私のダッシュ村時代

大根干しの情景

_edited_2 大根干しの情景です。人物は懐かしきわが研修生のT君です。どうしていますか。彼も結局は就農できなかったな。

大根は大体1カ月弱干します。写真でわかるようにかんぜんに両端がくっつくくらいまで干すと、太陽の滋味を浴びてほんとうに美味しい沢庵になるのです。

沢庵は米糠に柿の皮や鷹の爪と少量の昆布と塩を混ぜて大根葉で蓋をして重石をかけて漬け込みます。

たしかこの時は、大量に200本近く漬けたのだと思いました。大根も青首ではなく理想大根という沢庵専用品種を使います。やや細く、首がすぼまっていません。生食より漬け物にしたほうが美味しい品種です。三浦大根でもやりましたが、大き過ぎて干すのが大変。縄にうまくかからないのです。

こんなふうに昼干して、夜は天気ならシートを被せ、天気が崩れそうなら納屋や母屋の軒に干していきました。干すことに大半の時間を費やすのが、この沢庵です。

うちの村にも時期だけ稼働する沢庵工場があるのですが、干さないで生のまま洗って、水圧プレスで押して、漬け込み液で味付けします。あっという間に出来てしまって、見学した私たちは脱力しました。

美味しいものは手間がかかるってことです。

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秘蔵写真を大公開!農場、ただ今建設中  とりあえずの最終回    新トリサマ亭の中は?

_edited まぁ、こうしてみると、色々山あり谷ありだったようです。しかし、私たちの特質はめげないというか、トリは三歩歩くと忘れるといいますか、まこと家業に似合った脳ミソと感性を持っていたことです。

では、当時の出来たばかりの「新トリサマ亭」にご案内しましょう。まずは玄関から。あれ、そんなものないや。いきなり大屋根がかかっている正面のホールに入ります。え、履物ですか。大丈夫。床材がないですから、そのままそのまま。

吹き抜けは私たち唯一の贅沢で大きくとりました。なんせ8年間も手を伸ばせば天井に当たるという狭苦しい生活をしていたもんで。二階が頭上にあるのはいやだったのてす。

いちおう建坪は30坪ありますが、ところどころに将来のための仕切り壁があるだけの巨大なワンルームにすぎません。しかも中がカラッポだぁ!トイレですら初めは扉もなし。風呂もドアなし。床も床板もなくタダのコンパネ。すべての部屋はスースーで仕切られておりませぬ。ともかく鳥小屋から倉庫屋根裏生活を長年してきたもんで、もう一刻も早く普通の家に住みたいの一心でした(おお健気な私らよ、うるうる)。

_edited_2 この写真はまだ便器がついていませんが、仮に着いていても似たようなもの。いくらなんでもヒドイというので、インド更紗のカーテンをつけましたが、お客人の女性から、あまりだという抗議が多々あって、トイレだけは比較的初めに扉がつきました。まぁ、あたりまえか。

その上の写真は薪ストーブに陣取る猫界の長老だったナビです。ちょっと脚が悪かったのですが、そんな障害にめげず、食欲と温かい場所や涼しい場所にいち速く陣取る強靱さはハンパではなく、わが家の猫界の長老に。なんと16歳という長寿をまっとうしました。人間なら百歳くらいではないかと。最後はあまりの長寿に、周りからさほど惜しまれもせずに、めでたく他界いたしました。

_edited_4 梁の上に猫が乗っていますね。上のトラシマがチャンプルーで、下がクウです。猫と煙は高いところに登りたがる。で、わが家の柱は連中のために爪を研がれるは、登られるはで、うれしいことに、ささくれだちました。いちおう新築ですぞ、こらぁ!

_edited_5 今回のシリーズの最後の写真は、ストーブとカミさんです。くつくつ煮えるストーブの上のシチュー、パチパチとはぜる薪、表は雪。

まだまだ写真はゴマンとあるのですが、まぁ今回はこのあたりで幕ということに。

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秘蔵写真を大公開!農場、ただ今建設中! その6 NDの悲劇と蹉跌

_edited_6 母屋と鶏舎が出来て、ようやく農場も軌道に乗ってきた頃の写真です。表情も明るいですね。

犬は当時飼っていて19歳まで生きたモモという犬です。すばらしく気立てが良くて賢い犬でした。まだ小犬の頃ですね。わずかですが出来上がったばかりの家が見えます。

さて、Fさんとの土地問題にも決着がつき、すべてが順風満帆に思えたちょうどその時でした。

関東平野をひたひたと東に上がってきたニューカッスル(ND)という鶏病の魔王が、とうとう私たちのヨチヨチ歩きの農場に侵入したのです。NDはその感染力、死亡率の図抜けた高さで、世界の養鶏家から恐怖の的になっている病気でした。

おかしいと思った時には既に遅く、たちまち下の写真のように鶏たちはバタバタと死んでいきました。わずか1週間で約500羽にも登る鶏が死亡しました。今でも悪夢に出る時があります。毎日、できたばかりの自分の鳥小屋には死亡した鶏が積み重なり、他のかろうじて生きている鶏もうつらつらするように生命の灯火を消そうとしています。そしてこの私はなにも出来ないでいる。 見て、声をかけ、励まし、餌を水で練ったものを口に与え、毛布でくるみ、しかし、まったく助からない。

_edited_7 感染を薬剤以外でくい止める最後の方法として、感染が確実な鶏を一羽一羽、殺処分にすらしました。

手のひらに包み込めるようなまるでうぶ毛の塊のような雛から育ててきた鶏の頸動脈に刃を入れて、そして力を入れて搔き切る。吹き上がる血、私の手の中で「死にたくない」と大きくビクッビクッとあらがう断末魔の力の強さ、蹴爪を私の腕にたてて。一羽殺すごとに合掌して黙祷しますが、なにを思っているのか私自身が分からない有様でした。私の命を奪って、手を合わせて自分だけ助かろうとするこの偽善者!この卑怯者!お前には永久の心の平安はない!という彼女たちの声が頭の中にこだましました。

一日に数十羽を殺処分(なんという人間の勝手な言葉だ!)にし、石灰を撒いた穴に放り込む毎日が続きました。夫婦の会話はめっきりと減り、食事も作る気になれません。暗くなった部屋で、いっそう自分たちが死んだほうが楽だなと私が言うと、いつもは気丈な彼女も黙って首を縦に振りました。

当時、平飼神話というものがありました。ほかならぬ私の農の恩師であった中島正先生が、その中心に居ました。都会から農村に移り住んだ若者の多くは、彼の激烈な農本主義の強い影響下にありました。都市を捨て、農村に拠り、農を復興させ、農により都市を包囲し、ゆっくりと解体する。そして都市の若者よ!街を捨てて、農に拠れ!農の再興に力を貸せ!と叫びました。

今になって振り返ると、日本農業の中に脈々とある農本思想と、当時まだ幻想を持っていた毛沢東主義のアマルガムですが、高熱を発する流行り病のようでした。激烈であるが故に単純。単純であるが故に純粋。純粋であるが故に、極めて狭い視界しかもっていませんでした。しかも農業技術体系と一体となっているために、思想と技術体系を実利的に切り離せないのです。彼の門を叩く者は思想と技術を、ふたつにしてひとつとして理解し実践せねばなりませんでした。

実際の先生は穏やかで、合理的ですらある方です。文章とは異なり、よくひとの声を聞き、妥当な解決策や進む道を教えていただける農の先達でした。そして、徒党を組むことを嫌い、年賀状すら「山中に暦なし」とされるひとでした。自然卵養鶏の福島正信先生のような存在だと思えば間違いないでしょう。

そして私はといえば、それを一言一句違えずにその思想を実践しようとしました。文字どおり職を捨て、街を捨て、わずかな財も捨て、身ひとつとなり、沖縄に入り、ポンコツ車に打ち跨がって全国を歩き、農地を得、鳥小屋を建て、家畜を飼い、家を建て、そしてこの蹉跌に遭遇したというわけです。私は忠実な中島先生の弟子だったのです。

_edited_8 師はNDたりとも、自然養鶏の前には怖くないと豪語し、自分はNDの鶏を触ったが、自分の鶏は感染しなかった、ワクランはいらない、いやむしろ打ってはならない、それは平飼鶏の生命力の強靱さを軽く見ているに等しいことだと述べました。

NDの真っ最中、対策を問い合わせた私に答えて、先生からは心のこもった一通の手紙をいただきました。その中で、「君の例はもはや民間療法ではどうにもならない。投薬をするしかない」としるされていました。師自らが言うように、平飼神話は神話でしかなかったのです。

NDの嵐が去った後、私の農場の外観は維持されているように見えました。たしかに鶏舎や倉庫は残り、家もあった。しかし、半数以上の鶏が死亡し、特に次の世代の雛は全滅しました。残った鶏もまったく卵を産まなくなりました。

そうです、私の農場は事実上壊滅したのです。

後日、私は師が最高顧問をつとめる全国自然卵養鶏会の全国集会の発表の場で、私の農場のNDの経緯の記録と写真を提出し、平飼神話は相対視すべきであると訴えました。同じ蹉跌を踏んでほしくなかったからです。

しかして、仲間だと思っていたわが聴衆の答えは、いわく「先生のおっしゃるとおりにやらないから事故を起こしたのだ」、「自分の失敗を先生になすりつけるな」でした。

師が言うとおりやらないから、起きた。それがいかに外部からの強力なウイルスの侵攻だとしても!これではまるで、念仏を数える回数が少ないから、お前は病に罹るのだ、というどこぞの新興宗教と同じではないですか。

私はこれ以上の声を上げることを止めて即時に脱会し、再び荒廃したとしてもわが唯一の拠り所である農場へと急ぎました。そしてその扉を堅く閉ざしたのです。ガンバレ、ハマタヌ!ご声援を。

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秘蔵写真を大公開!農場、ただ今建設中! その5    ボーイズ&ガールズ!夢は叶うのだぞ、君がオッチョコチョイならば!

06 家を構想することは、長い間の私たちのお気に入りのおしゃぶり飴でした。いったい何千回、あーでもないこーでもないということを語り合ったかわからないほどです。

上の写真は、トリサマ亭の壁に貼ってあった家のデザインの移り変わりです。左上(モデルⅠ)から始まって、右上(モデルⅡ)に行き、最後が下(モデルⅢ)です。そして現実には写真最下段(モデルⅣ)となりました。

香港の看板がちょうど店の横から始まり、やがて大型化し、道に被り、ネオンで点滅し、そして隣の店も負けずに派手になり、台風で全部壊れて、初めからやり直しという話と似てなくもありません。

最初のモデルⅠは実にシンプルです。単純な切妻型の屋根が乗った箱です。なかなかいい味出してます。すっきりと昆布味で仕上げてみましたみたいな家です。玄関の軒は一段下がって雨が家から出るとドバーと頭からかからないように工夫されているのが見えますか。

ただ、難点は屋根裏の利用です。わが家は屋根裏があるために外から見た感じでは平屋ですが、実は一階ホールから吹き抜けとなった二階構造となっています。二階はそうとうに面積が広く、充分に寝室とガラクタ部屋(納戸と通常は言いますが、うちはガラクタばかり)が2間とれます。いちおうわが家は延べ床面積で50坪ありますので、2階というか屋根裏だけで20坪はあります。無駄にデカイ気もします。

さてさて、屋根裏生活を私たちほどかくも長期にやった人はそうそういないのではないかな。倉庫の2階から現在まで、実に20年近い屋根裏人生。マダムヨーコさんは子供の頃に読んだ魔法使いのお話で、屋根部屋は異界に繋がると夢みていたそうで、めでたくも永年の屋根裏部屋暮らしと相成りました。ボーイズ&ガールズ!夢は叶うのだぞ。君がオッチョコチョイでありさえすれば!

ただ、天井がないので、夏はカンカンに暑くて、冬はキンキンに寒く、部屋の隅から粉雪が舞い込むという今でもなかなかワイルドな部屋です。天井が伊達についているわけではないのがわかりました。全身で季節を感じる私たちです。さすがこの歳になるとフツーの密閉された部屋もいいかななどとこぼしています。

_edited_13 ボーイズ&ガールズ!夢は実現しても、映画なら涙が出そうなテーマ曲高まる、めでたし、めでたしだが、現実はその後がえんえんと続くのだぞ!ジュリエットが死なないで、スーパーのチラシを読んでるんだぞぉ!

モデルⅠでは、屋根裏にあかり取りの窓がないために、たぶんこれに住むと、屋根裏は昼なお暗きだったでしょう。直接に天窓を穿つ方法もありますが、雨漏れが心配でした。

そこでモデルⅡに行きます。ドーマー(出窓)が簡単についています。屋根は合掌に自信がなかったので片流れ構造になって、ついでに玄関にも屋根がつきました。このモデルⅡはあまりカッコよくはありません。なんか中途ハンバなんだなぁ。ドーマーも中央に一個なので、両側の部屋はやはりうす暗いままでしょう。

ということで、モデルⅢ。ここになるとモデルⅠの面影はなくなりました。ドーマーは両サイドに一個ずつ配置され、おまけにゴタゴタしていることには切り妻の下にはベランダまでついています。そしてその下には縁側というかオープンデッキ(ウッドデッキ)まで!玄関は合掌構造で出張っています。え~、なんともやり過ぎで、たまにこんなデザインのログを別荘地の写真でお見受けます。小金持ち的なテイストで、私たちには似合いません。

そして現実に作ったのは下の写真のモデルⅣとなります。モデルⅠに出窓が2ツついて屋根がぐっと大きくなったと思えばいいでしょう。出窓は2ツ、モデルⅢにあった玄関の屋根は大屋根が被っているので消えました。二階のベランダもメンドーなので作りませんでした。おかげで酔っぱらって、二階の窓から月見をしようとして転落しそうになったことがあります。オープンデッキも雨で腐りやすいので作っていません。

オープンデッキは、あれば便利で、野菜や豆を乾燥する場所としてはうってつけなのですが、まぁなくても庭に網戸やカゴを置いて干せばいいだけの話です。よく雑誌にオープンデッキでジャグジー(西洋露天風呂)やバーベキューなどをやってニタカニタカしている写真を見ますが、あれは別荘でやること。ここは生活して生産している空間なのです。

18_edited 家はしょせんツール、道具、手段でしかありません。家はまた財産でもなく、ましてや人生の達成点でなどサラサラなく、ただの生活の「器」に過ぎません。その器になにを入れるのかは自分次第なのです。だからおもしろいのでしょう。

ボーイズ&ガールズ、家は自分の生活のスタイルがあって初めて作るのだぞ! その意味で家は君らの生きている哲学なんだ。

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秘蔵写真を大公開!農場、ただ今建設中!その4  「家」のコペルニクス的展開

_edited_9 ニーニャ様から、あの家も手作りなのでしょうか?とのご質問をいただきました。

大体そうであります。大屋根をかけるあたりは技術的に難しいので友人の大工と一緒にやりました。それ以外はおおよそ私たち夫婦の手作りです。

いや、家なんて日曜大工が上手な人にはできません。日曜大工をやる人って一寸も狂わず、ピタっと本棚などを決めるじゃないですか。とてもとても私たちにはそんなマネできません。高校時代の友人には「お前のような不器用な奴がよーやったわい」と言われましたが、そう、不器用だからできたとも言えます。

性格的にダラシがないというか、結果オーライというか、壁に隙間があっても「いいじゃん、後から埋めれば」と思ってしまうタイプらしいのが、やっているうちに分かってきたのです。細かいことを気にしていたら家は建ちませぬ。

まずトリサマ亭という鳥小屋改造住宅から始まって、そこに足掛け3年間でしょう、そして次が倉庫(おとといの記事で、マダムヨーコが乗っかってブイブイ言わしていた建物です)の屋根裏の4畳半2間にまたなんと6年間も住みながら鳥小屋や母屋を作っていたために、完全にフツーの住居感覚がどこかに行ってしまったらしいのです。たくましいと言っていただければ嬉しいのですが、バカというか♪お気楽星からやって来た、といいますか、なんともかとも。

_edited_10 ある時 家はシェルターなんだということが理解できた時から強かったですね。やはり初めは鳥小屋はともかく、母屋はどうしようかと悩んでいたのです。

その時にたまたま見つけたアメリカの若者たちの生活から作っていこうぜ、みたいな文化の冊子が手に入りました。和訳もされていたアリシア・ベイローレルの「地球の上にに生きる」などの本ですね。70年代のヒッピー文化の粋を集めたような本でした。

その本はThe shelter(ザ シェルター)というのですが、家に対しての私たちの見方を180度変えてしまいました。眼からウロコがコンタクトよろしくポロリと一枚落ちたかんじでしょうか。その本には、土を家の形に盛ってコンクリートをかけて固まったら、土を搔き出してハイ出来上がりなんて「家」(おいおい)や、大木にゴムをかませて(樹は傷つけてはいけない)屋根をかけた家、はたまた最近はメジャーになってしまいましたが、当時はご冗談でしょう扱いのツリーハウスなども紹介されていました。

家や土地をともすれば「財産」扱いしてしまうわが民族の特性から離れて、家なんかしょせん雨よけだぜ、しのげればいいじゃないか、という考え方は刺激的でした。当時の私たちの生活にピッタリだったのです。そう、「家」などしょせん雨露をしのぐ装置、そう考えると気が楽になりました。コペルニクス的展開というやつですな。

_edited_11 そしてその中にログハウスもあったわけです。今やログは日本では別荘族の見栄っぱり建築に成り下がっています。バカデカイ寸法のシベリア唐松なんぞを使いおって、暖炉前でブランデーですか。

プルプル(頭を振る音)ちゃうねん。あれは、技術がない開拓者が、雨よけ、風よけのために作った建物なんです。だからそこらへんの樹を切って、皮を剥いて乾燥させて、ただ組み上げていっただけの素人建築法です。屋根すらなくて防水シートで覆っただけというものも沢山あったそうです。

当然のこととして、壁に隙間がバカバカと開きますから、空気がピュピューと抜ける。雨どころか雪も降り込む。しかし、ドンマイ、ドンマイ気にせずに苔か、粘土で塞ぐんですね。おおらかというか、オキナワ風に言うとテーゲーなもんです。他人様の家だとまずいでしょうか、なにせ自分の住む家ですから、文句いわせない、これでい~よ、です。

ローラ・インガルスワイルダーの「大草原の小さな家」を読むと最初の家は、森の中で、屋根はシート張りだったって書いてあります。その名も「開拓者のログ」というやつです。まぁ、あれですね、私たちが当初目指したものは。

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写真は上から、母屋の基礎ができたところ、次は基礎の型枠を作っているところです。

三枚目は鶏にうんしょとニンジンをやっているマダムヨーコ。

次は基礎の上に床板を支える根太を組んでいるところです。この根太組みは、さすがイイカゲンな私たちも、かなり神経を使う仕事でした。ピタッと水平が縦横に決まらないとダメです。

これが狂うと床に置いた鉛筆がコロコロ転がって、訪問者を楽しませてくれます。写真をみると、マダムヨーコがなんかハズしたみたいですね(笑)。こんな写真を出すなって後ろで怒っています。

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秘蔵写真を大公開!農場、ただ今建設中!その3 私たちは森の間借り人

Photoできたばかりのわが家です。 いやー、写真というのは撮っておくものだなぁ

ちょっと驚いたのですが、家の周りになにもない!まさに家だけですそうか、樹一本から植えたんでした。まぁ、勝手に飛んできてわが家の一員になってしまった樹もかなりあるけど。下にほぼ同じ角度と季節の今の母屋の写真を見てみましょう。今はちょっとした林の中に家があるというかんじです。

Img_0006 入植した人によく言っているのですが、入植したら、すぐに樹を植えたほうがいいよ。樹は5年間もあれば大きくなるし、10年間たったら林に戻る。

そして今は畑でも、元は林だったんだから、ちゃんと林に戻してこの土地で死のう。私たちは長い森の歴史のほんの一時の間借り人なんだ、と。

もともとなにもないニンジン畑でしたので、作物だけじゃなくて、樹を植えたり、野草(雑草と呼ぶなかれ!)を移植したりもしました。

農場に生えていて繁茂している野草のかなりは、気まぐれに私たちが掘ってきて、レジ袋で根の周りの土ごと移植したものです。今、当然のような顔してのさばっているヨメナ、カラスウリ、ドクダミなどは私たちが植えたものです。野草ガーデニングと自称しています。半ば冗談でそう称していたのですが、ガーデニングの本場のイングランドでは実際あるそうな。

_edited_14 樹すら裏山から掘ってきて移植しました。上の写真の右に見えるヤマザクラは苗木を移植したものですが、もうこんなに大きくなりました。植えた当時はほんの40㎝くらいの苗木だったのに。

上の写真はその光景です。案外樹というものは重いのです。これは軽いほうですが、生涯最も重かったのは(生涯が終わったわけじゃないけど)、沖縄のパパイヤでした。足がめり込むほどの重さでしたぞ。

さて、一番上の写真に、ジープと2トントラックが写っています。当時の農場はジープでないと入れませんでした。オンボロの中古だったので、白く塗って気取ってみました。下の写真は買ったばかりで、ふたりしてブイブイいってます。

価格ですか?たしか30万円だったっけな。ふたりの足元の土をご覧下さい。関東ローム層そのままの泥濘です。これが雨が降るともういけません。完全に田んぼ状態になりました。ジープは生活必需品だったのです。カミさんはモンペ、私はタモモヒキ(なんつう名前だ)というこの土地の労働着です。肩に手なぞ置きおってからに、今では恥ずかしくてこんな写真は撮れません(笑)。

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秘蔵写真を大公開!農場、ただ今建設中!その2 カミさんが強くなったわけ

_edited_15 なにか高いところでイキがっているのがわが女房殿のヨーコ様です。うっかり呼び捨てにしようものなら、ハリ倒されます。ちなみに、「奥さん」という表現もうっかり使うと、なにが「奥」であるのか、とまたまたハリ倒されます。

このように、凶力、もとい、強力になさしめたのがこの農場建設の時代でした。

えんえんと飽きもせずに最後は正直やや飽きたけど)8年間もやっていたもんで、私よりはるかに算術が得意なので、したがって大工もうまいということが明らかになりました。一方私といえば、初等教育に難があることがバレ、ヨーコ棟梁の言うがままに駆けまわるか、牛馬の如く力仕事をするしかないということもバレバレになってしまったのです。かくて、もともとなかった亭主の権威は、まったくゼロになったのであります(涙)。

え~、大工仕事は算術と見つけたりなのです。今、張っている倉庫の屋根、大体7、8mはありますが(人間が一番怖い高さですが)、トタンをまっすぐに張るためには、水糸という導線をまず張ります。一番端っこの垂木から「尺なん寸なん分」というふうにカネジャク(*L字型の建築用定規)で決めて、そこからピーっと糸を出していきます。そして、垂木(*写真で見て横に渡してある細い屋根材)を一間(けん)ごとに印を打ち、トタン釘を打っていくわけです。これが狂うと屋根はヨレヨレとなります。

屋根ならまだしも柱でそれをやると、端から見通すと左右に柱が楽しくスキップを踏んでいるというシュールなながめになり、失笑を買います。

ちなみに、大工仕事は江戸時代と変わらない尺貫法の世界で、センチ、メートルはまったくというほど使用されません。大体が材木が尺の寸法で切られていますから、どないもならない。このところ海の向こうから2×4(ツーバイフォー/2×6というインチ法のものもあります)という建築法も台頭してきましたが、当時は伝統的な日本大工ワールドでした。

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カミさんの写真ばかりで腹がたちますが、写しているのが私なもんで。というか貢献度が低いつうこってしょうか(またまた涙)。何をやっているかというと、鳥小屋の基礎を掘っております。写真左手ののたくっているチューブは水平を決定するための管です。ここに水を入れて左右の基準線を決定します。これが失敗すると、ピサの斜塔よろしく斜めにかしいだ小屋とい

う大笑いな建物になります。

写真に3個ほど見えるのが基礎のコンクリートブロックです。ブロックにハゴ板という柱と結合する鉄板をつけてありますこれは既製品があるのですが、当時は知らなんだので、全部手作りしちまいました。

暇といえば暇、修行と言えば修行。オレは農業をしに入ったんだぁ!などと吠えても無駄です。百姓は大工も、農産加工も、機械修理も、ギターもなんでもやるのです。

このことをパスして本職の大工に金で頼むと、あっさりと出来ますが面白くありません。なにも身につかないからです。よくこの建設のところをプロに安直に頼む人がいますが、私からみればそれは人生のキセルだぞォと思いますが。

ヨーコさんの向かって右に三角の板がありますが、これが小屋の直角を決定するバカデカイ三角定規です。後ろには巻き尺も見えます。小学校中等算数の応用ですが、実際に使うとは思わなんだ。それにしても笑顔がまぶしいですね。変な眼鏡だけど。ぶはは!

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秘蔵写真を大公開!農場、ただ今建設中!その1 懐かしのトリサマ亭

Photo_17 昔の写真が出てきました!デジタル化してお見せできるようになりました。

上の写真はこれぞ「トリサマ亭」ですぞ。

赤松の林に囲まれて、ゼッタイにガス中毒を起こすことのない換気のいい家屋(ってなもんかい)構造。ここに実に足掛け3年間暮らしておりました。

こうしてみると峠のわが家みたいで風情がありますなぁ。

遊びに来たうちの母親が、終戦直後だってもっとましだったといって涙した私たち夫婦の新婚当初の家です。風呂は当初から露天ふろ、トイレなし(おいおい)。お隣は鶏様というなかなかの暮らしぶり。

ここから、今の農場の広っぱまで通って倉庫を建て、出来上がるとモゾモゾとそこの屋根裏に住みつき、そこから鳥小屋を作り、畑や田んぼを作り、そして母屋を建てたという尺取り虫的な生育をしておりました。そのあたりは、7月11日~18日のブログ記事をご覧下さい。

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金ピカバブル時代にダッシュ村 その1 貧乏人のキャンピングカー

Img_0007 私は金ピカバブルを知らない希有なニホンジンです。世間様が新入社員研修ハワイ!億ション馬鹿売れ!などと浮かれ騒いでいる時代に、森の中で暮らし始めたからです。

沖縄に渡ったのが1982年、そして本土に帰ってきて、今の暮らしを始めて母屋が建つまでの1990年頃までが私のダッシュ村時代でした。ね、丸々バブル期と重なっているでしょう。親は泣く、親戚は笑う、友人は仙人と囃すというまこと面白い時期でありました。時あたかもバブル真っ最中に、月に5万円、生活すべて手作りという生活をしていたわけです。

この土地にやって来た時の車が左下の写真です。ホンダの箱荷台付き軽トラでした。今はひっそりと農場の入り口でゲートガードの余生を送っています。この車で生活をしながら、西は岡山、東は栃木まで渡り歩いたのです。

Img_0022_2 どうやって暮らしていたのかというと、農業用の黄色のコンテナ4個をこの箱荷台(キャビンというのもおこがましいただの箱)の四隅に置き、ひとつにはカセットコンロと鍋釜、ひとつには衣類、ひとつには本やラジカセ、ひとつには味噌醬油、米などを入れ、その上にどっこいしょとコンパネという厚手のベニヤ板を敷きます。そして、その上に敷き布団と掛け布団を置くと一丁上がり。称して、これぞまことの「貧乏人のキャンピングカー」。

これがまた、ピッタリのあつらえたようなサイズの荷台で、大人が足を伸ばしてピタッと収まるのです。寝る時は、内側からズルズル~とドアを閉めます。絶対に酸欠にはなりません。だって、隅には錆びてた穴が一杯にあって、寒風がシュルシュルと入ってきますから、安心。元は魚屋が使っていたと見えて、初めの頃には、ドアになんとか鮮魚店というロゴまで書いてあったのですが、境内の駐車場に寝泊まりしている時に朝起きると、お坊さんに仰天されたことがあって、さすがに消しました。そりゃお坊さんからすれば、なんとか鮮魚店のバンの荷台から、ふわぁ~とあくびをしながら人が出てきたら驚くわな、確かに。

この貧乏人のキャンピングカーで、色々の農場を見て回りました。一か所3泊4日程度お邪魔をして、農作業を手伝いながらお話を伺い、そして次に見たらいい農場を紹介して頂きます。そしてまたそこにガタゴトと移動するという生活でした。当時は沖縄の過酷な農業修行をした後ですから、身体は頑健そのもの、自分で言うのはなんですが、使いでのある旅人だったと思いますよ。Img_0005

長距離移動となると、さきほどのようにお寺の境内の駐車場によく泊まりました。住職にお声をかけて停めるのですか、運がいいと宿坊に泊めて頂いたことも何度かありました。そしてこころばかりの喜捨をして、また次の土地へ旅立ちます。人の情が妙に嬉しいのが旅です。

夏など、シャワーを浴びたくなると、夜に、青シートを張りめぐらし、蛇口からホースで水を掛け合いました。このホースはなかなかのスグレモノで、20メートルほどの長さで、先にコック付きのシャワー栓がついています。これに朝、水を満たして、裾を縛って、軽トラの屋根にしばりつけておくと、夕方にはしっかりと太陽熱で熱せられてお湯になるという寸法です。

シャワーを浴びたら、青シートについている紐を伸ばして、一方を車に、片方を樹に縛りつけて天幕にします。そして食事の準備。外食は金がほとんどないので、当然なし。ほんとうは焚き火でとでも言いたいところですが、実際には境内や公園の駐車場で焚き火などできるはずもなく、カセットコンロでしょぼしょぼとした煮炊きです。電気がないうえに、火がひとつしかないので、ご飯から鍋で焚きます。そしておかず、最後に味噌汁の順です。

Img_0028 別にキャンプに来たわけでもないので、調理器具は普通サイズの包丁と鍋、まな板でさっさと調理していきます。海に近い土地なら絶品のお魚が手に入り、魚屋さんにまで「おい、これで全国を回っているのか!よし、これも持ってけ」とおまけまで頂きました。またもや感激。冷蔵庫がないので、さっさとその夜と翌朝で食べきりました。今でも、魚やあらの料理はちょっとしたものですよ。このホーボー(旅人)生活で私は料理が飛躍的にうまくなってしまいました。

夏を過ぎ、秋の京都を通過したあたりから、猛烈に寒い琵琶湖の冬に遭遇しました。ハンパではない木枯らしと、時にみぞれまじりの雨です。夜には仕方がないがないので、シートで車体をくるんでいました。外から見れば、青シートにくるまった軽トラ、異様ですよね。

ここで活躍したのが湯たんぽ。湯たんぽを足元に置いて、ダウンジャケットを着て、フードを降ろして布団にくるまって寝るわけです。私たちがこの後2年間も住むことになるトリ小屋ライフにまったくめげなかったのはこんな下地があったからです。

(もしかしたら続く)

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ダッシュ村に住んでいた その2 トリ小屋の住み心地は?

Img_0002_1 さて、話を戻しましょう。この農場の中に私たちが住みついたトリサマ亭がありました。もとヤマギシ会式のトリ小屋だからカマボコ型屋根のついた長屋式の鶏舎です。屋根はスライドして開けられますが、壊れていて、いったん開けてしまうと閉まりません。まことににしまらない話しです。手作りのトリ小屋なので、まぁよくあることです。

10部屋連なっていて、その余りの11号室が私たちの部屋でした。初めの頃はその一部しか使えず、壁があるのは四畳半のみ。あとは壁のない土間が台所で、冬の間は冷蔵庫がそのまま温蔵庫になるといった、なかなかワイルドな暮らしぶりでしたが、いくらなんでもこれではということで、仲間と一緒に部屋作りに取り組みました。

Img_0004 とは言ってもその頃の私たちは、先住者たちの大工の腕前にいたく感心しながらの下働きで、たいした戦力にはならなかったと思いますが。大工のイロハはこの時に覚えました。

大工の世界が尺間法であり、センチでは使えないこと、トンカチを玄翁(げんのう)と呼ぶこと、その重さによって打つ釘の長さが違うこと。水糸の出し方、垂直の取り方・・・。これが今にして思えば、この時から10数年の長きにわたる農的大工生活の始まりでした。

全部で10坪ほどの鶏舎のひと部屋のうち、6坪分の床を作り、内装には拾ってきた白い壁紙付きの合板を張ると、これがとても鶏舎とは思えない新居になりました。カマボコ型屋根に内張りをしたわけですから、部屋は当然カーブした天井になり、気分の良い住まいでした。ちょっとスタジオ風(どこが)。

タダ同然でできた部屋ですから、いくつか難点がありました。最大の問題はともかく寒い。土間との仕切りがないので、ピューピューとすきま風が吹き込むのです。ときには雪さえも。とりあえず毛布を垂らしたのですが、いつぞや寝ている時に、夜、吹雪になったとみえて室内に粉雪が降り積もっているのです。横に寝ている連れ合いを見ると、顔に薄っすらと雪がかかり、スノーマン状態。鼻の穴から、ヒュルル~と息が漏れているのをみてほっとするやら、可笑しいやらでした。Img_0021

その年はとりわけ寒冷だったとみえて、毎日夜は平均マイナス10度以下でしたので、布団の淵は毎日凍ってバリバリ。しかたがないので、羽毛服のフードを被ったまま寝ていました。ある時、夜帰って唯一の暖房具であるコタツを開けると中から当時飼っていたサンチョが飛び出してくるという椿事もありました。コタツから飛び出した猫ならともかく犬(それもシェパード)というのは、後にも先にも、初めてでしたね。

次なる難問は、壁がペラペラのベニヤ一枚で音が筒抜けだということです。しかもこのお隣さんの朝がめっぽう早くて、寝坊ができないことでした。トリという隣人は、早寝早起きで、今時なら3時半には雄鳥の起床ラッパ、コケコッコー、ケコケコ!から始まります。それも一羽だけではなく、10数羽のオンタンが波状的にがなりやがる。こうなると、もうこちらもおちおち眠れない。こんなに朝っぱらからうるさいのは、トルコの安宿でコーランの詠唱をがなる拡声器の下の部屋に泊まった時以来です。といって、「おいこら、うるさいんだよ」と壁を叩いても虚しですね。

私たちはこのトリ小屋生活をいたく気に入っていましたが、ある時親が来て「私たちの終戦直後の焼け跡生活でも、これよりずっとマシだった」とさめざめと泣かれてしまいました。隙間風が吹き込むトリ小屋と玄米、廃鶏肉がちょびっと入っただけの野菜の煮つけが相乗効果を上げたのでしょうか。Img_0013_1おまけに、これを盛りつけた友人の陶芸家が茶色を得意の色調としていたので、食卓は渋紙色でしたからね。

そうそう思い出しました。その時に農場の連中が仲間の親を歓迎しようと、ギターと詩の夕べをやったのも逆効果だったのかもしれませんね。親は翌日農場の皆を連れて寿司に連れて行ってくれました。実は、自分がいちばん食べたかったのかもしれませんが。それからもう二度と、親は私の農場には来ませんでした。

写真は、メキシコの猫の陶器。眉がある!中段は八角堂の外観。左の樹は勝手に生えているミズナラとサクランボ。よく見て頂くと、サクランボが実っています。中段は母屋の正面にかかっているトリのワイヤーワーク。最下段は薪ストーブ。

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