや絶対に彼だと思って手にとり、大きく成長した彼の絵に再会しました。もう私が農業の道に入った頃です。

かつての繊細で丁寧な画風は変わらず、大昔苦手だといっていた女性像がなんとも愛らしく、生き生きとしていて、なにかそれだけで、鼻の奥がつーんとしたことを覚えています。新作の「JIN」の咲さんや野風は、実にたくましくも美しい。彼は強い女性が好きだと見えます。なんせ当時、小学6年ですから、そこまでは知らなかった。

女の子の絵といえば、かつて私たち小6の色気づき始めたバカガキどもは鼻の穴をブヒブヒとおっぴろげては彼にヤマト、ゼロセン、そして可愛い女の子を描いてもらうことを懇願していたものです。あの5組のエリちゃんお願いってなものです。ええい、巨匠村上もとか先生になんたることを。

「JIN」が空前の大ヒットで、新聞や雑誌で彼の写真をよく見るようになりました。私の知っている絵を取り上げたら死んでしまいそうな痩せた少年は、自信をもってカメラに少し照れくさそうに微笑んでいました。

2009年2月16日 (月)

料理ということは、大事な人に食べてほしいから輝くのです

_edited わが農場のこの春一番めのタンポポです。まだひっそりと農場の路傍に照れくさそうに咲いています。

横には兄弟か、姉妹が、まぁどっちでもいいか、準備を終えています。

この何カ月か、少年を引き受けて農場で暮らしてもらっています。彼とつきあうと色々なことを教わります。私は子供に恵まれなかったので、子供という存在を日常で知ったのは今回が初めての体験でした。

例えば、もっともささいにして日常そのものに思えて、最大のことはやはり「ご飯」ということでした。すごくでかいですね、これは。私はいままでなんやかんやエラソーに食育だなんて消費者にくっちゃべっていました。いわく、日本の食や、農から構想できる食のあり方なんかです。それなりに自信もありましたし、今まで自分が生きてきた農の生活の体験や知見で語れることも多々あると持っていたわけです。

う~ん、今まで「消費者の皆さんよ、日本のスローフードとは」などと言っていたワタクシは、今急激に自信をなくしつつありますね。こら笑うでない。というのは、「食べさせるべき対象」とでもいうべきものが生れたからです。

少年に毎日、朝昼晩食させるという中で、初めて分かったような気がします。食は自分やパートナーはとりあえずいいのだと。親はとりあえず置こう。ガキになんぼのものを食べさせられて、初めて大人として背筋が伸びるのではないのかな、と。

もし、私がひとりだったら、夕飯なんかまさにテキトーでしょう。そこらの野菜と肉をチャっと炒めてわんら。酔っぱらっていたら、卵かけごはんでもいい。

しかし、食事に「誰に」という述語ができると違うでしょう。こんないいかげんなことはできない。自分のガキに今日の夕御飯は卵かけご飯ね、とは口が裂けても言えないでしょう。それは恥です。

Img_0013_3 ところで、昨夕はブリ大根をやりました。そう思うと、今まで、考えてみれば、実にお恥ずかしい話でしすがソバツユをうめて、ブリと大根をただ煮ただけでした(汗)。昨日はひさかたぶりに料理本にご登場願いました。レタスクラブ別冊だかなんだかの「和食の基本」です。

ブリのカマは塩をかけて30分間置きます。大根は米を少し入れて下煮します。ブリは血合をきれいにします。そ、ていねいね。ちょっとでも血が見えないくらいに。こういうしっかりとした下処理を今までやらなかったんだなぁ。いかん!

これを味醂と酒をハーフ&ハーフで煮立たせるんですが、これも今までやらなんかった(自己批判)。いったんアルコールを飛ばしてから、ここまでしっかりと下処理をブリと大根を煮込むわけです。まずいはずがない。完成まで実に2時間。

今までブリ大根はさんざん作ってきましたが、初めて真面目に作った気がしましね。おー、ブリのカマよ、来い!しっかりあか抜けたブリにしてやるぜ、この手間ヒマをかけおったブリ大根は、翌朝も冷えても美味しかった。

食べさせたい対象がいたから作るのが料理です。こいつが、この大事にも思うこいつが嬉しそうに「うまい」と言われれば、そう思わず自分も笑みくずれる。これが料理です。料理とはすぐれて関係的な存在なのです。このことに関して実感をもってそう思いますね。

食べること、あるいは、料理は関係の中で生れ、そして活きる仕事なのではないのではないでしょうか。それは私が大事に思う人と人の中で、その中で初めて本気でやる気になり、その人が食べて美味しかったと言って初めて完結するような心と心の関係そのものなのです。

う~ん、きれいにまとめすぎたかな(反省)。

2008年7月25日 (金)

サガミハラの記憶 第4回 サガミハラはどこにありますか?

Img_0072 どうやら病院に運ばれたようで、治療を受け、脳波をとられ、左腕の骨に一本にヒビを入れられ、まるで包帯ミイラ男のようになって入院していました。その時のことですが、あのトビの親方が僕にというわけではなさそうですが、見舞ってくれました。この病院では数人がこの闘争のけがで入院していたのですが、彼は地元の饅頭をもって見舞いに来てくれました。
これがうるさい、まことにうるさい。下の階から彼の声が聞こえる。「おー、元気だせ!今度退院したらいいとこ連れて行ってやる」(どこだぁ?)、そしてミイラ男の僕を見つけると、「このボーズ、この馬鹿野郎!親を心配させやがって!」と言いながら、けが人の僕の頬を張るんです。そして親方の熱い涙が僕の顔にボタボタとかかりました。涙が熱いというのを初めて知りました。
自宅に帰って、母親に力一杯叱られました。夕食の時、二人で食卓を囲んでいた時に、ふいに母は僕に「よくやったね」と言って泣き出しました。塩辛い夕飯でした。
Img_0131 このようにして72年の夏は終わり、僕の相模原闘争も終わりました。 
非暴力直接行動という行為は、暴力によるそれとは比較にならない代償を要求します。肉体的にも、人間関係的にも、そしてなにより自分の心に恐怖の楔を打ち込まれた人間はいわゆる武勇伝を語りません。
僕すらこの話を開封したのはそれから30年余たった昨年だったほどなのです。カミさんにすらはなしませんでした。話さないというよりも、話せないのです。あの時の恐怖が甦ってくるからです。
怖というのは人間の想像力がもたらすものであり、人を打ちのめします。
しかし、歓びというのもまた、人の想像力の賜物なのです。かならずしも勇敢に生きる必要はないが、勇気を心に生きていこうと思っています。あ時のサガミハラに恥じないように。
後日談ですが、あるベトナム使節団が日本に来た時に、「サガミハラはどこにあるのですか。サガミハラの人々にベトナム人民は感謝したい。この気持を必ず伝えてほしい」というメーッセージを聞いた時、僕は涙が止まりませんでした。
心が届くということはほんとうにあるのです。ほとんどの場合届かないが、ある一瞬、奇跡のようなことが起きて、心が届くことがある。人は、少なくとも僕はこの一瞬のために生きていると言って過言ではないと思います。今でも歪んだままの左親指の爪を見ながら、そう思いました。
ウユニ塩湖にできた川に遊ぶ。下はボリビアの典型的な夕飯。硬いがそれなりに美味しい牛肉のBBQとボテトチップス。ビールの泡が溢れているのは、高度が3000mを超えているため。富士山頂上で食事をしているようなものです。

2008年7月24日 (木)

サガミハラの記憶 第3回 ゲート前、深夜

Img_0012_2 そして深夜、基地正面ゲート前のすべての灯が消えました。

腕時計がなかったので時間は分かりません。たぶん12時ちかかったと思います。
周囲の街灯や僕たちを照らしていた警察車両のライトが一斉に消され、わずかに基地の光だけがおぼろに一個二個ついているのみとなりました。
それからたぶん10分もの間、おそろしいほどの静けさがあたりを包みました。実際は警察車両が警告をしていたでしょうが、そのようなものは僕にはまったく聞こえませんでした。今まで止まっていた鈍い灰色の機動隊の幾重もの隊列が、ゆっくりと前進を開始し始めました。彼らのヘルメットがズッズッと黒い津波のように押し寄せて来ました。

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さて、映画「いちご白書」をご覧になったことがあったでしょうか。あの映画の最終シーンでの座り込み円陣を組む占拠学生の排除のシーンがありました。あれが座り込みという方法(戦術)です。

一般的には、座り込み自体はそれほど過激な戦術ではないと思われています。実際、それまでも僕はベ平連のデモなどでは気楽にしていました。しかし、ほんとうはとてもこわい闘争戦術だとその時に知ります。なぜならひとりが恐怖にかられて逃げれば、全体が崩壊してしまう危うさを持つからです。フランスの核基地反対闘争では、互いにベルトに紐を繫ぐ例すらあったほどです。逃がさないぞというのではなく、逃げない自分と逃げないあなたが、今この地で、この時間に一緒の運命にいるんだよ、という絆です。まるで心中みたい。そうです、それは一種の集団心中に近いのです(笑)。

そして、市民環視の中で白昼にするのとは違い、深夜、誰もいない軍事基地の前での「戦車を止める。ベトナムには送らせない」という実効性を目指してのそれなのです。これはデモンストレーションの域を離れていたようです。つまりは非暴力直接行動です。

歯の根が合わないほどの恐怖が僕を襲いました。耳がキーンと遠くなるような恐怖。双眼鏡を逆さに見ているような恐怖。武者震い、とんでもない。口がカラガラに渇き、自分が皆んなとなにをシュプレッヒコールしているのかもよく分からない。そして機動隊による実力排除が始まりました。


隊列の前と横から二手からごぼう抜きにしていくのです。それもただ引き抜くのではなく、ジュラルミンの楯を組んでいる腕と腕の間に叩き込み、編み上げ靴で顎や顔面を蹴り潰して排除していくのです。前のほうからブバッ、グシャという音と悲鳴が続く。暴力の前に僕たちはただ坐ることしかしていない。身を投げだすことしかできない。
ベトナムへと向かう戦車の前の単なる妨害物として我が身を投げ出しているにすぎないのです。

Img_0045 僕の身体はひきつぶされる自動車止めだ。

僕の身体はコンクリートブロックだ。
僕の身体は自動車止めだ。
人間ではない、単なるモノだ。

ただ、決意をして平和のためにひき潰されることを選んだモノだ。
この瞬間、ひとりのベトナムの子供が無事であることを祈ることのできるモノだ。

そして僕の番が来て、ジュラルミンの鈍い色をした楯が僕の腕から親指にかけて叩きつけられました。僕の左親指の爪はその瞬間引きちぎられて飛んでいました。
鮮血と、一瞬遅れての激痛!
そのまま隊列の外に連れ出され、僕は自分の爪をもがれた左親指を押さえながら、なおも続く機動隊の検問と称するジュラルミンの楯の間を通らされました。そしてそこで容赦ない殴打が両側から受けました。胃に食い込む編み上げ靴。倒れると髪をつかんで立たされ、なおも腹を蹴りまくる。

彼らもまた昨年の三里塚の東峰十字路おける神奈川県警の警官3名もの虐殺に対する復讐に燃えていたのです。あの時殺された警官は、交番の巡査でした。たまたま成田配備で応援にいったすぎなかったのです。しかも殺されたひとりの若い巡査には生まれたばかりの幼い赤ん坊すらいました。同期の仲間は慟哭したそうです。その中の幾人かはいたでしょう。

こんなことがわかるのは十数年も経てのことです。お分かりになるでしょうか?人が人を殴るのには理由があります。殺し合うには理由があるのです。人は皆、サディストでも、ましてや殺し屋でもない。むしろ情が厚い人こそがこんな状況で狂うのかもしません。機動隊員のひとりはこう言っていました「わかったか、おいわかったのかよ、セーガク!こら、わかったのかよ!」

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僕がかろうじて、「おれになんの恨みがあるんだ、おれは君らに石ひとつ投げちゃいないぜ、ただ、おれらは平和を、ただ平和を!」というようなことをかろじて叫ぶと「うるせぇ!」と楯で思いっきり頭を殴られて昏倒。

写真はウユニ塩湖の村。そしてこから地上最高度の塩の湖へと。

2008年7月23日 (水)

サガミハラの記憶 第2回 最後の薄い人の壁

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この話しをし出すと長くなります。色々な情景や、人の顔が浮かんできます。僕にとっての原点みたいな闘争でした。こういうと不謹慎かもしれないが、ほんとうに楽しい闘争でした。今でも晴れやかな気分で胸を張ってこう言うことができます。
あの時、1カ月、たった1カ月ではあったが、アメリカの戦争機械は混乱し、作戦は滞った。僕たち日本人はそれを誇りに思う、と。
闘争の最後の夜のことだけをお話して終わりにします。
国の介入により神奈川県が屈し、戦車の搬入の夜が来ました。幾多の党派がにぎやかにデモをして、石のひとつも投げて帰っていった、その深夜。
戦車のコンボイが基地に向けて静かに進み始めたのです。その時、基地ゲート前の現場に残っていたのはわずかに百人にも満たない丸腰の市民と若者だけでした。僕たちができることは、互いに腕をしっかりと摑み合い、頭を膝の間に入れるようにしてただ路上に座り込むことだけでした。もちろん石ひとつ持っていませんでした。
Img_0059 僕たちはベトナムに戦争機械を送ることを阻む最後の薄い壁のようなものでした。僕たちが突破されれば、そのまま戦車はノースピア(米軍用桟橋)からベトナムに送り出されるでしょう。僕たちがここで突破されれば、ベトナムへとなんなく運ばれてしまう。
この時に、たった数十人の日本人しか現場にいませんでした。深夜のために住民はいませんでした。もちろん数百人の機動隊に対して勝てるはずもない。しかし、勝つとか負ける以上のなにかのために居た少数の人の戦いが始まります。私たちはこの薄い頼り無い壁が崩されれば、この1カ月間が無になることを理解していました。だから、帰宅をせずに、この場に残ったのです。誰の命令でもなく、指令でもなく、自分の内なる深いところからわきおこる声に従って。
このようにしてわが身を戦争機械の前に投げ出す戦いが始まりました。流血の深夜が始まったのです。
写真は、ウユニ塩湖の朝。塩湖を小高いサボテンの丘から見る。

2008年7月22日 (火)

サガミハラの記憶 第1回 非暴力ほど尊いことはない

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非暴力の抵抗は恐らく人間が取りうる抗議、抵抗の方法として最も恐ろしく、それゆえに、最も他者の心を打つものだと思います。
ガンジーの塩の行進は、ただ歩いていたのではなかった彼をあそこでイギリス官憲が捕縛したり、ましてや密かに殺したりすればインド全土の民衆が立ち上がるというものすごい戦いでした。彼のやや前のめりになって歩くその小柄な姿はイギリス官憲には巨人に見えたことでしょう。
なぜなら、彼の後ろには数億の怒れる民がいたのですから。
悲惨に眼をつぶらないこと、不条理に黙さぬこと、許せぬことには許せぬと言うこと、結果、弾圧を覚悟すること、その前に身を投げ出すことを厭わぬこと、己の苦役が時に他者を感動させることを知ること
・・・そしてそれを必ずしも自身の行為の共感を期待しないこと。
この季節になると思い出します。1972年の夏の事でした。僕は神奈川県の相模補給しょうゲート前で1カ月間過ごしました。
ちょうど二十歳の頃です。
当時、日本はベトナム戦争の後方基地でした。毎日のように僕たちの頭上を傷ついた米艦載機が飛び、日本の航空機修理工場は米軍機で一杯でした。相模補給しょうは米軍の戦車や装甲車を修理するためのもので、そこにも泥だらけで、破損した軍用車両が日々大量に運び込まれていました。
つまり、この神奈川は、沖縄と並んで米軍の軍事行動を直接支える重要な拠点だったわけです。
言い換えれば、ベトナムの人々を殺戮する戦争機械の重要な末端、後方基地だったのです。
Img_0033 当時僕は暴力的な闘争がとことん嫌になっていました。壊して、破壊して、仲間同士傷つけあってなにか新しいものが生まれるとは思えなかった。
かといってただのデモや学習会だけではなく、今、ここで目の前を戦争機械が人をひき潰して進んで行く時に、もっと直接に「実際に止めること」をしたかったのです。「戦車を止めろ!」という声が誰ともなく発せられ、ほんとうに多くの若者があの基地の前に集まりました。当時20歳の僕もその中にいました。
各々ゲート前の桜の並木道にテントを張り、自炊をし、討論をし、デモをし、ビラを切り、汚い立て看板を作り、銭湯に行き、夜ともなれば居酒屋で現地の人と激論をしておごってもらったりもしました。
土曜の夕方ともなれば、それこそ縁日の人出で(実際テキヤさんも来てました)、「おいガクセー、そのビラ寄越しな。なに書いてあるんだ、教えろぉ!」というトビの親方とも友達になり、親方を納得させることができるとカンパをもらえました。いや、それどころか、親方はぼくたちの汚いチラシを30枚くらい取ると、「おいこら、読め」と来る人に自分でも手渡したんですからありがたい。
街全体が、トビの親方風に言えば、「ベトナムの野郎はよくやってる。ニッポンは負けたが、あいつらは死ぬ気でやってる。アメリカは許せねぇ。俺らができることはこの若い衆を応援することだろうが!」という気持に満ちていました。水をもらいに小さな商店の裏にいくと、おばぁちゃんがにこにこ笑って「ご苦労様です」とアイスクリームを手渡してくれるようなかんじです。
それが、1972年の真夏の相模原でした。
写真はボリビアのウユニ塩湖。白く見えるのは岩塩。地平線まで真っ白な岩塩が続き、蒼穹と世界を二分割している。下は、この季節(3月)特有の塩湖の中の川。この時期にしかみられない。

2008年6月10日 (火)

学校脱走委員会からのメッセージ 逃げてこい、受けとめてやる!

Img_0019  昨日の秋葉原の大バカヤローは、一流高校の落ちこぼれだそうだ。まったく、タイムスリップして、わが校の「学校脱走委員会」に強制入会させて、シゴいてやりたいもんだ。

 あ、申し訳ない、前後を逸した。今回のことに遭遇し、命を失われた方々のご冥福をお祈りする。あなたがたのなしたかった夢、生きたかった人生を思う。また、ご家族の歯ぎしりするような怒り、身悶えするような哀しみに、頭を垂れたいと思う。合掌。

 さて、この大バカヤローに戻る。こいつはあるところまで、私だ。このような奴に限って「逃げる」ことを知らない。逃げりゃあいいのだ、逃げりゃあ。中学まで地域一の秀才でブイブイいわして、超一流高に入った途端360番中300番に落下。それで、傷ついたんだと、馬鹿か!

 勝手に傷ついて、勝手に腐ったガスを腹一杯に溜めて、後は落ちこぼれ。勝手に理不尽に母親を殴る。お定まりの家庭崩壊。自分のせいで、いっそう追い詰められる。

 そしてあげくは、勝手に自分の暴力的な破壊衝動を全開にして、見知らぬ他者を殺戮する。まさにヘルプレス。全部ひとのせい、全部他者が悪いってか。

 高校の落ちこぼれ一歩手前だった私に、コイツへの処方箋をレクチャーさせてほしい。私の場合は、けっこう上位で入学して、すぐに怠け者だったのでまっさかさまに落下傘降下してしまった。数学なんか赤点大王だったゾ(←えばることか)。

 その私がレクチャーしようではないか。まず、逃走することだ。逃走を構想し、計画し、仲間を集め、情報を収集し脱走する。え、こんなメンドーなことは出来ない?

 馬鹿だなぁ、そう簡単に高校が逃がしてくれると思うのか。簡単に逃がしてくれないから、楽しいのだ。壁は高いからやる気がでるのだ。やがて、脱走戦術だけではなく、その対象にも思いは及ぶはずだ。

 何度か脱走を試みるうちに、「学校を脱走する」という意味がわかってくるのだ。「学校」の意味もわかってくる。「学校」は自分にとって必要なのか、必要とすればなんなのか、逆にいらないとすればなんなのか、ちょっとずつ見えてくるはずだ。これが哲学用語でいうところの「対象の相対化」だ。えーと、そんなのあったか?

 そして、逃走が出来なかったら、闘争する。闘争して負けたら、もう後はないから、ここで一発シャバを替える気にもなろうというものだ。

 これができれば、君はもう落ちこぼれではないはずだ。なぜなら、落ちこぼれた対象が、しょせん、まぁそんなもんだと気分が切り替わるからだ。学校の外には大きな世界が開けている。これは保証しよう。

 この男はもう取り返しがつかないが、そのような大きな世界は君に大きな手を拡げて待っている。

 農業の世界だ。農業の世界に逃げてこい! くだらねぇガスを溜めていないで、スッパリ別れて、こっちへ来い。こっちは深く、広い。眼をつぶって飛べ!たいした距離じゃない。

 クソ、縁もねぇお前らなんか、受けとめたくはないが、しゃぁねぇ、受けとめてやらぁ!

写真は、黄色いタビラコの可憐な黄色の花とタイの鮮やかな菓子盆。Img_0017_6

2008年6月 2日 (月)

学校脱走委員会の後日談

Img_0023_2  学校脱走委員会の後日談をしよう。

 美術部長は、後にある国立大学の美術史の教授となった。この事件の半年後に、私が本格的な校内反乱組織である高校全共闘を作った時も、律儀につきあってもらった。しかし大学に行って連絡が途絶えた。

 なぜ彼が、私とこんな二人三脚をしたの分からなかった。だいぶたって再会した折りに、酔っぱらって聞いてみたことがある。「なぜ、オレとあんな危ないことをしたんだ」。

 彼、答えて言った。「退屈な学校から抜け出すには、お前について化学室の窓から出るしかなかったんだ」

 歯科医の息子は、二浪したあげく聞いたこともない歯科大学にもぐり込み、今は父親の跡を継いで診療している。彼は2回目の脱走で、バイクという新兵器を使ってスティーブ・マックインよろしく逃げて成功した。校内反乱組織には、当然こなかったが、誰も文句は言わなかった。好きなエレキはいまでもやっているそうである。今でも診断書は大量に発行しているのだろうか。藤沢近辺の方、あの歯医者は危険ですぜ。

 生徒会長は、校内反乱組織には加わらなかった。現在は商社マンになって、サウジアラビアだったか、オマーンだったかであこぎな仕事をしている。ボーボワールのような女房をもらったが、離婚したという。前回会った時に、「あの脱走がオレの人生最大の冒険だった」とウルウルしていた。あいかわらず情けない実存男である。

 パチンコヤンキーは、頼みもしないのに校内反乱組織に加わってくれた。後に、もっとも縁がなかったはずの本の世界に入り込み、今は書店チェーンのえらいさんをしている。いかなる心境の変化があったのか、聞くと怖そうなので聞いていない。

 そして私は、ご承知のとおりに有為転変の後に、しかるべくしてお百姓になった。10年ほど前に再会した時には、全員がのけぞっていた。

写真は恐竜の頭蓋骨モデル。当時の私たちのようだ。

より以前の記事一覧