鳥飼の矜持

農場から出ていく鶏、そして入ってきた雛       ありがとうございました、そして、ありがとうございます

Img_0021 昨日、わが農場の古い鶏を淘汰しました。だいたい生み出してから400日~450日でさようならをします。

通常の大手養鶏場では、生み出しから300日というところでしょうから、そうとうなオババ鶏になるまで飼っているわけです。

毎回のことですが、出さなければ、次が入らないのが道理なのですが、やはり移動コンテナに鶏を詰めていく作業は気が重いものです。彼女たちとは生れた時からの付き合いでしたからね。胸がふさがれるような気分です。

短い期間でしたが、彼女たちの生命力を開花させてきたという自負はあります。いや、むしろ短いが故に。彼女たちの命は重い。畑でホウレンソウを抜くのとはわけが違うのですから。

_editedそう思ってはならないと思っても、自分の手にぬぐっても取れない血が付いていると思う時があります。だから、私たちは自分の稼業を因果だと思い、だから優しい人も多いのです。

昨日淘汰の加工をお願いした廃鶏屋さんのSさんの優しさは底抜けです。もはやそこいらの坊主などの域ではありません。引き取りに行った老鶏が、手をかけられていないと気がつくと、その飼い主を本気で怒ります。

「お前などに鶏を飼う資格はない。やめてしまえ!この鶏たちが毎日、自分の食っている餌の半分をお前のために生んでいることを知らないのか!」、と。

淘汰前日に餌を無駄だからと思って切ってしまう者もいるのですが、それを知った彼は、その場で無言で引き上げてしまったそうです。これから死に行く者に、最後の餌もやれない者には、根本的に生きものと関わる何かが欠落しているのです。彼はそれをその男に言いたかったのでしょう。

昨日も、私がお願いする鶏の前胃が膨れていることをさりげなくチェックして、納得して持っていって頂きました。そして彼の最高の褒め言葉をもらいました。

「あんたのとこの鶏は幸せだったね」

Sさんの働き者で愛嬌よしの奥さんが、昨年癌の大病を患い、それを必死に支えている毎日が続くそうです。彼は奥さんを救うために、全財産を投げ打つ覚悟です。私は、農場から去っていくSさんのトラックに、小さく礼をして合掌しました。

ありがとうございました、そして、ありがとうございます。

_edited_2さて、去って行く鶏と 入れ換わるようにして、生れたばかりの雛が入ってきました。とうぶんの間は、子育てで神経が休まりません。まだ、この時期はいいのですが、これからの冬の入雛(にゅうすうと読みます)は、コタツ2ツを入れ、更にヒヨコ電球という温熱ランプをつけています。

徐々に温度を下げていって、だいたい2~3週間で完全に廃温となるわけですが、急激に下げてもダメ、かといっていつまでも加温していると弱い雛になるという塩梅を見ながらの毎日となります。

入って一週間は、夜と早朝の見回りが欠かせません。特に夜の見回りは、懐中電灯を持ってブルブル震えながら行くわけですが、部屋の外で耳をそばだてて静かなら一安心です。というのは、寒いとピヨピヨと寒さを訴える雛の声が止まないからです。

生まれたての雛を冷やしてしまったり、濡れさせたりすれば、たちどころに一晩で数十羽があっけなく死ぬ場合もあります。

なにが鳥飼をしていて嫌な一瞬かといえば、この、自分自身の不注意による死です。哀しさと悔しさで自分の頭をボカボカ殴りたくなります。

温かく、お腹も一杯ハッピーに眠っている雛は、まるでつきたてのボタモチを並べたようにペターっと静かに眠っています。温度計もありますが、なにより雛の状態をよく見て観察することです。

これを見て、人も安心して眠れるというわけです。昔から、苗半作、雛半作といって、強い苗や雛が出来れば、後はうまくいきます。だから、この一週間は眠い。フワ~。

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すごいなぁ、でも相当に違うなぁ・・・トキワ養鶏さんのテレビ報道を見て

Img_0008 先日のこと、見るともなく夕方のテレビニュースを観ていたところ、フランスのムシュー・ナンジャラというシェフが、日本で選りすぐりの食材を集めて開いたフェアが、報道されていました。

ほほぉーってなかんじで観ていると、旧知の青森のトキワ養鶏さんが出てきました。T養鶏と書こうかとも思いましたが、褒められている番組だからいいよね。トキワさんとは、もうかれこれ10年以上の知り合いです。パル・システム生協を通してでしたが、率いる石沢さんという東北人独特の朴訥な構えの中にも、才気迸る経営にいつも驚かされ続けてきました。

元々はケージ養鶏の中堅規模の法人でしたが、この5,6年の間に平飼養鶏へと転換を計ってきました。石沢さんの経営のアンテナは、常に鋭く時代の一歩先を読んでいました。例えば、BMW農法というバクテリア(B)、ミネラル(M)を水(W)を通して家畜に吸収させ、また畜舎の床にも散布することで菌相を豊かにし、汚臭や汚水を浄化する農法にも率先して取り組んできました。そう言えば、今のBMW技術協会の会長は氏でしたね。

Img_0009 また、去年からの飼料の高騰の先を予め読むようにしての飼料用米の作付けを大規模に行うなど、つねにチャレンジし続ける精神には頭が下がります。

飼料用米についてはちょっと批判もありますが、しかし現実に地元行政を巻き込んで実際に現場で使うところまで仕立て上げるというのは並大抵の力ではありません。

今回、初めて鶏舎の内部をテレビで拝見しました。正直な感想を言えば、同じ平飼養鶏といっても、なんて違うんだってかんじでしょうか。なまじ同業だから違いに眼が行くのかもしれません。

まずテレビクルーは、身体を清めるということで隣の温泉で洗浄されます。これはヤラセか、石沢さんのせっかく遠くまで来たんだから、温泉でも楽しみなさいという心優しいサービスでしょうね。無菌豚じゃあるまいし、平飼養鶏は諸々の菌との共存が前提の哲学ですから。

と思ったところ、鶏舎内部に入る氏の姿が異様なのです。なんと白衣とマスク、頭には抗菌の帽子、とうぜん白長靴のいでたち。いわゆる対ウイルス防除ファションですな。

大手のイセ・ファームあたりのウインドレス(無窓)鶏舎という精密器械工業の工場もどきならともかく、同業者の平飼養鶏でここまでやっている所は初めて見ました。おまけに、舎内はビニールカーテンで密封されて、開放鶏舎ではありますが、通風のない事実上の密封鶏舎です。作業通路と鶏舎内も同じくビニールで仕切られていました。これは過酷な東北という地の風土も考慮に入れる必要があるでしょう。

そして思ったより、鶏(岡崎横縞という小松種鶏場の最新作でしたが)の飼育密度が高いのです。ちゃんとカウントしていませんからなんとも言えませんが、どう見ても多いなぁ、という実感。

Img_0003_2私の地は、冬もマイナス5度を超えることはない温暖な地です。ですから、冬場も、ビニールすら張らずスカスカの通風で、トリさんは耐えています。ですから、寒さに耐えるために羽根の下の羽毛がびっしりと生え揃ってきます。

また、私の養鶏の根っこの哲学は、「いい菌、悪い菌、皆んな一緒に共存する中で初めて強い鶏ができる」というものですので、作業通路の分離、消毒槽の設置、トリインフル防除のための網など、最低限の防疫はしていますが、トキワさんのような対ウイルス装備で仕事をすることなど考えられもしません。だって、あれ暑いんですよ。息苦しいし。

平飼養鶏といっても色々あるのですね。私のような様々な菌や自然状況との共存を大事にしている所もあり、トキワさんのようにきちっと管理して防除するという考え方もあるようです。

たぶん東北の過酷な寒気を考えると、このような密封した鶏舎が必要ですし、その中で病気を予防するためにはあのような厳しい防除措置も必要なのでしょう。なにが正しい、間違っているという次元ではなく、その地方地方の環境の中からそれぞれの養鶏哲学が生れていくのだなと思いました。

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今が盛りの蜜蜂の採取飛行

_edited  蜜蜂が吻(ふん)を突き出して、ブルーセイジの花房に接近しようとしています。ホバリングという空中停止の状態を保つためにすさまじい回数の羽根の振動をしています。

蜜蜂はこの状態でしっかりと採取すべき密や花粉を精密にターゲッティングしているはずです。

この状態は実は鳥やスズメバチにもっとも襲われやすい姿勢で、うかうかしていると空中で捕殺されてしまう危険な態勢です。彼女は一刻もこのホバリングをおわらせて安全な花房の中に隠れて採取の仕事にいそしみたいはずです。

あ、よくホモサピの♂は自分を卑下したように「俺らはただのハタラキバチだ」なんてぬかしていますが、ハタラキバチは皆♀です。お間違いないように。蜜蜂の世界にも♂は少数いますが、まったく労働も、巣の守りにもつかずひたすら飲んで喰うだけのヤカバラ。女王蜂に生殖活動をしたあとは、お役御免となり、巣の外に蹴落とされてくたばってしまいます。気楽というか、物哀しいというか・・・。

さて、次の写真で蜜蜂は狙いすまして花房に飛び込みました。

_edited_2

やがて花房にすこしだけ羽根が覗かせるように身体を花房の中に没して採集に没頭し始めます。三昧の世界でしょうね。花粉の場合は、両足にしっかりと吸着させて、重そうに飛行している姿が見られます。

蜜蜂の採取活動、露の合間をぬって続けられています。冬の間の長い窮乏生活から解放されて、どこか蜜蜂もうれしげです。ホモサピの蜜蜂不足の悩みなど知らぬ気にいまが盛りです。

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さじ加減という鶏との会話

                                             _edited        里は春満開まであと少し。小高い丘に登ると正面には、円通寺の大きな伽藍の屋根を望み、小さな国道の脇には消防団の器材倉庫が時折走る車埃を浴びています。

この器材倉庫の脇の坂道をたどると村人の篤志で作られた小さな農村公園があって、私たちも収穫祭で使わせていただいたことがあります。面白いのは、この公園ですが、片隅には東屋の屋根をかけた土俵があることです。

手前の梅はまだ三分咲き。満開まであと2週間弱といったところでしょうか。清楚な梅が終わると村はむせ返るような春の陽光の中、桜の薄紅の海に没していきます。

ところで、「さじ加減」という言葉がありますね。いかにも日本人の感性そのもののような一見ファジーな言葉ですが、実は私たち鳥飼にとってファジーでもなんでもありません。厳然とした計量に基づく、的確な作業を意味します。

_edited_2毎日、私たちは飽きずに(まぁ、飽きられでもしたらトリさんも迷惑するでしょうが)、餌をやっています。私はほとんど無意識に行っている作業ですが、研修生に教えてみると同時に色々なことをしていることに改めて気がつきます。

まず、私は鶏舎内は、原則トリさんの自治区だと思っています。鶏という生物種は個体で生きることを本来しません。個体群という群で生きることが本能です。ですから、写真のような群で生きている時に、もっとも安定した生活を送ることができます。ケージ養鶏は、一羽一羽を檻(ケージ)に入れて生産効率を高めようとしますが、これが鶏の本来の生きかたとは真逆なものなのです。だからストレスが高まり、病気になります。

人間は管理者ですが、この空間の中では異物でしかありません。大きな顔をすることなどとんでもない。静かに、静か~に群の秩序を乱さずに。ですから、私が舎内に入る時には、この個体群を乱さないようにほぼ決められた動線上を静かに動いています。突如、奇矯に飛んだりなどは厳禁です。

また、よく素人が言いたがる「チッ、チッ」とか言うような余計な声は出しません。鶏はペットではないのです。その替わり、「見る」こと、観察することを無意識にしています。

食べにこない鶏はどこに何羽いるのか、いるとしたらどのような状態なのか、もう何日も食べられないのか、いじめられているのか、単に元気がなくなっているのか、あるいは、病気ではないのか・・・。病気にかかっているとしたらなんなのか、空気感染系か、消化器系か、肛門付近に下痢の跡がないか、顔色はどうか・・・これを心のメモ帳に書き込んでいきます。新人時代はノートに毎日記入したものです。

_edited_3 この餌やり作業は、あたかも人と鶏の朝の会話のようなものです。「おはよう、調子はどうだい?」、「おー元気だよ、腹が減ったよ、早くおくれよ」、あるいは、「調子が悪くってたべられやしない、あそこを改善しておくれ」といったような。

餌の量は正確に計ります。よく素人さんにやらせると、すりきりでやらず山盛りにしたり、逆に8分目で一杯分としたりします。やる容器がたんなるブリキのバケツですから甘くみるのかもしれません。とんでもない間違いです。一杯を正確にすりきりで計れないような人には、鶏とつきあう資格はありません。すり切り、つまり基準量に正確で初めて「さじ加減」が分かるのですから。

ここで「さじ加減」を理解するか、わからないままルーチンで作業を流してしまうのかで、作業者の資質がでてしまうでしょう。鳥飼になれるか、単なる農業労働者のまま終わるのかという境目です。ただの数キロの餌の差が、です。

何か悪い問題が発生している個体群では、必ず餌を食べる量に変化が生じます。てきめんに減っていくのです。逆に、成長と産卵開始を同時並行しているような若い雌の群では、毎日のように食べる量が増えていく場合があります。老鶏群は老鶏なりに、若い鶏はそれなりにケアをしてあげねばなりません。それの基本となる作業が、この餌やりなのです。

私の師匠である中島正先生は「餌やり一生。死ぬ前には鶏に餌をやって死ぬ」と教えてくれました。このわずかの差を「読む」、これがさじ加減なのです。

農業、特に畜産という生きもの相手の職種に向かない人は、何も見ていません。生きものを見る意志がないために、簡単にルーチン作業に馴れっこになり、毎日餌を余らせたり、逆に足らなかったりします。鶏が調子が悪かろうと、いじめられていようと眼に止まりません。そのような人に飼われてしまった鶏は気の毒です。その人間もやっていて面白くはないでしょう。

などとえらそうに言っている今でも、毎日完全な餌やりを決められたことなどないのですから嫌になります。餌やりとは、しょせん異種でしかない人間と鶏との間の数少ない会話であり、それが通じた時には幸福な気分になれます。この幸福な気分が、鳥飼の矜持なのでしょうか。「死ぬ前に鶏に餌をやって死ぬ」という私の恩師の境地には未だ遠い私です。

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TV取材が来ました

Img_0001 来る時には来るもので、立て続けに、雑誌とTVが取材に来ました。今まで、25年もやってきているせいか、マスコミにはかなり出るハメになっています。

どうもあの世界は狭いとみえて、関東近県で自然卵というと、ウチとあそこね、みたいになっているようです。

上の写真はレポーターの女性がリハーサルをしているところです。実によく嚙みました(笑)右下はまたまた嚙んだので「ごめんなさ~い!」と叫んでおります。連続写真でご覧下さい。私も、女子従業員も興味シンシン。こんな具合でリハーサル5回ですぜ。ディレクターがだんだん引きつって来る。しかし、大変に素直に私の話を聞いて頂けました。事前にあるていど平飼養鶏についても下勉強をしてきていたみたいです。明るくてドジっぽくてうちの女子従業員によくいるタイプですね。とても好感のもてる人でした。ほんとうに番組って、かなりの部分までレポーターで決まってしまうみたいですね。Img_0002

前回の赤坂に局がある放送局には、女性レポーターの例の後ろ走りをホントに見せてもらっちゃいました。ホントにやるんですね。うちの狭い作業通路を前を見ながら「うわー、鶏ばかりいますねぇ、すごぉい!」(←鶏舎に来てあたりまえだろうが)と叫びながら、後ろ向きに走って、ディレクターの指示どおりトリの部屋で餌をやっている(ふり)の私に、異様に明るく「こんにちは~、なにをやってらっしゃるんですかぁ~!」。私、絶句。思わず茨城弁で「決まってぺよ、おめらが言うとおり餌さやってんだべぇ。こたら時間に餌やるなんて聞いたことないべさ」。悪態をつく時に方言は実に迫力があります。小さくつぶやいたつもりでも、しっかりと集音マイクに入っていたとみえて、はいNG。

Img_0005 で、テイク2。再度の後ろ走りを見せてもらったところ、その異様なふるまいにわが女性従業員が遂に堪忍袋の緒を切らして、パニックになり舞い上がる灰神楽、いやさ、鶏糞神楽。それを気の毒にも頭から被ってまたもやNG。レポーターさん、メイクのやり直し。実は、彼女が浴びたのが発酵乾燥鶏糞だなんて、可哀相で教えてあげられないですね。

だいたい他人の農場の、しかも彼女たちの自治区に来て勝手なふるまいをするからですって。テレビなんかそんなにえらくないのよ。撮ってやるって顔しちゃだめです、私とか、わが従業員のようなへそ曲がりがたまにいますから。

上と下の写真はは卵の撮影風景。カメラマンの真剣そのもの眼差しはずごいですよ。光線の射し方、陰影などまで考慮に入れています。今回のクルーは非常に丁寧に仕事をしてくれました。

あまりマスコミに露出するのは好きではありません。しかし、私たちの仕事も誤解されていることが多いので、最近は来る取材には応じることにしています。               Img_0004          入植当初も、農村でおかしなことをしている都会の若者といった感じで取り上げられることがありました。真面目な記事もあったのですが、ひどいものもあり、、別に取材していただかなくても結構といった感じで、以後10年以上は取材拒否農場となっていました。

ここのところで、食の乱れや表示の偽造などで、生産者がやり玉に上がることが多いので、そうではない生産者もいますよというメッセージを出さねばならなくなりました。私としての気分はテレビ相手の食育のようなものです。

実際に取材に来て、まったく無臭、静粛な農場の風景に接すると、百の言葉より説得力があるようです。 しかし、半日仕事が潰れますが・・・。もちろんノーギャラですよ。うちの農場は産直一本なんで、宣伝はいらないんだけどなぁ。

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雛が入りました! その4 ヒトにとっての幸福、トリにとっての幸福

Rimg0044 今回は硬くしゃべればいくらでも硬くなりそうなので、できるだけかみ砕いてお話します。

私は自分の農場が「5分の3経営」でいいと思っています。5分の3、つまり稼働率6割でわが農場は回っています。上の写真はわが農場の鶏舎ですがこのような建物が5棟あります。私の同業者は、仮に5棟あれば目一杯産む鶏を入れようとします。私はそのうち3棟しか経済性には使いません。

ちょっと算盤をはじいてみましょう。私の農場では、この1棟に収容できる限界を600羽~650羽としていますから、めっ一杯入れると約3千羽です。しかし現実には、私は3棟分しか産む鶏に使いません。約1800羽~2千羽といったところです。実に千羽強の差があります。実に我ながらゼイタクな使い方です。

これを収益に置き換えてみます。産卵率8割として、目一杯10割入れると2400個/1日が生まれます。一方、6割入れた場合1600個/1日です。800個/1日の差です。これを30円/1個で販売するとして、24,000円/1日、そして月で実に720,000円、年にするとなんと864万円もの収益の差があることが分かります。どひゃ~、こんなにあるのかぁ。計算すんじゃなかった(汗)。

Img_0022 気を取り直して、近代畜産は、施設を高速回転させて効率よく生産することを至上課題としました(←いきなり教師口調になる)ちょうど工場のベルトコンベアーを高速でぶんぶん回すのに似ていますね。

どんどんと家畜を入れて、がんがん出荷しようという考え方です。私のようにわずか6割の鶏舎しか使わず、のんびりとやっている低速回転農場など、現代畜産農家のいわば辺境だと思われてきました。

では、どうして私はこんな辺境農法をとっているのでしょうか?それは私の農場が「一貫」だからです。さてと、ここでまたひとつ専門用語が出てしまいました。説明をします。「一貫」とは、雛から最後の淘汰まで、文字通り「一貫」して自分の農場の責任で飼うことです。

なんだ、あたりまえじゃないかと思われるでしょうが、私の農場のような「一貫」は今やまったくの絶滅危惧種、レッドブック入りです。養鶏家は、外部の育成業者から産み出し寸前の120日齢(生まれてから120日め)の大きな鶏を入れて、ものの1カ月以内で産ませることになんの疑問を感じていません。言ってみれば、苗を自分の農場で育てず、よそから買ってくるようなものです。こうすれば、仮に5棟あれば、全部に産む鶏を入れてしまえることになります。残念ながら、今や平飼養鶏も含めて、大部分の養鶏農家はこのような方法で飼育しています。(私が属するGは全員が一貫飼育です)生育技術を持たない養鶏家などざらです。ついでに言えば、完全配合飼料を使った場合、餌もなにか知らないという知らない尽くしの人すらいる有り様です。これで鶏に愛情を持てるはずもないではありませんか。

では、なぜこのような「手抜き」をするのか?理由は、さきほど述べた経営的に施設稼働率を上げられるという事以外に、雛を育て上げるというのは神経がくたびれることだからです。一昨日に入った雛の様子を見に、今日も私は夜でも見回りを絶やしません。しっかりとした硬い羽根が生えるまでの1カ月間は寝不足の日が続きます。暴風雨や台風のときには、彼女たちを守るためにつきっきりで側にいます。濡れた雛は、一羽一羽よく拭いてやってぬるいドライヤーで温め、自宅のコタツに入れたりもします。食欲がない弱った雛には餌を練って口に運んでやります。そしてうまく育った時のなんとも言えない充実感と爽快感、彼女たちへの愛情、これが鳥飼という職業の醍醐味なのです。Img_0003

このようなことを養鶏農家は忘れかかっています。企業養鶏はそもそも話の外です。彼女らを採卵マシーンとしか思っていません。農家が企業と張り合えるのは、そのきめの細かい愛情なのに、それを忘れかかっています。悲しい。

養鶏農家は高い雛を買い込み、淘汰をした後にすぐに鶏糞出しと消毒をし、そして数日以内にまた産み出し寸前の鶏を導入するという作業します。過酷な腰が痛む労働で、実際、養鶏農家の職業病は腰痛でなのです。

人は毎日鶏糞出しと消毒作業をし、腰を痛め、消毒農薬による肝臓障害などを起こしたりします。一方、産み出し寸前で入れた大雛は、新たな飼育環境に馴れないためにひ弱で、おまけに私の眼からみればバカ高い値段です。これを次から次に入れていけば、年間の雛代だけで膨大なものになります。計算したことはありませんが、たぶん私のような一貫飼育の数倍ではきかないのではないでしょうか。

Img_0023_2 私の農場では5分3しか鶏舎を動かしていませんし、育成期間中は1棟5部屋のうちの一部しか使わず、大部分は遊休期間としています。鶏糞は出しません。畑でいる時にだけ、必要なだけ出すだけです。ですから、鶏糞出しなどほとんどしません。そして、しかも雛は発酵鶏糞の上で育ち、その菌相に雛のうちから馴れていく強い鶏となります。鶏舎を休ませるのが、最大の予防防疫なのです。

このように、近代畜産では、確かに入ってくる売り上げは一見大きくなったようにみえても、消毒代、薬剤費、人件費、施設費などがかさんで、農家は心身ともよれよれにくたびれ果て、腰痛を患い、そこで一回どこかで事故が起きようものなら、倒産しかねません。これではヒヨコ屋、薬屋、資材屋を儲けさせるために農家が身を粉にしているようなものです。

そう考えると、私のようなグータラが5分の3回転などと言ってやっている農法と、結局はさほどの収益的な差はなくなりました。そして人と家畜の幸福という価値を考えると、高速で突き進むベルトコンベアーから降りるのが幸せではないかとふと思うのです。

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雛が入りました! その3 ガリで、ドジな子の死

Img_0020 こんなことを考えていたら、私にペットがいたことを思い出しました。
卵をゼンゼン生まないのでまぁ、いちおうペットと呼びます。ようするに、駄羽です。ケージ養鶏では真っ先に締められます。というかハナから居場所がありません。うちの農場の方針は「駄羽もいるあたりまえの社会」ですから、駄羽の諸君もワラワラいます(←自慢することか)。
ほんとうに弱い雛で、どうしようもない。雛の時からドジで、ガリガリで、一時は別飼いと言って群から分けて飼っていたこともありました。成長しても群になじめず、いつも高いとまり木の上で、皆が食事をするのを上から静かに見ているような女の子でした。あまりドジなので個体識別ができてしまったくらいです。
私が個体認識できるのは駄羽か、凶暴な雄鶏しかありません。優秀で大きな鶏は見分けがつきません。これでもいちおう感情移入しないクールな管理者なんですよ(どこが)。鶏が死ぬごとに号泣していたら身が持ちませんもん。
彼女はメシの時間にも一緒に食事ができないんです。鶏というのは集団性生物特有のイヤミなところがあります。劣位の鶏が傍らに食べに来ると鋭いクチバシでカツンっとつつく。劣位には食べさせないわけですね。果てはつつきまくってとまり木の最上部にまで追い上げてしまいます。
そして食事を終わってからそっと食べに来るとまためざとく仲間にいじめられる。私が彼女のための特設食事処を作ってやって生き延びていました。ですから、彼女は私が餌に部屋に入ると、うれしげに、有難迷惑にも、肩に飛び下りてくるのです。鶏の脚には鋭い爪がありますから、夏のTシャツだとシャレにならないくらい痛い。痛てぇじゃねぇかと払っても肩に乗って来ました。
昨年の熱波の夏、8月16日朝、彼女は干からびるようにして片隅で死んでいました。酷暑に加えて、長い間なにも食べられなかったのでしょう私にも目配りする余裕がなかった。いまでも思うのですが、彼女は私のことを親と思っていたのかもしれません。
もしそうなら、私はいい親だったのだろうかと自問します。
写真は、ガリでドジな彼女が自分がそうであったらと祈っただろう姿。わが農場のシンボルです。

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雛が入りました! その2 私の鳥飼哲学

Img_0053_2                                           私は鳥飼という言葉が好きです。養鶏家や畜産家という言葉はなぜか私には似合わない。今日はそのあたりをお話します。

よく同業者に言われるんですが、じゃあ、あんたそんなキレイゴト言ったって商売でしょう。そんな家畜にセンチメンタルな態度で接しられるわけがない、と。

あるいは、都会の意識が高い消費者から言われるのは、養鶏なんてしょせん輸入穀物の加工業にすぎないんじゃないですか、と。この言葉は傷つきますね。オレたちは加工業ですか?ならば、私は鶏をモノ扱いにしているのか、と。

このふたつの疑問に対して、私は同時にこう答えるようにしています。私が目指している鳥飼は、人と生きものの関係をより豊かにしていく中でしか生まれません。私は鶏を加工するただのモノとはまったく考えていません。互いに生きものとしての目線を失わずに生きていきたいのです。ですから加工業という批判はものごとの一部を指したもので、全体を見ていません。

また、それをセンチメンタルだというならば、あえてそうだと言いましょう。センチメンタルというのが、彼らとの気持と優しさの交流の言い換えならばです。つまり、それは単なる技術論の枠をはずれ、鳥飼としての矜持、あるいは哲学の上に立った私の農業者としての生き方の問題だからです。

ニンゲン族が作った畜産の技術とは、動機は実にシンプルで、どれだけ多くの肉をつけさすのか、乳を絞れるのか、卵を採れるのかという技術にほかなりません。その中にはいままで家畜と呼ばれる生きものの幸福度などは一切考えられてもいませんでした。幸福だろうが、不幸だろうが、お金の価値に換算できればいいという前世紀の近代畜産の考え方です。Img_0012
結果こうなりました。単位面積にできるだけ多くの家畜を詰め込む。そのほうが施設の回転率が高くなりより儲かるからです。
そして家畜は運動をさせないために縛って動けないようにする。これで飼料を運動エネルギーにするロスを省き、また管理をしやすくするためです。
そして、その先はこうなりました。畜舎は最悪の状態に置かれることがあたりまえになりました。まずは匂い。家畜農家が周辺から文句を言われっぱなしなくらいに匂う。糞尿から出るガスと家畜のストレスからくる独特の汚臭が畜産につきものになりました。そしておびただしいハエ。
病気になりやすい弱い家畜。薬剤、抗生物質、消毒剤の常用。そして毎回効かなくなって濃度を高くするしかない薬剤と抗生物質。その資材コストが足を引っ張ってしまっての経営成績の頭打ち。・・・これが家畜を生きものとして遇さなかったための自然からのしっぺ返しです。
総論ばかりお話していてもしかたがない。わが農場の舎内を見ていただきましょう。
舎内に入ったら、ここは彼女たちの自治区ですから、遠慮気味にゆっくりと動きましょう。静かに、静かに。そして口元には笑みを。え、鶏にそんなことが分かるのかって?バッカだなぁ、分かるに決まっているでしょうが。彼女たちは自分たちに対して敵対的なのか平和的なのかを瞬時で察知します。
餌をくれに来たのでもないニンゲン族がなにをしに来たのか興味津々で彼女たちは見ているのです。当然、ニンゲン族の個体識別もしています。見学者だと餌をくれるわけでもないのに、なにをしに来たのかという警戒の眼で見られるでしょう。
では、いきなりですがものは試しで、腕立て伏せの要領で。鶏の鼻孔の位置に自分の鼻を置いてみましょう。左下の写真は、ほぼ鶏の鼻の位置で撮影しています。
この位置で臭くなければ合格です。逆に、ここで匂ったら、どこかに問題がでている証拠です。たとえば収容羽数が限界を超えているか、病気、特に呼吸器病が出ているかです。ついでに床も観察してみましょう。特に糞の状態がポイントです。糞が流れていれば、それは下痢で、消火器官障害の黄色シグナルが出ているからです。
Img_0005 床が糞尿でベチャベチャだったりした場合、100%の確率でアンモニアガスや、メタンガス、硫化硫黄が大量に発生します。これはいわば魚の水槽に大量の汚染物質を投入したことと一緒です。魚にとっての水、鳥にとっての空気、これを汚染した場合、鳥類である鶏は呼吸器病に簡単に罹ります。
そして呼吸器病は鳥類にとって万病のもと。ここから多くの感染症に拡大をしていくのです。
だから、薬剤が常にいるのです。金をかけて薬剤投与をし、安全性に疑問符がつく食材を作り、だからと言って自分も儲かってもいない。ニンゲン族にとっても不幸な状況です。今まで余計なことに金を掛けていたのです。薬、抗生物質、消毒液。金をかけずに鶏が幸福に生きていくというのは相互にとって最大限幸福なのではありませんか。第一そのようなまっとうな生きものが生んでくれたものは、不味かろうはずもないではないですか。
私は根がケチですから、つまらないことに金をかけたくありません。また住んでいるところが、鶏舎のほんの数メートル先ですから汚臭やハエなどとんでもありません。なんのために田舎に来たのかわからなくなりますもんね。
ですから、鶏にとってのいい環境が、ストレートに私たちの住環境の良さとつながっていました。
あ、そうだ、肝心なことを言い忘れていました。写真で見える床がなにかお分かりでしょうか?砂?土?違います。糞です。げ、と思われるでしょうが、これが平飼養鶏の真髄です。
床は私たちが与える草やモミガラ、ワラなどの敷料と鶏糞がかき混ぜられた糞が堆積したものです。しかも底まで完全に乾燥して、無臭です。これはわが農場を見学に訪れた人が口を揃えて驚嘆することです。「匂わない!ハエがいない!静かだ!」。Img_0010 そしてもうひとつ「鶏が幸福そうだ」。そうです、これが私たちの鳥飼の勲章なのです。
彼女たちと私たちの幸福は相矛盾することではありません。いやむしろ完全に一致しているといってもいい。ただ、そのハーモニー(調和)に到り着くまでに多少の努力と多少の哲学がいるということだけです。
彼女たちとのつきあいは確かに短いのです。だから、ニンゲン族の最大限幸福と、鶏の最大限幸福のバランスの中でやっていこうと思っています。
この短い中で彼女たちが生命力を開花できれば、産卵も上がり、私というニンゲン族も非常にうれしいと思います。貪らず、生きものとしてのつきあいができること、それが私たちにとっても共通の利益なのですから。
写真は、上からわが農場のオンタン(♂)。こうして改めてみると眼がコワイですね。次は鶏舎の作業通路と餌をやる車。この通路が実は雨が振り込まない秘密なのです。人は楽に、鶏さんも楽にというわけです。次は鶏舎内。できるだけ視線を下げて鶏の目線に立っています。でもやや高いか。最下段は産卵箱で生んでいる彼女たちをパッチリと一枚。

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雛が入りました! その1 きらきら光るような命の塊

Img_0004 昨日、雛が入って、これを書いています。元気な雛が、涙ぐましいようなきらきらと光る産毛に包まれて私たちの農場に来ました!
それは生命力が産毛を着ている輝くエネルギー。走り回る命。まだ頭の先に殻が残っているような赤ん坊。
手で強く握れば簡単に死んでしまうようなふわふわな瓜のような縦縞の入った雛を、これから大人の女性に育てるまでの約半年、彼女たちは私の関心の中心に居座ります。
特にこの瓜坊の縦縞がなくなって、堅くて強い翼が彼女たちを守る30日くらいまでは気が抜けません。
強い雛と弱い雛があります
雛は育種技術が発達した今も、個体の形質はデコボコです。ある者は強く、大きく、そしてある者は弱く、小さく。これはたぶんクローン技術でもないかぎり当たり前の自然の摂理なのだと思います。
Img_0030 試練は早くも初日の夜に来ます。強い雛は喰うだけ喰って、お腹はパンパン、さて寝るかとばかりにもっとも温かい温源近くに当たり前のように寝ます。うむぅ~温けぇ、眠いなぁ~、ふがぁ~ってなもんです。ボタモチのようにのんびりと身体を丸めて円陣を組むようにしてすやすやと寝ています。
一方、ドジで小さな雛は昼にたいして食べられず、寝る時も温源から最も遠い、ボタモチ円陣の外縁の一等寒い場所で寝ざるを得ません。同じ餌をやっても大きな雛はトウモロコシのような腹の足しになるものを食べ、哀しくや弱い雛はパフパフの糠ばかり食べるはめになるわけです。
まして、私が温源(なんてことないリサイクルショップで買ったコタツですが)の温度設定に失敗したりしたとして、お~寒い、あ~凍えるということになってしまえば、まっ先に必要な温度を得られないのはこの弱い雛ということになります。こんなことが続くとたった1カ月で、同じピヨピヨでも、方や大きく、方や惨めに小さいということになるのです。
そして、このような群の均一な発達(揃一性)に失敗すれば、産卵のピークは上がらず、もうメタメタな群(ロット)となります。これはニンゲンにとっても困る。だって儲からない(笑)
ガンガン生んでくれるのもいいが、かといって生命力を一瞬で失わせても困る。まぁ、ボチボチ、気長に、無理せずに、それがわが農場のポリシーのようなものです。第一、私らニンゲンもそうだもんね。Img_0028
鳥飼の仕事は、生き物を「見る」ことです
よく、新規就農者に聞かれます、養鶏家はなにを毎日するんですか?
そりゃいくらでもありますよ、餌やり、卵拾い、選別、出荷作業、緑餌集め、村中を回っての野菜くずの収拾、ヒヨコ育て、そして畑作り。
でもこれではなにも言っていないに等しいのです。ほんとうにしなければならないのは「見る」ということです。毎日群を見る、毎日見る、餌をやりながら見る、すぐ来る奴と来ない奴を見る、通りすがりでも見る、やがて見ることによって群に何が起きているのかがわかるようになります。
一般の人が見ればだだボーとして鶏舎を見ているボケに見えるでしょうね。確かにボケには違いがありませんが、その時、なにを鳥飼は何を見ているんでしょうか?
いじめられている個体、食べられない個体には注意がいります。この個体は速やかに群から保護しなければなりません。その判断が遅れるといじめ殺される可能性すらあります。
集団的に生きる生物には、群の中で弱い個体を排除しようという意志があります。自然界において、それは群にとってお荷物だからです。それを簡単にさせてたまるかというのが、私親代わりのニンゲンの立場だと思っています。
写真は、上は着いて1時間の休憩をしているところです。蓋を半開きにして蒸れないようにしてあります。長野からの3時間の旅でした。中は保温器の中に入れていきます。この時期はほとんど温度を入れません。下は餌つけが始まったヒヨコ。まだ環境に馴れていないので、やや不安そうです。

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