ジョンの死 ・ さぁ、ロックンロールを始めるぜ!
ジョンの ハンチクなメッセージをイワシの頭のように拝む連中を心底バカだなぁとズーっ思ってきた。
ジョンはヨーコという導師のおかげで堕落をしたと私は思う。彼女が類まれなるジョンという天才に、くだらない「愛と平和」ドクマを注入した。陳腐な政治的な音楽家になってしまった。それでも聴くに値するものを作り出し続けたのは、たいしたものだ。
最後のアルバムに入っている「ウーマン」は、複雑精妙な曲だ。ギターのアルペジオはあまりに美しいし、その作曲技術で彼の最高峰のものだといわれているそうだ。しかし、曲想が陳腐だ。
冒頭に出てくるジョンの"For The Other Half Of The Sky." という台詞を聞いたとたんしらける。あとの歌詞は聞かないでよし。良く言ってノロケであり、はっきりいえば、あんたの日常生活などには関心はない。
ハウスハズバンド(実際はメイドが切り盛りしていたが)というのが、そんなにご大層なものか?
彼は、単にダコタハウスの快適な穴蔵で"Watching The Wheesl."(「世界の車輪をただ見ている」の意味)にすぎぬ。唄を歌わぬカナリアには用はない。
音楽は政治でもメッセージでもない。メッセージ性が「崇高」だからといっていい音楽ではない。逆にメッセージ性がなくともよい音楽はカバに食わせるほどある。
ジョンが唄を歌うのは本能のようなものだった。仮に罰則を与えられても彼は歌っただろう。実際、彼の死後に膨大な未編集テープが残されていた。これを公開してゼニにしてしまう遺産継承者の感性は理解を絶するが。
ジョンは死んだ。1980年12月8日。彼は遺作のジャケットにマシュルームカットで臨み(左の女をどうかしてくれ!)、そして死の当日の朝には、グリースで固めたリーゼントで決め、眼鏡もはずしていた。
まるであのハンブルク時代のように。まるで、これから女の子が騒ぐクラブに演奏しに行く時のように。
まるでこう言っているように見える。ハウスハズバンドには飽きた。さぁ、ロックンロールを始めるぜ!
5発の銃弾が命中し、80%の血を失う失血性ショックで亡くなった。その時、ジョンが収容された病院のスピーカーからはオール・マイ・ラビングが流れていたそうである。
このように書いて、ひとつ大きなことを言い残したような気がする。
ジョンのmotherだけはすごい。これはジョンと似たような境遇を少しだけ持つ私にダイレクトに響いた。この凄惨とも言える曲はThe Beatlesにいては書けなかったことは確かだ。
私はオノ・ヨーコが大嫌いだが、これを彼に書かせたのは彼女の愛であったことは確かだろう。これは渋々ながら認める。彼女は出来そこないの芸術家だが、いい女房だったのかもしれない。
・・・母さん、いかないで、父さん戻って来て!、子供たちよ、俺の過ちを繰り返さないでくれ。俺は歩きもできないくせに、走ろうとしたんだから・・・
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