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2009年5月21日 (木)

農業は都会人のお花畑でもなければ、経済の草刈り場でもない

_edited 私は今まで、自分の農場でも2組の研修生を受け入れました。一組は無残な失敗。あろうことか多額の借金を踏み倒して、四方に不義理をした挙げ句夜逃げしてしまいました。私の取引先を紹介したために、その後始末に追われ、私自身の信用も傷つけられました。

そしてもう一組はすったもんだの挙げ句、今や子供を2人作っていつの間にか村の一員になっています。毎朝、チャリンコの後ろに子供を乗せて村の保育園に送る若い父親の姿が見られます。経営的にも儲かりこそしないものの、しっかり安定しているようです。

この二組の明暗を考える前に、農業の中でなぜ後継者が出てこないのか考えてみましょう。前のブログ記事で、大きな車を買ってやって、若夫婦の新居を作ってやる農家のことをお話しましたね。どうしてこんなに優遇されて農業ができないんだ、とも書きました。

でも、出来ないのです。プロの農家が減ってパートの農家、つまり兼業農家のほうが今や多いともどこかで書きました。なぜなのでしょうか?原因は単に減反政策だけではないのです。

あるいはこんなことも村ではよくみられます。農家の娘は農家に嫁がないのです。農家の母親は娘が農家に嫁に行くというと必死になって止めます。娘も高校のボーイフレンドが、農家を継ぐとなった瞬間お別れとなったなんてケースはよくあることです。

理由?簡単です。農業が食えないというのは一面の真理、リアルな現実だからです。知恵を絞り、汗をかいて、ようやく食えるのです。

ですから私はあえて、都会から来る新規就農希望者にお聞きしたい。何代も続いたプロの農家が辞めていくのに、あなたがたひ弱な都市の人に農業が務まると思いますか?この農村という因循姑息ななにもかにも都会と違う社会で生きていけますか?

_edited_2 ひ弱と私に言われてむっとなった人、手を挙げて。おやおや多いですね。

「ひ弱」の意味は「土地なし、金なし、技術なし」の三大要素のことですが、その前にもうひとつ大きなことが実はあるのです。

大部分の新規就農者がふわふわとした夢のような就農を考えていることです。「田舎暮らし派」はいってみればこんなイメージでしょうか。

「朝、野鳥の声で目覚めると妻がいれてくれたタンポポコーヒーの芳香がキッチンからした。薪オーブンから焼きたての自家製小麦で作ったライ麦パンが取り出される。農園で採れた新鮮な野菜と柚子のジャムで朝ご飯。さぁ、今日はなにをやろうか、畑のかぼちゃの手入れでもしようか、それとも山菜取りにでも。午後は菜の花畑でヨガでもやろうか」

一方、昨今流行の「農業で一発起業派」バージョンで走ってみますか。

「イチゴを作ってみたい。しかも加工-販売まで一貫してやりたい」、あるいは「バラの切り花をやりたい。オランダからいい品種を輸入すれば市場は大きいはずだ」、「牛をやりたい。オーストラリアのような品質管理がしっかりした牛肉生産してみたい」

_edited_4 こちらの方の夢は、田舎暮らし派より一見リアルなようですが、詰めて聞くと資金手当て、苗の手当て、保管、デリバリー、市場のリサーチなどほとんどしないままに開始して、多額の金融の圧力で自転車操業を続けている場合も少なくありません。農業経営の実際を予習しないまま、都市の激烈な競争社会より農業のほうが楽だろうくらいな気持で参入しているのです農業を舐めています。後者の「一発起業派」の方は「田舎暮らし派」がせいぜいが夜逃げですむのに対して、下手をすると数千万円単位の大ヤケドを作りかねません。

就農はオーダーメイドの服のようなものです。百人いれば百人のイメージがあるようなものです。だからこそなにをしたいのか、それを現実に手にいれるためにはどうしたらいいのかを真剣に考えて欲しいのです。

たとえば、ライ麦パンを作るためのライ麦の10アール(1反)あたりの収穫量はどのくらいなのか、自給だけではなく売ることは出来ないのか、米と麦は組みあわすことは出来ないのか、そこからの自給分を引いた販売用はどのていどなのか、そしてその収益で家族を養えるのか。

事前に調べられることは多いはずです。都会から農村に通うか、私のような経験者に聞くか、あるいは今は専門の窓口すらあります。ところが大部分の人がそれをしない。感覚的にとらえて、現実を見ようとしない。なぜなんでしょうか?プロの農家が逃げている現代に不思議ではありませんか。そんなことも調べてこない人に農業ができるはずもありません。

就農は夢だけで語っているうちは単なる夢にしかすぎません。だから夢を見たまま飛ばないように。こんな腰つきで「見る前に飛べ」をやったら、確実にあなたは飛んだ結果、谷底に落ちることでしょう。農業は都会人のお花畑でもなければ、経済の草刈り場でもないのですから。夢は経済から崩れていくのです。

■[写真上) 地上7mの納屋の屋根のトタン張りをしているヨーコ女史。このくらいの高さがいちばんコワイのです。

■[写真中) 納屋の柱組みを作業。右がヨーコ女史。腰の釘袋が様になっています。手前に見えるのがU字溝で自作した土台。これを地下80㎝ほどに埋めて、周囲をコンクリートで固めて固定し、その上に柱を乗せます。入植から10年間は、大工仕事とお別れできなませんでした。経費の削減が目的でしたが、やってみるとそれなりに面白いことに気がつきました。最後は自宅まで作るはめに。

■[写真下]まだ小犬の愛犬モモをうんしょ。彼女は中形犬にもかかわらず18歳まで生きた長寿の犬でした。驚くほど賢く、しとやかで優い犬でした。

2009年5月20日 (水)

お帰りなさいと農は待っていてくれる

_edited_4このところ、私のまわりで農業に飛び込む人が激増している。

自分が創業した有機農産物流通のエライさんを退職して北軽井沢で百姓をやるという今井さん。

どうせ市民農園ていどだろうとタカをくくっていたらギッチョン、ドンっと本格的な面積で、そのために西村先生について研修もどきもするそうだ。あいかわらず勉強が好きな人ではある。

顔は「つのだひろ」(知っていますか?あのメリージェーンだよ)のようだが、根はすこぶるつきの繊細な男で、しかもポップだ。若い頃は若松孝二監督の助監督などやっていたそうである。

有機農業界随一の文化人といえばまず彼であろう。文学はあたりまえ、映画を語り始めると、実に長い、詳しい。だから飲んだ時には、彼に映画の話は振らないことにしている。私が新作のハリウッド映画でわ~い、わ~いといっている時にこの男は、それはそれは渋いスペイン映画なんぞをこまめに見ているのである。

とうぜんのこととして理論派で、やったこともないくせに(やーい)有機農業はなんでも知っていて、現役農業者だということだけが唯一の看板の私の先生でもあった。しかし、同じ農業者になっちまえば、こっちのもんよ、と手ぐすねを引いて待っている。

奥さまはお菓子づくりの名手なので、そのために工房も併設するという。私と一緒で、まったくカミさんには頭が上がらないのが親近感を呼ぶ。この数年、彼の優しい神経がズタズタになることばかりだった。 どうせもうかりっこない農業をやるに違いないのだから、ぜひ奥方ともども農のハンモックでゆったりしてほしい。

そうかと言えば、同じ有機流通界に居たこれまた友人の松岡さんも昨年末に帰農してしまった。彼とはもはや腐れ縁といってもいい仲だ。町に住んでいた28の歳からなんやかんやでつきあってきた。美味い酒も泥水も飲んだ。偶然だが、茨城で再会した。

重度障害者の子供と生きて、とうとう帰農という長年の夢をかなえてしまった。まったくたいしたものである。脱帽。ところが、帰農したやいなや、あろうことか自宅が火災になるという悲劇に見舞われてしまったが、タフな男なので乗り越えたようだ。「つくば“風”農場」という素敵な名の農場を興して、今は夏作の準備におおわらわの時期だろう。

山が好きで、多忙の中でも週末には必ず山に登っていた男だ。昆虫と熱帯魚、そして野の花が大好きな少年のような奴だ。特に、悔しいが野草の名が詳しい。歩きながら、路傍の花の名をふと口にしたりする。うちのカミさんとカルトクイズQ野草版でもやったらいい勝負なのではないだろうか。

しかし、野草名はともかく、いちおう本職ヅラしている私より畑に詳しいのは可愛げがなさ過ぎるではないか(くそぉ~)。これから週末アウトドアーズマンから、フルタイム・アウトドアーズマンだ。農の暮らしと土を楽しんでほしい。

_edited_5 そして、これまた、またまた有機流通界で私の担当をしていた和知さんも、帰農するといって、ほんとうに会社を辞めてしまった。ふわーとした可憐な女性で、見たところ農業という野蛮な異世界に来るという雰囲気ではない。

しかし、人は見かけによらないもので、学校は北海道の畜産大学で羊や牛の面倒を見てきた。私など農業の専門教育なんぞとはまったくの無縁だったので、うらやましい。私も漫画「もやしもん」の影響で、農業大学に入りたい。

ついでに暴露すると、彼女の趣味は和太鼓である。あの筋肉系和楽なのだ。ズンドコズンドコ、あの撥を叩く。たよやかな外見にだまされてはいけないと思う今日この頃である(なにしみじみしてんだ)。

で、和知さんはかの有機農業流通の輝く名門「大地を守る会」(←出荷先なのでヨイショ)に数十倍の難関を突破して入社したのに、あっさりと未練なく辞めちゃったのだ。まったく酔狂である。若者なべてお平らに公務員指向のこのご時世の若い人とも思えない。

そのまま会社にいれば、給料もよく有機農業をサポートできるというカッコいいポジションから、軽々とピョンと農業へ飛んでしまったのである。こうなったら私の好きなタイプの酔狂というべきだろう。親御さんはたぶん反対したと思う。しかしあの軽やかさはなんだ。彼女を見ていると、酔って狂わなければ農業になど来れないなどというのは、私たちオールド世代のたわごとなのかと思えてくる。

まぁこのような人たちは、就農というより「帰農」という昨今はやらない言葉のほうがより似合う。「帰農」なんて言葉、昨今の農ギャルのボキャブラリーには単語登録されてないだろう。

しかし同時に、農業をひとつの就職先と思うのは新たな流れだ。否定しようもない流れだ。農業の魅力は今やかつての農的暮らしにのみなくなってきているのは事実だ。ビジネスチャンスと思って来る人もいるだろう。都会の職業に疲れて来る人もいるだろう。色々な人が、雑多な思いで今一挙に農業に流れ込んでこようとしている。

お帰りなさいと農は待っていてくれる。どんな人でも、どんな過去があろうとも、何が目的であろうとも。

私の出来る範囲でアドバイスをしていこうと思う。できるだけ実践的に、雑誌記事のようにきれいごとばかりではなく。リアルに、泥臭く。それが、今農業に入ろうとしている人が鼻垂れだった、あるいは生れてすらいなかった時に農業という異界に入ってしまった私の義務なのかもしれない。

■上の写真は私たち夫婦の最初の家。あの優雅なカーブがヤマギシ式鶏舎の特徴である。この空き部屋を改造して、暮らし始めた。2年も住んでしまった。

■したの写真は手作りの第一世代の私の鶏舎でニンジンの間引き菜をやるカミさん。巨大ホークでうんとこしょ。腰にきます。

2008年8月30日 (土)

皆んな百姓になれ!実践的就農マニュアル 最終回 あなたの行く空が晴れていたらいいね

Img_0024 凄まじい豪雨でしたね。被害はなかったですか?ラジオが「川に近寄らないに」という放送を聞いて、ひさしぶりに川ということを意識しました。近々川について考えてみたいと思っています。

さて、そろそろ稲刈りなのですが、たぶん9月の14、15日の連休がピークだと言われていますが、どないなもんでしょうか。もっと遅れると思います。というのは、このところの曇りと温度低下で、私たち鳥飼にとってはありがたいのですが、米作り農家にとってはなんとも憂鬱な天気です。

肝心なラストストレッチで勝負という時に、低温、日照不足というのは、コメの収量でハンタラ(半俵・30㌔)/1反は違うし、なんといってもコメの味が乗らないのです。いいデンプンになってくれない。皆、空を見上げて、もう雨はいらんから、頼むから晴れてくれよと祈っています。

Img_0036 このシリーズも長くなって、そろそろこれでお仕舞いにするかと思っています。「現代農業」誌などで、定年就農などが喧伝されるのを読むと、おいおいもう少しリアルに伝えろよ、入る人はそれこそ清水の舞台から人生を賭けて飛ぶような気持なんだぜという気分にさせられてきました。甘いことや、成功談ばかり書き連ねた自慢話のような就農紹介記事を、安易に信用してはなりません。

ですから、あえて厳しく書いてきました。甘く書いたのを読んで失敗するより、厳しく考えて準備するほうがいいからです。現実には、すべて万全の準備でなされるようなことはありえません。それでいいのです。それが普通です。

いくつか書き漏らしたことを書いておきたいと思います。まず、資金ですが、これは条件によって大きく差がありますから一概には言えません。土地価格は80~100万円/1反をボトムにして、その数倍まで分布していると思われます。前に書きましたように、めどはそこでやろうと思っている農業収益の5年分までが上限です。それ以上ですと、土地返済の圧力が大きくなりすぎます。

また、資金は農林公庫には新規就農者支援資金のような低利の資金枠が存在します。また返済期間の据え置き2年間なども用意されています。ぜひ問い合わせて下さい。●農林漁業金融公庫関東支店☎ 048-645-5496。

農業技術を学ぶための就農研修学校として、この2校を推奨できます。有機農業も研修出来ます。●日本農業実践学園 加藤校長先生 029-259-2002 ●鯉淵学園 涌井先生029-259-2881

Img_0035_2 また初年度から順調に収益が上がるという楽観はもたないように。私の場合、初め1年間はほとんど収入がないに等しく、翌年から細々と収益が入ってきました。

ですから、初年度1年間分の生活費ていどは準備して農業に入って下さい。いきなり生活に行き詰まっての日銭稼ぎのバイトでは、意気が萎えてしまいますもんね。

特に資金の据え置き期間2年を使った場合、2年目から毎月泣いても笑っても返済がかぶってくることを忘れずに。初め2年は楽でも、その間に軌道に乗せないと大変ですから。また、出荷から振込までスパンが1~2カ月間(取引先により締めが違います。JA系は15日間)あることも忘れずに。いったん順調に経営が進めば気にすることはないのですが、初めの出荷から入金されるまでの間はとかくやきもきするものです。それだけに初回の入金はことのほか嬉しいものですが。

機械はそれなりに必要です。特にトラクターと四輪駆動の軽トラック、刈り払い機ていどは必須です。中古でもいいですから買わないわけにはいかないでしょう。昔はスコップとマンノウからやった私たちですが、人生修養ではないのですから、無駄に疲れる必要はありません。

Img_0065 トラクターは農機具屋さんと仲よくなって状態のいいものを買って下さい。直し直し使ううちに機械にも強くなるはずです。馬力の大きさは、その土地の形状にもよるので一概には言えません。ただあまり小さなものは銭失いかと。トラクターの前にシャボ(排土板)が着いたもののほうが、堆肥の切り返しに便利です。

ただ、ぜったいに重装備はしないこと。何から何までいきなり揃える必要もないし、追々必要に応じて買っていって下さい。重装備をして返済圧力でコケたなんて笑えませんから。

軽トラは絶対に四駆を。畑の中にまで乗り入れられますから。車というより、農機具の感覚ですね。初めは乗用車などいらないくらいで、軽トラ一台でなんとかなります。家族が増えたら貨物車バンを買えばいいのです。あれなら出荷もできるし。フツーのセダンなど10年早いと思って下さい。持っていたら売ってしまいましょう。

共同についてもうひとこと。よく新規就農者同士の共同耕作をする例がありますが、まず失敗します。そのうち別稿で書きますが、農業とは個人の考えや、労働のリズムの差がかなり赤裸々にでてしまうものなのです。一緒にやってみれば、どうして共同農場が長続きしないのかよくわかるでしょう。止めておいたほうが無難です。

農業は自分と自分の家族、自分の農場の圃場にのみ根拠を置きます。そこがしっかり出来てきて、ようやく他者と結びあえるのです。自分がうまくいかないから、他者をあてにするような弱い心だと、自分の農場すらおぼつかないと思います。自分の生きる根をしっかりと持ちつづける人のみが、他者におもいやりをもて、そして宇宙を共有できるからです。

Img_0064 農業は、あなたの人生や人生観を大きく変えていくことでしょう。それまでの都市の生活が、自分のうちの一部分しか使っていなかったことが分かるでしょう。夫婦のあり方や、家族の関係の持ち方も大きく変えていきます。その意味で、宇宙を変えると言っても過言ではありません。

しかも本からではなく、土を握る手と、その地温を知る足の裏、植物や生きもののわずかな調子の差異を見逃すまいと見張る眼、明日の天気を知ろうとして風の音を聴こうとする耳、作物の芳香を嗅ごうとする鼻、そして味わい尽くそうとする貪欲で鋭敏な舌。それら、都市で死にかかっていた初源の感覚を甦らせて。

農は、他者に対する愛やおもいやり、協力、いたわりといった人間になくてはならないもっとも基本的なものを育んでいくことでしょう。

「ほんとうの幸福は、自分自身や親しい人々という限られた対象の幸せを気づかうことからもたらされるのではなく、すべての生きとし生けるものに対する、愛と慈悲の心を育むことから生まれてくるのです」     ダライラマ14世

最後に、あなたの行く空が晴れていたらいいね。

もしこれを読む新規就農希望者がいたのなら、遠慮なく質問を下さい。

写真は、稲刈り間近の稲。里の墓地。田んぼの風景。杉林。よく手入れされています。

2008年8月29日 (金)

皆んな百姓になれ!実践的就農マニュアル 第8回 どのように村とつきあうか

Img_0013 昨夜、なめかたフロンティア農園構想の委員会が開かれて、私も出席しました。

このところ、私は「表現は丁寧に、しかし、言いたいことは言う」というふうにしています。私は歳より若く見えるようなので(これは農村では不利ですぞ)、こしゃくなと思われたかもしれません。

この「こしゃくな」感は常に私に対してもたれていたと思います。なんのツテもなく、親戚のひとりもいないくせに村に入り込んで、農家でもないのにえらそうなという視線を25年間強弱はありますが受けつづけてきました。いわゆる「よそ者」ですね。

私の場合、ひどい時には、ある土地トラブルを発端にして、ある人が煽って、立ち退き陳情までくらったことがあります。看板を立てられるわ、立ち退き署名を集められるわ、いやまったく。

ただ、当時はもう入植して20年めあたりでしたので、こちらもそうそうナイーブではありません。50歳を超えてガメラよろしくがっちり甲羅を被っている部分もあります。それに私と相棒が作った出荷組織は村の中でも屈指の大きさの農業団体ですので(自慢じゃないよ、ほんとだかんね)、くれば来い、やるならやってみろという感じでした。

Img_0009

さすがに村の行政が中に入って、村八分一歩手前で穏便に解決されましたが。前回でも書きましたが、このような時に自分の農場に「逃げ込める」というのはほんとうに助かりました。農場が借り物なら、下手をすれば、村から叩き出されかねないケースです。おーこわ。

これが経営基盤が脆弱な入植初期なら話はまったく違います。私のところから百姓になっていった研修生夫婦も、同じような目に合いました。平飼養鶏を周りから反対されて、公害養鶏出ていけ!というようなバッシングを受けました。平飼のどこが「公害」なのか知りませんが、研修生の対応が生硬だったこともあって、ともかく気に入らないというわけです。理屈ではないから困ります。この時は、私と当時区長の住職さんが間に入ってなんとか折りあうことができました。私たちがいなかったら、彼らも叩き出されていたことでしょう。

村を甘く見てはいけません。警戒する必要はまったくありませんが、あなたが村の「外」に住んでいて、たまさか訪れる旅人ならば、村は最大の笑顔をみせて歓待するでしょう。村のホスピタリティほど心に染みるものはありません。

しかし、いったん村内に新住民として入ると、立場は微妙に変化します。村はあなたを共同体の中で位置づけようと試みるからからです。村という共同体のどこに位置づけるかを、あーでないこーでもないとなっとくするまで詮索するかもしれません。平たく言えば、序列を決めたいのです。

Img_0011 村は共同体です。字ごとの班、田んぼの改良区ごとの地域組織、講という互助組織、消防団、青年団、出荷組織、JAの部会、PTA、ママさんバレー、果ては代議士の後援会・・・・・無数の縦横の糸で緊密に繋がっています。

新規就農者が飛び込まねばならないのは、こんな緊密な関係の中なのです。

特に農をめざす人は、えてして職場でのしがらみを嫌悪して田舎に来るというケースが多いようですので、都市のしがらみを飛び出して、もうひとつの、ある意味都市などとは比較にならない強烈なしがらみ社会に入ってしまうわけです。

では、どのようにこの村とつきあうのかですが、結論から言えば、「遠からず、近からず」です。距離を一定開けて、しかし、礼節をもってつきあうというごくシンプルなことが私のお勧めです。

私の地域ではないのですが、ある入植者は勧誘されるがままに地区の班に入り、そこまではいいのですが、あらゆる付き合いに出るようになりました。彼は熟年就農でしたので、そのような地域での付き合いが大事だと思ったようです。

Img_0016 半分は正しく、半分はやりすぎです。そこまで村と間合いを詰めてしまうと、もう逃げられません。彼は酒が飲めないのに、毎日引っ張り出されるは、家には野菜や漬け物の手土産をもってご近所が、これまた毎日毎日「見学」にくるわけです。まぁ、要するに暇で、好奇心ムンムンなのですよ。悪気はゼロです。

ちなみに季節の野菜、漬け物と揚げ餅はわが村の地域貨幣のようなもので、さんざん行き来します。うちの冷凍庫には向こう1年間分のかき餅の材料が眠っています。

あ、そうそう蛇足ですが、村に入って、他人の家に行く時は必ず手土産を持参のこと。出来た作物や卵ていどでいいのです。頼みごとがある場合は、酒一本が村の常識。都会の感覚で空手で行くと、陰で「なんだべぇ、礼儀さ知らないっぺ」とやられますからね。

話をもどしましょう。毎日やられたほうの奥さんは、いたって普通の都会のサラリーマンの妻ですから、半年持たなかったですね。旦那も、これまたいたって普通の都市のジェントルマンでしたから、同じくぐったりとへばった。今はぐっと距離を開けて静かに暮らしているようです。

ただ、これもまだ純農村だからいいので、山間部に入ったら逃げることはまず不可能。私の友人ですが、ラジカルな就学拒否主義者だったのですから、さぁ大変。小学校が子供不足で廃校になろうという時に、入ってきた彼が子供を学校に通わせないのですから、大騒動でした。非常にタフな個人主義者ですから耐えましたが。

というわけで、村とは親しくすることは大いに結構ですが、一線を引くこと。同じ日本語をしゃべる外国の人ていどに思って付き合い始め、やがて肝胆合い照らす友人も多く生まれていくことでしょう。

Img_0024 入った当座はなにせ、あちら村の衆は私ひとりを認識すればいいのですが、こちらは覚えきれないわけです。だから知らないので軽トラで行き過ぎようものならあーた、「挨拶もできない馬の骨」とやられます。ですから、私は道場橋という私の字に入る橋を渡ったら最後、全員に軽く会釈する習慣をつけました。橋を渡ると、誰かは知らなくとも、「おはようございます!」と会釈する。なかなか大変。

あ、書き忘れた。ママさんバレーとか、ダンスサークルとかは非常に貴重な村との絆ですので、機会があれば入ったほうがよろしいかと。

まぁ、無理をしないことですね。どうせ骨まで村の人になりきるのは無理ですから、一線を画して礼節をもって、村という新天地に根を張っていって下さい。

写真は、村の祭礼風景。

2008年8月28日 (木)

皆んな百姓になれ!実践的就農マニュアル 第7回 われら村に舞降りた孤独な落下傘兵

Img_0002 今朝哀しい訃報が入ってきました。アフダニスタンで拉致されていた伊藤和也さんが殺害されて発見されました。自動小銃で無残に撃ち殺されていたようです。

実に4年も現地に入り、50度の荒野の中で、現地語を覚え、ひたむきに農業を支援してきたこの青年の死にいいようのない憤りを覚えます。彼のような宝物のような青年が殺されねばならない理由がわかりません。

ペシャワール会は高名な中村哲医師が率いているグループです。井戸を堀り、灌漑設備をローテクで現地の人と一緒に作り、乾燥に強い農作物の指導など、非常に優れた業績を残してきいました。また、現地で今回の拉致事件でも村の人が大勢捜索に加わるなど、現地の人と一体となった農業支援をしてきました。2008082700000043yomintthum000_3 この殺人者たちが殺したのは日本の良心なのです。

中村氏の親タリバンの姿勢が、今回の事件とどのように繋がるのかはまったく不明です。私自身、パキスタンとアフガン国境の近くまで行ったことがありましたが、治安がいい悪いというより、「ない」地域です。すべての男が自動小銃を持ち、すぐに発砲をする。警察も軍も寄りつかない無秩序な地域でした。いや、警察が山賊をしているような場所です。

そのような中で4年間も農業指導をして非業の死を遂げた伊藤和也さんの死を心から悼みます。農業と子供を愛した優しい青年だったといいます。魂よ、安らかに。あなたの志は決して忘れられることはないと思います。合掌。

さて、今日も気持も新たに新規就農マニュアルを続けます。少し具体的なことに突っ込んでみましょう。

よく農地を買う場合、どのくらいの規模を考えたらいいのでしょうか?という質問をよく受けます。私は最低で5反は確保することを勧めています。というのは、借地が出来たとしても、自分の根城は最低限確保する必要があるからです。

Img_0042 全部借地という落ち着きの悪さは、やってみればわかります。手を入れて、手を入れて、ようやくいい土にした頃に地権者さんがコロっと逝き、相続した息子が売って宅地にしたいので返せと言われたなどという就農仲間もいます。法的には占有権が発生していますが、実際は村中の力関係で決してしまいます。当然私たちは話にならないくらい弱い。村内に突っ張って「占有権」の法的講釈を垂れれば垂れるほど、あなたは嫌われます。それが村という摩訶不思議な存在です。

私の友人で、金がスッテンテンだったために勇敢にも借家と借地というダブルで借りることをした奴がいますが、借家は村内だったためにえらいメに合い、借地もお前のように草だらけにする奴には貸さないと言われ、3年がかりでじんわりと叩き出されました。

ですから、自分の農地を最低限確保しておくことをしておけば、精神的にも楽になります。それはあなたの農の拠り所になるからです。この土地だけはなにがあっても、村人がなにを言おうと、ここはオレのものだという心強さは、なによりもの安らぎになるはずです。かく言う私も、村内と悶着をおこしては、自分の農場に泣きながら逃げ込んでなんとか生きています(笑うな)。

新規就農者は、いわば「農民」という異人種の中に落下傘降下した孤独な兵士、在来菌の中にただの一滴落された外来株の菌です。負けないように、簡単にくたばらないように。くたばりそうになっても、セーフティネットを張っておくように。

で、最低のセーフテヌネットは5反です。1反をハウジングエリアとして住居+庭を建てたとしても、残り4反あれば生きられるからです。その他に可能ならば水田は1反があれば、なんとかしのげます。

自分の農場とは、この内でただ生きていける漫然とした経済的な空間ではありません。もちろん経済基盤に違いはありませんが、それとともに異質な農村社会の中での自分たちの具象的な精神的、物的な根拠地です。そしてそれはあなたと家族の生きる根拠地でもあるのです。

Img_0001自給的農業を目指す人は 、3反+水田1反もあればいいでしょうが、現金収入がまったくないという生活は、子供が学校に行くようになるとかなり厳しいものがあります。

やはり1ヘクタールの耕作地は欲しいところです。それに3反~5反程度の畜産をくっつけると、かなりバランスのいい有畜複合経営が可能です。

作つけはその人の希望する農業の形次第です。大きく幹となり、手がかからない換金作物であるジャガイモ、ゴボウ、サツマイモ、大根などを大面積植えて、後は細々とした四季折々の作物で囲むというやり方もあります。これはかなり合理的なやり方で推奨できます。

この場合、大面積の作物だけをJAS有機認証を取得し、他はあえてしないという方法もあるでしょう。JAS有機についてもよく聞かれますが、はっきり申し上げて農民の敵の悪法です。あのような馬鹿げた書類の山を作る時間があるのなら、畑に出て土をいじって下さい。そのほうがよほどいい。出荷先が生協などで向こうが商取引の条件にする場合ならば取るていどで考えて下さい。

Img_0003_1 作物についてひとこと。わかっていらっしゃると思いますが、ほうれんそう、小松菜などの葉物は作るのは簡単で、回転も速いのですが、選別に時間がかかります。

おなじようにキヌサヤ、インゲンなどの豆類も収穫との競争になります。そのわりにはたいした収益にはなりません。

新規就農者は夫婦ふたりというケースが多いので選別に時間がかかりすぎると負担が大きくなります。もしおばあちゃんがいれば助かります。農業で老人の位置は巨大ですよ。

その点、大根やごぼうなどの土ものは作るのも比較的簡単ですが、土壌が出来ていないと、せん虫でボロボロにされます。冬にトンネルで作るのが間違いありません。

トマトなどの果菜類は種類によって一概に言えませんが、なす、ピーマンは比較的簡単でしょう。きゅうりは私がやった感じではちょっと難しかったかな。トマトは有機の技術は有機の先人たちの血の滲むような努力で、ほぼ完成されていますが、大規模な施設が必要です。

初心者は、平飼養鶏やバークシャーのミニ養豚のような小規模畜産を現金収入の基礎として3反、それに1ヘクタールを3~5分割して輪作体系を作り、大規模な換金作物を3~5品種、そして細々とした野菜畑を3反ていど、そして水田1反というのがバランス的にいいかなと私は思いますが、いかがでしょう。

今、私がお話ししたモデルですと、ハッキリ言って労働的にはシビアですので、夫婦で良く話て作物や面積は決めて下さい。絶対に無理をしないこと。特に、初めの年は無我夢中でがんばりすぎて身体を壊したり、夫婦仲が悪くなったりする場合もありますので。

就農離婚じゃシャレになんないよ。就農というのは、どちらかが強引に引っ張って田舎に連れてくるというケースも往々にして見られますので、連れ合いといえど丁寧に(←あたしを大切にしろと後ろでカミさんがつついています)。まぁ、夫婦仲ということを、これほどまでに感じる職業はないでしょう。農業という世界の中では、夫婦という関係は子供や家庭以外にも絆があり、それは恐ろしいまでに強いことを知ると思います。

それと、草ボーボーを恐れない!有機農法でやれば、必ず草ボーボーになります。これは一種の宿命です。仮に種を落としても、あきらImg_0012 めること。野草と共存するのが、わが日本という湿潤なモンスーン気候の地域でやる有機農法のリアルな姿なのです。

輪作体系は考えて下さい。これは長くなりますので、別に一稿もうけます。また適地適期適作といって、夏にキャベツやホウレンソウを作るなどという天を馬鹿にしたことはなさらないように。10割で失敗しますから。

写真は、カブトムシ、伊東さんの遺影。村の道。中段はまいまい、下はアマガエル。最下段は赤く実った山椒の実。

2008年8月27日 (水)

皆んな百姓になれ!実践的就農マニュアル 第6回 安易な共同をしてはならない  

Img_0022最初のボタンを掛け間違えると、最後のボタンが締まらない。この典型的なケースが私の農地取得の経験でした。

初めに土地の法的な権利を安易に譲渡するという不平等条約にサインしてしまったツケは長期に渡って私たちを苦しめました。

それでも最初の3年間ほどは穏やかな日々が続きました。私も、Kさんの共同農場に別れを告げ、沖縄から通算して3年間にわたる研修生生活から、独立農家への道をふみだしたのです。その感激は大きかったし、面倒をおかけしたKさんに対する感謝の念は深いものがありました。

そして3年間、倉庫を建て、そこの狭い屋根裏に住み、そこから鶏小屋を建てたり、畑の開墾を開始し始めました。当時の写真を見ると、当時の私たち夫婦は、無邪気なはじけるような笑顔をしています。まったく何もない広野に、スコップひとつで穴を堀り、杭を打ち、柱を建てという作業が楽しくてしかたがないという表情をしています。高い倉庫の屋根張りをして得意そうなカミさん、オンボロのジープを買って悦に入るふたり。当時の写真をスキャンしてデジタル化する予定ですので、そのうちお見せできるでしょう。

農場建設ほど楽しいことはないと思います。私たちの場合、単に農場だけを作ったのではなく、生活一切をすべて構想し、家づくりまで行こうと考えていました。手作りの母屋ができたのが、それから8年後です。ある意味、私の人生のもっとも濃縮された季節であったと思います。この時期を30歳代という、体力がもっとも溢れんばかりの世代にすごせたのは幸福でした。

Img_0017しかし、例によって禍福はあざなえる縄の如し。最初のボタンの掛け間違いの結果は3年後のある日に何の予兆もなくやってきました。

二分割して入植をしたFさんが私たちに「約束は履行出来なくなりました。名義は変更できません」という驚くべきことを言い出したのです。

暗転。理由は農林公庫が返済期間中の名義の変更は許さないからだというのです。二度驚愕。そのようなことは、3年たってから分る性格のものではなく、借り入れた時に担当者に問えば分かっているべきことではないですか。意図的だとしたら、非常識というよりむしろ悪質です。

当然私たちは怒りました。そしてなんとか対策はないのか、最悪の場合、土地の名義が変更できないのなら、差額の350万円を割賦でもいいから返済してほしいとFさんに申し出ました。しかし、これも出来ないということで、まったく解決不能な状態に立ち至ったのです。

以後の不毛な交渉の経過は省きます。今まで、共に同じ土地に入植し、協力し、酒を呑み交わしては夢を語ってきた両家に大きな亀裂が走り、狭い土地の中での反目が始まります。そしてこれを本来は調停すべき立場のKさんも無作為の立場から出ず、やがて入植仲間全体までをも巻き込んだトラブルにと発展していったのです。

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結局、それから3年後、様々な事情でF氏はこの入植地を離れ、農業すらも捨てて郷里の九州に帰っていきました。まことに慙愧に耐えません。F氏自ら招き寄せたこととはいえ、このような結末になるとは誰も予測すらつかなかったことです。

このF氏の離農事件をきっかけに私への非難が強まり、私は就農仲間と距離を開けるようになりました。それが結果としては、新規就農者の集団から訣を分かち、既存の村の農民との共同への道となっていきます。後のシャモ農場や大型有機農業グループ作りはその結果だったともいえます。

これから農業の道に入ろうという人にひとつ重要なアドバイスがあります。どうしても未知の農業の世界に飛び込もうという時に不安や恐怖が湧いてくることでしょう。その時に頼れるのは、自分と家族しかないということです。自分の体力、知力そして家族、ここにしか拠るべきものはないのです。

Img_0001_1 安易に「共同」や協働を求めないこと。近隣の仲間と協力することはいいことです。しかし、それも一線を引くこと。結(ゆい)のような相互扶助はそれ自体は素晴らしいことですが、借りた労働力はきちんと対価で返すこと。

よくあるのは、私のような土地の共同購入は特別な事例としても、新規就農者同士での農機具やお金の貸し借り、共同耕作、そして共同出荷などがあります。

これらは皆、トラブルの種だと思って下さい。借りた機械が故障したなどという例はよくあることです。壊された方は余裕がない経営基盤ですから、むっとなるでしょう。しこることすらありえます。だから、借りない、貸さない。自分で無理をしてでも、中古でもいいのですから買うことです。

ましてやお金の貸し借りは、もっとも友情が破壊される近道です。相手から頼むと頭を下げられればついその苦衷に同情してしまい貸してしまうかもしれません。友情を壊したかったら貸しなさい。金と土地というのは、永遠にトラブルの種なのです。だから安易な共同はしないことです。

今日は冗談をいう気にもなれないつらい経験をお話しました。私が言ったことを単なる精神論だとは思わないで下さい。私は共同するためには、しっかりと自分が自立する必要があることを言いたかったのです。さて、明日から、気持を切り換えて、明るくいきましょう!

写真は、今日の記事とは裏腹の明るいものばかりを集めました。上から熱帯果物。さてなにか名前はわかりますか?解答は明日に。次はキューバのサンバ奏者の人形。次はグアテマラの豹のカルナバル(謝肉祭)に使う面。下段はメキシコの陶器の大猫。

2008年8月26日 (火)

皆んな百姓になれ!実践的就農マニュアル 第5回 必ず良い仲介者を立てよ 

Img_0012 昨日は化蘇沼稲荷神社での祭礼でした。なかなか由緒ある神社で、正一位なんですよ。村人の自慢です。

この祭礼の特色はなんといっても奉納相撲!村の力自慢の大人から、少年まで白まわし(フンドシではないぞ)で相撲を取ります。その前には相撲甚句。相撲甚句の倶楽部もあるのです。

上の写真の裃姿は、氏子の役員さんです。これは地区(字)での回り持ちとなります。地区ごとに分かれて、弁当(にぎり飯にタクワンと質素)とお神酒の券を配られて、芸能や巫女舞、奉納相撲に一日興じます。こういう村中集まった祭礼に来ると、一種独特の雰囲気で、やはり四半世紀も村にいても自分はまれ人だなと少々寂しくはありますが。

さて、昨日の続きです。私の人生3大失敗のひとつをお話していました(3ツじゃ済まないだろう。10大失敗、いや20大失敗だろうの声あり、うるせぇつうの)。簡単に言えば、入植農地を2人で分割して買って、おまけによせばいいのに、地権者名義と、支払った額が大きく異なるという禍根の不平等条約を結んでしまったことでした。そして、仲介者に白タクが地権者から指定されていたことです。今日はこのことをお話しましょう。

Img_0007 土地を買う時に、なぜ私が行政、JA、あるいは地元不動産屋を絡ませたほうがいいと言う理由は、このような第三者が立ち会うことによって、私が被ったような非常識な条件で売買がなされることがなくなるからです。

実践マニュアル的に言えば、農地は地権者と相対で買うことは極力避けましょう。不動産仲介手数料3%を支払ってでも、正規の資格をもった不動産取引の資格を有する仲介者か、地元の行政、JAに必ず立ち会ってもらいましょう。これは重要なことですからよく聞いて下さい。

相対取引(*あいたいとりひき・地権者と買う側が仲介者なく直接に売買取引をすること)だと、えてして地権者が圧倒的に有利な立場になります。こちらの欲しいという気持がよ~く見透かされているからです。すると、向こうは恥知らずなまでに、自分の有利な条件を言ってきます。

Img_0018たとえば、仲介者を自分の息のかかった者に指名します。そして価格や条件などは丸呑みにさせられて、後から悔しい思いをすることになります。

仲介者は審判ではなく、売り手側で、時には審判自らがこちらのゴールに球を蹴りこんでくることすらやらかします。村の排他性がいかんなく発揮されるのはこういう時です。村に入りたいという私たちは、それに対しても卑屈にニコニコしていなければならなかったのが、当時です。今はだいぶ違ってきてはいますが。

多少、参考までに彼らのやり口を教えておきましょうか。相対取引をしてしまった場合、地権者は税金対策として「裏契」(裏契約)を言ってくる場合が多々あります。通常はありえないことですが、今でも日本の農村ではまかり通っています。こちらが仮に100万円で1反を買ったとしても、契約書や領収書には60万円で切ってくれとぬけぬけと言ってくるわけです。土地売買の税金対策です。私の場合、7掛けでやらされました。言うまでもなく、こんなことは堂々たるリッパな脱税行為ですゾ。

Img_0029 また、通常は地目の境界は地権者側が公図をI明示せねばならないのですが、村では国調標識杭がない場合が圧倒的です。これがないと地目の確定ができず、事実上売買はできません。ところが、売るほうは懐手しています。「お前のほうがやれや」ということを平気で仲介者が言ってきます。かくして、買う私の側のほうが、多額の金と時間を費やして測量士を雇い、周辺の地権者にお百度を踏んで、お酒を持っていって境界を確定してもらわねばなりませんでした。

ちなみに村の土地標識は大部分いいかげんで、公図にあっても実際はなかったりするがあたりまえです。そうなると公図と照らしあわせることが出来ないので、確定しているかなり遠方の他の人の土地の標識から、測量を出さねばなりません。その人にお百度をして頼み、次の標識の人にも頼み、森を抜け谷津を抜け、そしてようやく測量ができたのです。1カ月かかり、しこたま料金をとられ、境界は全面的に相手の言い分を呑み・・・。ゲホっ、よ~やったよ。私の後に続く皆さん、こんなことはやってはいけないからね。これは地権者が明示するものだからね。境界があいまいな土地などは買ってはダメだからね!

Img_0022 今考えるとありえないような一方的な不利益を口を開けられて流し込まれた感があります。

そしてそれだけではなく、この白タク仲介者は、私たち新規就農者同士の不平等条約をよく知っておきながら、それを放置しました。

白タクは仕事に責任を持ちません。売って金を欲しいだけの欲の皮がペキンダックよろしくパリパリの人達だったからです。しっかりとした仲介者なら、後の紛争の種は抜いておくものですが、そのようなことには無頓着でしょう。

皆さん、土地は多額の金銭のやりとりをともないます。私の場合ですら1400万円もの資金を土地代金だけで支払いました。実際は、それだけで足りず、農場建設費、母屋建設費などで、ぬぁ~んと2000万円超を借りることになりました。途中で借増しをして最終的にはその倍ちかくになったのです。えへん、若い衆、ちっとは借金王の私を尊敬するように(無理か)。

全額返済はつい去年のことでした。カミさんと抱き合って喜びました。あ~、これで普通の生活ができる、と。今でも農林公庫と国民金融公庫からの完済通知は事務所の額の中に入れて恭しく飾ってあります。われながら実に健気だと思いますImg_0027 (グスっ、いい話だろ)。

まぁ、現代日本で百姓になるほど贅沢はないと私が何度も言い続けているのは、その精神的な豊かさだけではなく、家が一軒、ときには2軒建つていどの資金が必要だということにもあります。

例えば2千万円あれば、ちょっとした都市でのスモールビジネスが充分に可能です。農業はすぐに収益は見込めませんが、都市での起業ならはるかに早い時期に回収が見込めるはずです。 農業とはそのような気長な、じっくり地表から芽が出るのを待つような「仕事」なのです。

もしあなたが就農しても、あなたが理想として思い描いた「農場」ができるまで最低で10年。子供が継いで30年、そして孫があるていど完成して60年、ときには100年。そんな時間尺の仕事だと思って下さい。

逆に言えば、先祖代々の土地もあり、農家を継ぐというだけで新築の家や車を親から買ってもらえるような農業後継者とは、スタートからして私たち新規就農者の迫力は違うのですよ!

私たちは初代だと心すること。初代の重みは楽しいこと、苦いこと、酸っぱいことに満ちています。私は現代日本で開拓者の名にふさわしいのは、われらが新規就農者だと思っています。いかに多くの失敗をしたとしても、これは私の人生の誇りです。

写真は、化蘇沼稲荷神社の祭礼。上段は羽織袴の氏子さん。次は祭礼に近づいてきました。向こうではにぎやかな声や歌が聞こえてきました。次は相撲甚句。甚句倶楽部があります。次は奉納相撲の皆さん。まわしが凛々しい。そして御手洗(違っていたらごめん)。最後は奉納幟。幟の裾には奉納者の名前が記してあります。幟は、この祭礼への寄付があった人が立てられます。

2008年8月25日 (月)

皆んな百姓になれ!実践的就農マニュアル 第4回 僕たちの失敗  

Img_0001 今日は書くのがユーウツだなぁ・・・。ま、これから農に入る人たちの参考になればということで、心に鞭打ちましょうゾ。

農地の収得に私は大失敗をしました。まず、結論から言えば、「共同」という方法を安易に使ってしまったことです。第2に、土地の仲介者に白タク、つまり無免許の札付きの男を立ててしまったことです。第3に、その経緯の中で妥当な調停者を立てられず、結果として就農仲間から孤立する道をえらんでしまったことです。

「共同」という言葉ほど、当時の私にとって輝かしい言葉はありませんでした。同じ帰農をめざす若者たちが、互いに助け合って、新たな都市と農の文化の融合をめざし、旧弊な地域を変えていく、まぁそんな夢とも理想ともつかない「気分」を持っていたわけです。私が30歳を少し出た当時でしょうか。

Img_0099 当時、私はKさんが運営する共同農場の研修生2年目でした。いわゆるトリサマ亭時代(7月15日号を見てね)です。鳥小屋生活からもそろそろ足を洗って、自分の自立した農場を考えねばならない時期です。土地の物色は各方面にしていたのですが、当時は「新規就農」という言葉自体がなかった時代です。世間はまったく無理解で、都会から来た毛色の変わった奴ら程度の認識でした。

いまでこそ、私たちの世代が四半世紀やってきて、有機農業団体を作って都市流通と大規模な産直事業を興したり、この土地にあった有機農業の技術を定着させたり、あるいは地元の特産品を作ったりと、それなりに地元に残すべきものは残してきていますから評価が変化してきています。しかし、当時は完全な白紙状態、あるのは奇妙な生きものを見るような好奇の視線だけだったような気がします。この雰囲気を理解いただけないと、なぜ私が失敗をしてしまったのか、おわかりにならないかもしれません。

私は沖縄でまったく土地が買えなかったこともあって、農地取得には必死でした。農業というのは、あたりまえですが農地がなければどうにもならないのです。また借りるといっても、今のように地主さんのほうから借りてくれという時代でもなく、偶然に出てくる物件待ちの研修生時代でした。

このような時に、まったく天の恵のように農地物件が出たという話が持ち込まれました。面積は1.6㌶(1町6反・4800坪)、筆は分割されておらず一筆、北に向かっての緩斜面、周囲に既存の農地や家屋なしという、まぁ誂えたような条件でした。そして、初めから価格も提示されていて、反あたり170万円、ただし、分割は認めず、一筆の購入のみだという条件です。トータルで2700万円という価格です。

Img_0001_2 私たち夫婦は狂喜しました。やっと出てきた!これで晴れて本物の百姓になれる、と。しかし、問題は土地価格です。1反あたりの170万円という価格は当時(1985年バブル期初期)としてはまず妥当に思えましたが、なにせ30そこそこの収入もない青年にとって2700万円は天文学的数字でした。

当時、なにせ私たちは共同農場から研修費として月に5万円を頂戴して生活をしていたわけで、2700万円などというのは、これでラーメンが何杯食べられるの?の世界です。今となれば、農林公庫から低利で借りるなりなんなり、方法はいくらでもあるのですが、当時は哀しくや5反歩を所有し、営農実績が必要という農業者資格もなく、借りるに借りられなかったのです。

くく~、もう一生自分の農地を持てないのかとガックリきた時に、農場の責任者のKさんからこんな案が出されました。当時の彼の友人で就農して2年目の東京農大出の若手農業者のFさんという人がいる。彼と土地を二分割して買ったらどうか、自分が仲介に入って悪いようにはしない。

分割するとひとりあたりの面積はそれでも8反です。充分とは言えぬものの、どうにか農家経営が可能な広さです。後から借りるなり、買い増すなりをしていけばいいと考えて、K氏に感謝をして受諾しました。

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ところがこの案にはとんでもないオマケが着いていたのです。資金集めを始めて数カ月後、Fさん側から、資金集めで大口の金融公庫から農用地として1町歩を担保物件としてほしい。ついては1町歩を自分の名義にしてもらえないかだろうか。

よくご理解いただけないかも知れませんのでもう一回リピート。Fさんがいう私への追加提案は、要するに、自分は8反歩分の金しか出さないが、名義は1町分ほしい、と!

今考えてもそうとうに強心臓な提案ですなぁ。土地は法的には、とうぜん名義が先行しますから、いくら金を出したなどというのは当事者間の内輪の話に過ぎず、常識はずれもはなはだしいわけです。F氏はこの不平等な資金と名義の関係を、責任を持って3年以内に等価交換などの方法で修正をするからと強調しました。

この非常識な提案を飲んでしまったのは、ひとえに私の心の中に根を張っていた共同への憧れと、既に土地を探し出してから3年間にもなり、Kさんの共同農場にもそうそう長居ができないというあせりからでした。

Kさんの「悪いようには しないから、自分が責任をもつ」という言葉に後押しをされるように、この不平等条約にサインをしてしまい、私は自分の資金集めに奔走することになったのです。しかし、その数年後には大きな落とし穴が待っていることになります。

写真は、農場の四季。上からヤマザクラ咲く春。菜花の葉が出てきた3月。菜花燃える5月。そして秋の播種風景。これが今回の話の舞台です。

2008年8月24日 (日)

皆んな百姓になれ!実践的就農マニュアル 第3回 農地価格は年間収益の5年分まで

Img_0012 昨日、カミさんが大地を守る会の女性農業者全国集会に行き、大変に面白かったといいます。

女性の全国集会というのは、いい意味でのリクレーションなのです。みな、年に何回か羽根を伸ばしに東京にやってきます。ああ、今日は仕事もご飯もせずにすむ、仲間の生産者と会議の翌日はぎりぎりまで東京に居残って、映画にでも行っぺよ!浅草はどういくのですか?いや赤坂のなんたらというデパートじゃなかった、あ、ミッドシティだったっけが、どっちにしよう。楽しい悩み。

明るくて、エネルギーに溢れていて、好奇心旺盛で大好きだなぁ、彼女たち!この人たちがいるかぎり日本農業は潰れません。オリンピックを見ても分かるように、わが瑞穂の国は女性によって支えられている国なのですよ(とほほ)。それにしても星野ジャパン、帰って来なくていいぞぉ!

このブログも案外大地の職員の間で読まれているそうな。とてもうれしいです。長いから斜め読んでますとはYグループ長。ブログを書かれている人にはおわかりでしょうが、誰かがどこかで読んでいてくれるということほど、頼みになることはないのです。

さて前置きが長くなりました。就農実践マニュアル第3回です。今回は農地をどう取得するのか考えてみました。農地の前提として、どのような地域を就農に選ぶのかから、考えてみましょう。

Img_0010 ひと口に地域といっても、日本ほど変化の豊かな国土はありません。私は初めに沖縄に入り、結局農地を取得できなかったため、全国を旅した後に、この茨城に定住しました。候補地もいくつか見てきました。

ひと口で就農といってもどこに入るのかで、それ以後の農業の形や経営がまるで違ったものになってしまいます。

私が仮に沖縄で農地が買えたとしたら、どうしてもサトウキビを中心にせざるを得なかったかもしれません。そしてコメとの巡り合いもなかったことでしょう。沖縄はコメはまったくと言っていいほど作っていませんから。また、亜熱帯の有機農業の難しさから、有機農業の門を叩いたかどうかもわかりません。

のっけからナンですが、私は土地の選定にはまずまず成功したのですが、後の経過でホームラン級の失敗をしてしまいました。どんな大失敗をしたのかは次回にゆっくりとお話します。ホントはあんまり話したくないんだけど、ま、いいか。

入植ということは人生を賭けての飛躍ですから、運命のサイコロを簡単に振らないように。必ず候補地を複数持ち、地型、気候風土、経済圏、村の有り様をよく見てから、熟考して下さい。大失敗をやらかしたこの私が言うのだから間違いはありません(胸を張る)。

Img_0032私の帰農仲間には、黒潮に面した温暖な伊豆半島や房総半島に入った者もいますし、内陸部の栃木、群馬、山梨、長野に入った人もいます。初めは似たような考えでしたが、10年、20年たつとまったく異なった農業の形になっています。それほどまでに農地の選択ということは決定的なことなのです。

いくつか選定にあたってのポイントを記しておきましょう。まず第1に、市場までの距離と、農地価格は反比例するということです。また、入植後の農業経営もまた、反比例するのです。私の住んでいる地域は、東京まで100㌔半径内でしたので、土地は決して安くはありませんでした。25年前当時で175万円/10㌃(300坪)でした。今はずっと下がって、とうとう100万円を切りました(たはぁ~大損した!)。水田なら30万円~50万円前後が相場です。

このような大きな都市に近い農村の農地価格は山間部の数倍はします。ただし長野県などは山間部でも相当に高いようですが。また、なかなか出物もありません。茨城県八郷などは50軒もの新規就農者がひしめいていますが、土地価格を聞くとゲッというほど高価です。まさに需給関係そのものです。

Img_0031一方、山間部は行政の方からきてくれというラブコールをする地域もあり、様々な補助金や支援策が準備されています。廃屋などを斡旋する村もあります。憧れの伝統家屋に安価で入ることもできるかもしれません。ただし、禍福はあざなえる縄のごとしで、農業経営は至難であるとお断りをしておきます。

むしろ山間部は林業が盛んな地域ですので、無理に農業を追うより、木工とか紙漉き、家具づくり、陶芸などの工芸関係をやってみたい人にふさわしいと思います。工芸ならば、毎日出荷をしなくとも済みますし、美しい環境の中で思う存分創作に打ち込めます。

では第2に、どこから買うかですが、まず行政の農林課と農業委員会、農業改良普及センター(旧改良普及所)に当たって下さい。昔は相手にもされませんでしたが、あんがい今は親身で相談に乗ってくれるようです。

また、行政関係は耕作放棄地の情報を集約しているので、そこを借地することも可能です。現在の当地茨城南部の農地借料は年間1万円ていどです。無理せずに、自宅周り+5反程度だけを購入して、あとは耕作放棄地を借りるのも賢いかと思います。

次はJAかな。これも一昔前は新規就農者など「どこの馬の骨」扱いでしたが、今は新規就農者に好意的な所も多いようです。JAやさとのように就農者支援政策を持って、資金や住居や売り先も支援しているすごいJAもあります。またJAは土地バンクといって、不要な土地情報をプールして、利用したい人に斡旋などをしているところもあります。そして地元の農業団体も、ツテがあれば尋ねて見て下さい。

田舎の土地物件を扱う不動産屋は、茨城・石岡近郊だとあるようですが、まず吹っ掛けられます。反単位ではなく、坪単位で物件を出してきたら即帰りましょう。農地を坪単位で買っていては農業になりません。都会や地方都市の不動産屋は、宅地を基準にしているようですから、とてつもない馬鹿げた額を言ってきます。

Img_0012 例えば、皆さんが都市部にお住まいならば、平均で坪50万円くらいでしょうか。この感覚で農地を「坪1万ですぞ。超格安!」と言われると心が動くやもしれません。

り~ん、鳴り響く警報の音!農地の売買単位は反(たん・10㌃・300坪)ですから、坪1万円ならば、反あたり300万円となります。これは、現在の茨城県の農地相場の約3倍です。3倍などいいほうで、坪2万、ときには5万などというイスタンブールの絨毯商人もびっくりの価格を吹っ掛けるトンデモ不動産屋すらいます。

実際、うちの村に入ったある人など都会の不動産屋から、相場の6倍もの額で買ってしまい、後から相場を知ってコサックダンスよろしく地団駄を踏んでいました。もし、不動産屋の暖簾をくぐるのなら、村の不動産屋に、地元の人と一緒に行きましょう。まずボラれません。村内は信用ですから、無垢な都会の人を吹っ掛けたとバレたら商売になりませんから。

農地を取得する価格の目安は、手取り年間収益の5年間分がめどです。それ以上農地購入にかけると、入ってからの返済圧力で経営に負担がかかりすぎます。たとえば、コメなら平均年間収益が手どりで10万円ですから、その5年間分で50万円以上出して買ってはならないということになります。

第3に、農地はだいたい天気がいい日に見に行くことが多いのですが、仮に一回目が晴れだとしても、かならず雨の時に行ってみましょう。というのはこのブログ5月22日にも書きましたが、晴れだとなにもかも良く見えるのです。

空は高く澄み渡っており、春ならヒバリやホトトギスが歌い、初夏ならツバメが低く飛ぶ、「おお!わが終の住処はここにあり!」と気が動いてしまいます。しかし、これが大雨の時には、斜面に雨水でうがたれた小川がくねり、崖は崩落し、そもそもその農地に行くアクセスの道が泥沼となって通行不可という場合すらあります。絶対に、決める前に雨の日に行くことをお勧めします。そのドジをこいた私が言うのですから間違いはない。

次回は私の懺悔の記録をご紹介します。いやー、失敗談は尽きませんよ(泣く)。百の成功談より、ひとつの失敗談を大事にして下さいね。

写真は、農場の日の出。4時50分くらい。次も同じく。太陽がでかかっています。次は蛾ですが、すいません名前を調べておきます。実に妖艶に美しい。次はセージの花房に首を突っ込む蜂。八角堂のステンドグラス。イギリス製のアンティクというと聞こえがいいですが、買ってから合成樹脂製だとバレた(涙)。

2008年8月22日 (金)

皆んな百姓になれ!実践的就農マニュアル第2回 就農三要素 

Img_0020 いきなり秋風が立ちました。毎日のように雷雨で、なかなかすごい天候ショーが毎日見られます。

つんざく落雷、たちこめるオゾン臭、のしかかるような雨雲。

宮沢賢治が花巻農学校で、生徒にこう教えたそうです。うろ覚えですが、こんなことです。

「稲光はお稲荷さんの、シデだ。落雷が落ちた所はよく米ができるだろう。あれは高圧の電磁波のためなんだ。だから、古代の人はそれを知っていて落雷が落ちると豊作がくると手を合わせたんだ」収穫前の落雷は豊作の前兆、ほんとうかどうかわかりませんが、そうであるといいですね。

さて、就農(私たちの時代には帰農と言いましたが)の三要素+oneというものがあります。なんの勝手に私が作ったのですが、「農地、資金、技術、そしてもうひとつおまけに根性」です。こらこら、根性などといちばんほど遠い私が言うのを笑ってはいけない。先生だぞ、今回は。

Img_0004 これから何回かにわけてこのひとつひとつを、私の経験をまじえてお話していきます。「農地、資金、技術」と三つ並べましたが、なにを優先順位にするのかは、その人の状況によります。

たとえば、こういう並べ方もあるでしょう。資金がなければ、農地は取得できない、技術は農地の条件でつけていけばいい。資金を起点とした就農の方法ですね。非常に現実的です(ややつまんないけど)。

一方、こういうアプローチもあります。農地がたまたま手に入った。あるいは、貸して貰えそうだ。この農地は村内にあるので畑作しかできない。逆に周りが人家がないし、畜産にも理解がある。その農地の条件と大きさ、価格によって違いますが、農地を起点にすることも又可能でしょう。

では、技術はというと、これもまたありえます。私など研修期間中ひととおりの畑作全般(サトウキビまでやっちまったぁ)、米、牛、豚、鶏(山羊まで!)と習う中で、最終的には小規模農地での畜産を選びました。それもいちばん小資金と狭い農地で出来る平飼養鶏が私の生業となりました。資金に限界があったからです。また資金面だけではなく、生きものと毎日接して面倒をみるという仕事が私という人間の性にあっていたようです。ですから、私は小規模平飼養鶏ができる農地を中心にして探し回りました。

Img_0010 最後の+oneの根性ですが、これは前三者を支える自分の中の柱のようなものです。私の経験からいえば、就農失敗者の大部分はこの部分から崩れていっています。えてして思っていた夢と、現実が違いすぎ、借金がかさみ、旧弊な体質も残る農村で生きていけなくなったからです。この失敗のケーススタディはどこかでしたいと思っています。

というわけで、「農」はいかなる場所からも切り込めることはたしかです。次回は農地をどのようにして取得するのかから始めていきましょう。

(この稿続く)

写真は、野草界の花の女王であるカラスウリのレース状の花。下手な栽培種などかないません。これで終わりではないのです。まだレース部分が伸びていきます。どうしてこんな地味な野草にかくも華麗な花が咲くのか、天は不思議な采配をするようです。

Img_0013 中段はムラサキツユクサ。放射能を被曝すると変色することで有名になってしまいました。きっと不本意でしょうね。

次は、自生種のホオズキ。いまや満開。ぼんぼりが重いとみえてみな倒れてしまいます。草むらにホオズキが転げ回っている不思議な光景が見られます。

最下段はヘクソガズラ。ひどい名前ですが、この花をちぎってもむと臭いのです。なんとも愛嬌のある花を咲かせています。

私は野草の花が好きです。栽培種より可憐で清楚です。まるでバ゙レリーナのようなカラスウリも目が覚めるように美しいし、ボツンと咲いているヨメナの白菊のてらいのない美しさも心に染みます。

よく人は、この世は醜いと安易に言います。そうでしょうか。そのようなことはないと思います。足元を注意してみれば、野草が、眼を上げれば樹が精一杯に自らの美しさを誇っています。雲は瞬時に形を変えて万華鏡と化します。

どんな小さな、足で踏みつぶしてしまうような草ですら、十全に美しい。むしろ私は思います。どうして地上はかくも美しいのか、と。