無理をしない、こだわりすぎない
2日ほどのお休みをいただきました。実は、このところ健康再建プロジェクトを始めています。
入院の前の私ときたひには体力は落ちる所まで落ち、仕事で配餌車を引っ張るのも息も絶え絶えという有様でした。私はこう見えても、体力自慢だったのです(苦笑)。体力自慢の男がそれを失うと、なんか自分がほんとうに腑抜けになったような気持がしました。
また、それまでやってきた有機農業運動やエコビレッジ作りの活動も、それを支える体力、気力が崩壊するのに連れて耐え難くなっていきました。・・・そして入院。一生投薬から離れることが出来ない人生となることが決まりました。正直に言って、精神的に落ち込まなかったと言ったら嘘になりますね。
ようやくチャリンコ(クロス・バイクといいます)で毎日数時間、村や湖の周りを走り回ることができるていどにまで回復してきました。ま、念仏を唱えながら村中を歩かれるよりは、村の衆には不気味ではないかと。だ、はは。
調子に乗って昨日など2時間以上も走ってしまった挙げ句、今日など股関節は痛てぇは、脚が.パンパンに張るはともう大変。でも、「ビョ~キよ、飛んでけっ!」と張り切っています。
でも、かつての私とはちょっと違うのは突っ張らないことです。思い込まないことです。ようやく、そうやっとですが、「いいかげん」なことも大事かなと。諏訪中央病院の院長であった鎌田實さんのご本「いいかげんがいい」を読んで救われました。自分の信じる理想があり、が故に社会的な責任を持とうとし、体も心も疲れ果て、結果耐えられず、すべてをダメにしてしまうのがもっとも悪いのではないのでしょうか。まさにちょっと前の私のように。
鎌田さんはこう言います。無理をしない、こだわりすぎない。欲張らない。突っ張らない。悩みすぎない。求めすぎない。
そのように考えると、病気と「闘う」というのは私が好きな思考パターンでした。「闘う」という対象は、思春期には学校という器であり、青年期には国家社会であり、農業を始めてからは今の農業のあり方や、時には自然そのものでした。そして今は病気です。
つい先日でしたか、もうこのような発想に立つのはやめようと思ったのです。退院した時には「病気と闘ってやる。負けてなるものか」とうなっていました。だから鼻息荒く強行退院などをやらかしてしまったわけです。恥ずかしい。これは病院や医師、ナースをどこかで「敵」とみたてています。このような「戦い」と対になった「勝つ」という考えにいる限り私はまた「入院」してしまうことになるのは必至でしょう。
どこまで行っても自分。どこを切っても自分。他人の気持も愛情もしっかりと受けとめない。そのような身勝手な人間に救いや光があるはずがないではないですか。
仮に毎日運動ができなくとも、ブログが毎日更新できなくとも、はたまた、たまにハメをはずして食べすぎても、「ま、いいんじゃないか」と思おうと考え始めました。カンペキを追い求めるのはもう止めにしようと。自分を追い詰めるのだけは止めよう、と。自分を追い詰めるのは他人に迷惑をかけると。なによりも家族に。
肩の力を抜いて「いいかげん」に生き直してみるのもオツかな、と。それともうひとつ鎌田さんのひとこと。これが重いんだ。
「あきらめない」
最近のコメント