ロック

ジョンの死 ・ さぁ、ロックンロールを始めるぜ!

Ee35ジョンの ハンチクなメッセージをイワシの頭のように拝む連中を心底バカだなぁとズーっ思ってきた。

ジョンはヨーコという導師のおかげで堕落をしたと私は思う。彼女が類まれなるジョンという天才に、くだらない「愛と平和」ドクマを注入した。陳腐な政治的な音楽家になってしまった。それでも聴くに値するものを作り出し続けたのは、たいしたものだ。

最後のアルバムに入っている「ウーマン」は、複雑精妙な曲だ。ギターのアルペジオはあまりに美しいし、その作曲技術で彼の最高峰のものだといわれているそうだ。しかし、曲想が陳腐だ。
冒頭に出てくるジョンの
"For The Other Half Of The Sky." という台詞を聞いたとたんしらける。あとの歌詞は聞かないでよし。良く言ってノロケであり、はっきりいえば、あんたの日常生活などには関心はない。

ハウスハズバンド(実際はメイドが切り盛りしていたが)というのが、そんなにご大層なものか?
彼は、単にダコタハウスの快適な穴蔵で
"Watching The Wheesl."(「世界の車輪をただ見ている」の意味)にすぎぬ。唄を歌わぬカナリアには用はない。

音楽は政治でもメッセージでもない。メッセージ性が「崇高」だからといっていい音楽ではない。逆にメッセージ性がなくともよい音楽はカバに食わせるほどある。

ジョンが唄を歌うのは本能のようなものだった。仮に罰則を与えられても彼は歌っただろう。実際、彼の死後に膨大な未編集テープが残されていた。これを公開してゼニにしてしまう遺産継承者の感性は理解を絶するが。

ジョンは死んだ。1980年12月8日。彼は遺作のジャケットにマシュルームカットで臨み(左の女をどうかしてくれ!)、そして死の当日の朝には、グリースで固めたリーゼントで決め、眼鏡もはずしていた。
まるであのハンブルク時代のように。まるで、これから女の子が騒ぐクラブに演奏しに行く時のように。

まるでこう言っているように見える。ハウスハズバンドには飽きた。さぁ、ロックンロールを始めるぜ!

5発の銃弾が命中し、80%の血を失う失血性ショックで亡くなった。その時、ジョンが収容された病院のスピーカーからはオール・マイ・ラビングが流れていたそうである。

このように書いて、ひとつ大きなことを言い残したような気がする。
ジョンのmotherだけはすごい。これはジョンと似たような境遇を少しだけ持つ私にダイレクトに響いた。この凄惨とも言える曲はThe Beatlesにいては書けなかったことは確かだ。

私はオノ・ヨーコが大嫌いだが、これを彼に書かせたのは彼女の愛であったことは確かだろう。これは渋々ながら認める。彼女は出来そこないの芸術家だが、いい女房だったのかもしれない。


・・・母さん、いかないで、父さん戻って来て!、子供たちよ、俺の過ちを繰り返さないでくれ。俺は歩きもできないくせに、走ろうとしたんだから・・・

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ジョンレノンという怪物がかつていた

Ee05 ジョンレノンという怪物がかつていた。10月9日が誕生日だ。

殺されて勝手に伝説となってしまったという困った男だ。

昔、彼は私のアイコンだった。

彼が「マザ~♪」と叫べば、私も「おかぁちゃん~♪」と唄い、彼が「イマージンノーカントリー♪」とやれば、私もパラレルで唄った。

とうとう女房までヨーコという名の女性をもらってしまった(名前はほんとうだが、ウソ)。

最近、なんじゃらの記念とかで、特に年末になるとやたら彼の声を街頭で聞く。アホのジョッキーが「ジョンの曲ってどれもすごいですね」などと言っていやがる。

とんでもない、彼の遺作となってしまった「ダブルファンタジー」なんぞ、全部といっていいくらい駄作だ。

私はあのアルバムを編集して、まずあのバカ女のキンキンする声をチョン切り、そのあと「ウーマン」だとかを切っていったら、あまり残らなんだ。「スターティングオーバー」でさえまぁまぁかな。

私がやたらビートルズ時代のジョンを褒める(というより崇める)わりに、ソロ時代の彼を低く見るのには理由がある。

なにより曲想がつまらない。平板で、政治的で、時として政治的ラジカルの宣伝と化している。例えば、「クロス ジ ニバース」や「リボリューション」にあった傷つきやすい青年の迷いやためらい、逡巡や内向、屈折がない。

あるのは単純化された、手垢のついたストレートの宣伝だ。その時代でしか意味を持たない政治的音楽。「パワーツーザピープル」なんか、CMで使われる始末だ。この曲はブラックパンサー党っていうとってもコワイ、超ラジカルな黒人武装運動にオマージュした曲なんだぜ。

だから「もっとみんなにパワーを」なんて訳してはいけない。レーニン(知ってる?知らなくてもいい)が言う「すべての権力を人民に!」とガチガチに訳すのが正しい。

ジョンという類まれな1世紀にひとりいるかどうかという音楽家が作ったが故に、それでも「音楽」として成立している。しかしなんの見通しもなく、「イマジン」と唄い、自らを「ドリーマー」と自称する彼に私は同情を禁じ得ない。

(続く)

■写真はジョンのリトグラフ。たぶんこっち方面でも飯が食えた。

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私は今日、キヨシローという最良の同時代人を失った

_edited_2  抜けるような青空だ。魂が吸い込まれていくような透明な空だ。

キヨシローが死んだ。私と同じ歳だった。そして、私とほぼ同じ時期に病んでいた。

放射線治療を拒否して、玄米菜食でガンとつきあっているという風の便りを聞いた時も、やっぱり奴らしいやととてもうれしかった。一抹の不安は確かにあったが。

彼の愛車チャリ「オレンジ号」を作ったフレームビルダー松永さんの店で、私もチャリを買った。彼の話をその松永さんから聞いた。沖縄へのコンサートツアーにも彼は空港まで、チャリをこいでくるのだという。そして沖縄でもそう。ツアー会場に行くと、「ボス!」と呼ぶスタッフが待っていて、天啓を受けたミュージシャンになる。コンサートが終わると、またチャリに乗って帰る。

この愛車オレンジ号でどこまでも行った。いい脚をしていた。きっとどこに行ったら楽しいのか、わくわくするのかという嗅覚がワンコロのように発達していたのだろう。だから、愛車が盗難にあった時にはうろたえた。めったに私生活を露出しないのに、この時ばかりは素のクリハラ君となってあらゆるチャンネルで「返してくれ」と訴えていた。

そうだ、かつて10代の最後の歳だったか、今はもうない山野ホールというショボイ会場で、RCサクセッションを聞いた時が初めだったっけ。「エレキが買えなくって。バンド名はある日作成しようです」とつまらない冗談を飛ばしながら、仲井戸と二人だけのアコースティクギターでガンガンに弾きまくっていて、弦が弾け飛んだ。彼は20、私は19だった。

当時まだメークアップはしていなかったし、エレキでもなかったがかんぜんにロックンロールだった。ロックはエレクトリックでやればロックなわけではない。私は長い間彼のことをポップス、現代日本が奇跡のように生んだ最高のポップスだと思っていたが、彼自身の認識は違ったようだ。彼は自分のことをブルースマンだと思っていた。

何回かRCのコンサートには行った。最後はこの茨城でのものだった。ラッパや女性ボーカルまで入った大編成で、まるでローリングサンダーレビューの頃のディランのようだった。そのバッキングを従えて、というよりそのバカデッカイ音の空間で、童子のように楽しげに舞台で遊んでいた。やはり私から見れば、ブルースマンじゃない(笑)。

ある時は演歌の坂本冬美とセッションを組み、ある時はなんとヘルメットにトラメガという懐かしき70年アンポルックで反原発の放送禁止歌を歌った。ただし政治的には無色透明だったはずだ。彼には右も左もない。ついでに立ても横もない。彼のアンテナでヤバイと思ったものに素直に、そして敏感に、笑えないジョークで応えたんだろう。

_edited_3 彼の武道館での完全復活コンサートに行きそこなったが、心から祝福した。そうか、治ったんだね、よかった。声が出るんだ、やっぱり声帯を切らなくてよかったね、と思った。

言葉がうまく出ない。医者はあのコンサートが寿命を縮めたというだろう。そうなのかもしれない。初期に外科手術をしていたら助かっていたという人もいる。

そうなのかもしれない。しかし、そう言う人は彼がロックンローラーであることを忘れている。外科手術で切り刻まれ、抗ガン剤で虚ろになり延命チューブに繫がれることを拒否した。

彼は玄米と野菜とチャリ、そして音楽で闘った。いや闘ったというのは正確ではない。ガンと一緒に生きて、奴をも仲間に引っ張りこんで、この透明な5月の空へと旅立ったのだ。「愛しているぜ、ベイビー!」と他の奴が言ったら照れるようなことを叫びながら。

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太陽光発電と農ギャル

_edited 私は実は10年以上前から太陽光発電を使っています。たぶん茨城県でのかなり最初のほうの設置例だと思います。

当時シャープの関東支社から支店長直々の陣頭指揮で、おまけに東電支店長まで見学に来るというモノモしさでした。

設置方法自体が初めてのケースだったらしく、かなり手こずっていたようです。技術畑出身だという温厚なシャープの支社長の言った「もう、シャープはもうシロモノ(冷蔵庫、洗濯機など)は作りません。液晶と太陽光に社運をかけて一本化していきます」と仰せの言葉が印象的でした。事実そのとおりになりましたね。

東電も県下で初めてのケースで、発電取り引き契約書などのフォーマットもなかったようです。うちには2ツ電気のメーターがあって、ひとつは送電網⇒自宅という普通のもの。そしてこれが珍しい自宅⇒送電網というメーターもあります。昼は送電網へクルクルとメーターが廻って電気を送電しているのが目に見えます。今でも、インバーターの上で発電メーターがクルクル廻った時の感動は忘れられません。

*私のブログ「農と島のありんくりん」の太陽光関係の旧記事


http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_afad.html
http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_7da5.html

さて、それから十余年。
完全に太陽光発電は日常です。インバーターは一回故障しましたが、シャープが無償で交換していきました。もうあることも忘れるほどの日常で発電を静かに続けています。


太陽光発電を使っての感想をいえば
①自然エネルギーの宿命として、曇りだとほとんど発電しません。雨だと完全にダメ。気象条件に大きく左右されます。ちなみに風力発電もかつてちょっとですが実験しましたが、まったくダメ。使いものになりません。大体ほとんど廻らないのだから話にならない。あれは岬の先端でブン回すもので家庭用には不向きのようです。また大型にすればしたで、プロペラの作り出す低周波公害や、野鳥にとって恐怖のギロチン装置で、かなり問題のある方法ではないでしょうか。
②わが家は早寝ですが、それでも多分半分ていどの電気自給率だと思われます。これはわが家の発電装置が旧式なためもあり、今は相当に高い発電効率を叩き出しているそうです。
③たぶん20年くらい償却にはかかります。うちのような先駆事例でもようやく6割償却といったところ。たぶんこれが最大のネックでしょう。これはグリーン助成などの国家規模での取り組みがないと、一台約300万円ではそうそう個人では手がでませんよね。
④故障はまったくといえるほどしません。構造が装置の中でシリコンを回しているだけだからです。複雑な装置ではないので頑丈そのもの。
⑤メンテもいりません。雨で埃がクリーニングされて、それでオーケーなのだからスゴイ。
⑥蓄電はできません。かつて仲間が蓄電器を自作したことがありましたが、ロスが多過ぎて失敗しました。今は技術がフォローアップして、トヨタの家庭用蓄電装置まで出来たそうです。ただ、どのような条件で使うかでしょうね。やっぱり電線がないところかな。

*トヨタのハイブリッド家庭用蓄電装置の記事http://mainichi.jp/select/biz/econavi/

今後はパネルの増設も当然の前提ですが、むしろ社会的なインフラにするために電気会社がなにを恐れているのかということです。
たとえば、東電は大規模太陽光発電をするにあたって、気象条件で発電網がブラックアウトしてしまうことを恐れたそうです。自然エネルギー特有の発電の恒常性への疑問です。
これは自分で設置するとよく実感できます。


諸外国(米国など)は、スマートグリッドという、その時の気象条件による発電量を瞬時にコントロールし、切り換える送電網(グリッド)を実用化し始めました。日本は研究さえもしていないようです。それと送電ロスを防ぐ超伝導送電線です。これはたしか住友化成が実用化しています。

このような社会的なインフラ整備がないと、なかなか次の実用段階にはいかないのかもしれません。日本は太陽光発電で少し前は世界のトップランナーだったのですが、この社会的なインフラ作りの遅れが響いて、世界3位に転落してしまいました。

_edited_3 話は変わりますが、先日ある新聞で「農ギャル」が紹介されていました。渋谷ギャルから転身だってぇ・・・!なかなかスゴイね。金髪でトラクターからイエ~ですぜ。http://mjwatch.jugem.jp/?eid=859
 

正直に言えば、私は大いに不信感がありますね。あんなのが続いたら奇跡です。
マスコミにもてはやされているうちが花です。うちの村にも都会からの若い学生グループが「学生の農業への参入」とか、「地域農業の活性化」などと言って入ってきて耕し始めました。 農家は気がいいので、行方台地の一等地を貸してあげたり、いつもは来ない学生のために日常的な作物管理をしてあげたり、宿泊の面倒をみたりしました。農家の伜もなかなか残らないような中で、やはりうれしかったのです。 私自身も微力ながら協力もしたけれど、たった1年間で、中心的なリーダー格の女の子が逃げ出してしまいました。もっと他の土地で「農業を学びたい」のですと。あまりの不誠実さに、私のほうがガックリして1週間ほどヘコんでしまいました。 彼ら学生はどこにでも逃げれても、私たち農民は逃げれない。本気じゃないのですよ。軽いんですよ。単なるノリなんですよ。失敗したら、バイバイできるんですよ・・・!


しっかりした起業意識がないのに農村にこられると、かえって迷惑です。今は大変な不景気で、農業に注目が集まっていますが、遊び気分だけで農に来られては困ります。真面目に農業をやりたい者がとばっちりを受けてしまうからです。村の人からみると、その見分けはなかなかつきませんからね。農村は都市の人の遊び場ではないのです。 今、流行の農業に来たいという若い人に、あえて、言っておきます。それなりに腹を据えて来いよ!農業は楽しいだけじゃないぞ。

■私の体験的新規就農マニュアル(6回連載)
ブログ旧i記事
http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/1_e9de.html
■私の就農体験記(7回連載) ブログ旧記事http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post_7f9f.html

■写真 わが家の太陽光発電パネルと下は建設期のわが家。私たち30代後半。金はないが、元気!

■本記事は市民エネルギー普及に尽力されている塩川富士夫様の転送フリーの情報提供を基にいたしました。感謝致します。

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ロックは無国籍ではない

Img_0037 イギリスのロックの音楽家はクイーンにしかり、パープルにしかり、ツェペリンにしかり、皆、一種のクラシックコンプレックスを抱えている。
これはしかたがないことだ。それだけの歴史の厚みがあるからな。
あるいはトラディショナルなイングランド民謡だ。ツエッペリンの大名曲「天国への階段」などは前半はもろにトラッド・イングランドフォークだろう。いきなり転調してハードロック(死語)になるところがカッコイイ。
では、日本ではなにかというと、極東の歌謡曲が磁場だ。ジャパニーズロックはみな、どこかで歌謡曲になる。
これは馬鹿にしているわけではなく、しょうがないのだよ。あのビジュアル系だって、やっているのはエレクトリック歌謡曲だからな。しかも扮装は歌舞伎だ。Img_0007
Xジャパンなどは、どう聴いてもあれは日本にしか存在しない節回しだ。トシの歌い方もどこか歌謡曲。湿っていて、繊細で情感が濃いい。
唯一、違うなと思うのはブラッキージェットシティくらいか。ブルーハーツも大好きだが、あれをパンクというにははばかれる。キヨシローをブルースマンというのも苦しい(←ガンバレ、キヨシロー、くたばるにはまだ早いぜ)。
日本のロックは「本場」の模倣から始まった。ロックンロール、ヒルビリー、ブルース、ハードロック、ポップス、みんなパクった。まるで遣唐使のようであるな。その中から、日本のロックが出来上がった。そして今やまったく別物に成長してしまった。
だから面白いのさ。ディープパープルのハイウエイスターは バロックだぜ。僕は詳しくはないが、感覚的にそう思う。あの曲をチェンバロで典雅にやったらそれなりに様になるはずだ。クラシックの音楽家に聴いてみな。ああ、耳が汚れるとかいいながら、ウンチクを垂れてくれるだろう。それをもっと分かりやすい形でやったのがクイーンだった。
Img_0022 それとね、もう一つは、ロックは今でこそそうでもなくなったが(桑田に国民栄誉賞を!)、僕のガキの頃はなんて言われていたと思う。
「楽器の使い方を知らない」なんていうのはいいほうで、「粗野だ」、「バカだ」、「低能の不良がやる音楽」だぜ。まぁ、それだけクソミソに言われりゃ栄光だがな。
ビートルズが、勲章もらったりして、Sirに列せられ、ロイヤルアルバートホールにおいて女王陛下の御前で演奏できたから、後が続いたともいえる。ロックの市民的地位の飛躍的改善さ。これをいいか、悪いかということでロック少年の間で論争があったくらいだ。否定派はみな、ストーンズに行った。僕は肯定派だったが。
こんな地場がヨーロッパ、特にイギリスには強烈にあったから当時のロックバンドは、「チクショー、俺らだってクラシックの理論のひとつくらい知ってるんだぜ」というのがあったのではないか。実際、誰かは忘れたが、パーブルか、クイーンの中の誰かはクラシック教育を受けているはずだ。うろ覚えなので、まちがったらごめん。
このようなものが一切ないのが、イギリスの対岸のアメリカのそのまた西の端のウエストコーストであるな。ロックって一見インターナショナルなようで、実は民族的なもんなんだ。無国籍の音楽などない。僕が追いかけをしていたハッピーエンドにしたって、そうだったもんな。この話しはまたそのうち。
あまりに暑いので(当地でも30度を連日超えています)、本職の農業の話をあまりしたくなくなっていて、すいません。まぁかえって、このブログの守備範囲が異常に広いことと、文体、主語がその時その時で違うことがおわかり頂けたかと思います。

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ギター談義をしたい

Img_0003_2ギター談義をしたい。
楽器はいいのを買ったほうがいい。ゼンゼン違う。

私なんぞ、最初のエレクトリックギターはトムソンなんて聞いたこともないラワンで作られたギターだった。今思うとひでぇしろもので、すぐに歪むは、反るは、すねるは。しかしなんせ、アンプまでついて(これもすげぇ代物)たしか7千円だったっけ。でも大事にしたな。毎日眼鏡のおまけの布で拭いた。


グレコのギターを高校2年だった、夏休みにバイトして買った時など至福だった。上の写真のエピュホンの赤いSGタイプで、それだけでうれしかった。タイプというくらいだからグレコは堂々とパクったのだ。今やると、訴えられます。4ツもボタンが着いてるんだぞぉ。何に使うか分かんないが。色も渋くて黒だぞぉ。ほんとうに嬉しくて毎日なぜて、弾いた。

Img_0037 アンプもティアックという国産中堅のメーカーのツインスピーカーを友人の兄貴から手に入れた。故障していたのでタダ同然に譲ってもらった。たしか50Wの出力で、がたがただったが修理して、色もペタペタとエナメルで黒に塗り替えた。すごい大音量が出て狂喜したが、すぐに父親にうるさぁ~い!と禁止されてしまった。まぁ当然である。

しかたがないので、農家の友人の納屋で思いっきり音が出せた時は、ああこれで死んでもいいとすら思った。あの時のギャ~ウ~ン!というエレクトリックギターの雄叫びは今でも耳に残っている。納屋の60Wの裸電球はアンプを使うとふっと薄暗くなった。なんだべぇと友人の父親が飛んできた。

このグレコ嬢は毎日枕元に置いて寝た。ある意味ガールフレンドより大事だったかもしれない。この17の私が、もしグレコが人格をもっていたら、結婚したいと言ったろう。永遠の愛を誓ってしまう。そんなかんじ分かるだろうか。好きで好きでたまらなかった。

藤沢の歯医者の息子(脱走委員会の奴だ)など、ほんとうに「スージー」なんて名前をつけおった。なんつう、こっぱずかしい感覚だ。そして演奏の前にはギターにキスをするのだぁ。ウゲゲ~。気分はわからんではないが、フツーそこまでやるか。私のグレコ嬢は幾度にもわたる引っ越しの中で生き別れになってしまったが、この歯医者の伜は、近年会った時にもいまでもスージーは床の間に飾ってあると言っていた。嘘だろう!しかし、あいつは私と違って、生まれてから今まで自宅から一歩も動かないから、ありかもしれない。

さて、あせってグレコさんと結婚すると、後で後悔するはめになるだろう。上には上がわんさか素晴らしいギターがあるのだ。

Img_0035_2 グレコを買った半年後、 藤沢の楽器屋で飾ってあるフェンダーを見つけてしまったのが、私の不幸の始まりだった。

なんていうのか、街でとてつもない美少女に出会ってしまったってかんじかな。映画「ニューシネマパラダイス」でシチリアに北部から来た金髪の少女が突然現れたという気分だろうか。

もう一目惚れ状態たぶん私はヨダレを垂らしていたであろう。ああ、グレコにあせってプロポーズしなくてよかった。こりゃ、グレコの比じゃない。グレコがモー娘の誰かだとすればフェンダーは蒼井優であるな。もっとも、彼女はマーチンのタイプだが(これについては異論あり。いや、テレキャスだという友人もいます)。

で、店の親父にすがりついて、触らせてもらった。テレキャス(テレキャスター)だったが、そのズシッとした重さ、そしてラージヘッドのカッコよさ、大人になったら初ボーナスをはたいてでも買おうと思った(←買えない)。ガキの頃に大人になっからコロッケと魚肉ソーセージを山盛りで喰うぞってなもんだ。

色は確か渋いトーンのチャウダーホワイトだったかな。今思うと、母親をだまくらかしても買っておけばよかった。今持っていたら、50万でも買えないんじゃないか。ちなみに当時でも10万を超えた。初任給が1万円前後の時代にだ。だから、今の貨幣価値で換算すると、軽く100万を超えてしまう、ギョ!

だから、ザ、フーや、ジミヘン、近年ではクラッシュがステージでギターを壊すのを見ると怒りで震えた。いかに神様仏様ジミヘン様だろうと、許し難い暴挙である。恋人を衆人環視の中で自ら殺すようなものではないか!

私は壊すギターはすり替えだと思いたかったが、後に詳細に映像を見るとホントにやっていやがる。悪い意味でクレージーだよ。どうして愛器を壊せるんだ。あんなことをしたからオーバードラッグになるのだ、まったくもう。無駄死をしおって。彼のエレックトリック・レディランドやウッドストックの歴史的演奏など、今聴いても鳥肌が立つ。生きていたら、クラプトンみたいに渋いギターリストになったのだろうに。Img_0017

毎日最長で5時間弾いたが、いっかなうまくならなかった。これは拓郎がオールナイトニッポン(今や伝説だろ)で、誰かの質問に答えて、一日5時間、それを1週間やってダメなら、タンバリンにしなという厳しいお言葉をまねしたのだ。
1週間、きつかった。指は切れるし、最後のほうはハシを握るのも痛いくらいだった。 だから奥さんをくどく時にギターを使えなかった。今に至るも彼女は私がギターを弾けないと思っている。人生とはそんなものである(おいおい、いきなり悟るなよ)。



で、私はタンバリン奏者に転向したというわけだ(笑)。
あれ以来、私はギターコンプレックスでね、秘密だが。まじに20年間くらい触っていなかったんだ。

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拓郎さん

Img_0006  ちょっと前にギターの練習を10数年ぶりに復活した。愕然とするくらいに指が動かない。中指が特に伸びない、クッソーと伸ばすと、翌日痛い。トホホである。ベソをかく。

 高1の時に、アコースティックギターを買った。いや、当時の表現でいえばフォークギターか。背伸びをしてヤマハを買った。たしか7千円だったかしら。当時の私には充分に大枚であった。

 私はこのギターという新兵器で、当時のアイドル、吉田拓郎をフォローアップしようと試みた。当時、拓郎さんはもてまくりのシンガーソングライター(死語)で、確実にキムタクよりギターと歌がうまかった。

 またしなやかな長髪もステキで、耳にかかる髪を叱られていた私たち田舎の男子生徒は、公式見解としては「なんだタクローくたばれ、幼稚な歌。単純なコード」といいつつ、内心は泣きながら、「うらやましいゾ、悔しいからパクってやるゾ。ガッコを出たら髪伸ばすゾ」という二律背反に悶々としていたのである。

 要するに、もてたかったのだ。その一心だった。ロッカーの皆さんで、その初心のモテたいという心がなかったら、そのほうが異常だ。だって、ロックとは、自己表現以前に、モテたいからやるのだ。それから、自己表現とやらというジャングルに分け入っていく。逆ではない。今の私風に言えば、ロックとは、君と私、男と女という「対関係の中でこそもっとも輝く音楽」なのである。

 Img_0011 拓郎さんとは、高校を出てから日比谷野音(ヤオンと呼ぶ)のロックフェスのローダー(器材を設置する下働き労働者のようなもの)をかって出た時に、直に接した。彼は当時の左翼インテリ的な反戦フォーク(←なんてものがあったのだよ)にまっこうから楯突いていた。

 当時私はバリバリのレフトウイングであったが、なぜかあの愚民的な反戦フォークとやらが大嫌いだった。猫なで声で♪エイチャンの家にジェット機が落ちたら~などと唄われると、背筋に寒イボができた。聴くほうが低いレベルだろうとはじめから想定して作っている根性がイヤダ。頭のいい私たちが、意識の低い君らに、社会の誤りを絵解きしてあげますよ、という姿勢がたまらなかった。そもそも、音楽的につまらないのだからしょうもない。

 同時期、ピートシーガーを聴くが、彼の音楽の持つ突き抜 けた明るさ、メーセージの透徹した強さに打たれた。彼は、ギター一本で、30年代の荒廃したアメリカを歩き回った。貧窮した労働組合のスト現場でも唄った。報酬はスープとパンだけだとしても。日本の三番煎の出がらしとは、シンガーとしての腰の据え方が違う。「格」が違うとしかいいようがない。

 拓郎さんは社会的な人気とはまったく反対に、フォークの世界では栄光の異端だった。当時岡林信康などの関西フォークが主流だった中で、孤立して吠えていた。

 生身の若者の、うまく表現できないいらだちや、悔しさや、恋人がいるうれしさや、恋をうしなった哀しさや、語る友がいることの歓びや、自分のだらしなさを誠実に歌にした。写実的といってもいいくらいだ。Img_0027

 彼の資質で一番すごいのは、直球勝負ということではないのか。普通の生半可なシンガーは、背伸びしてフィルターをかける。自分を直視させないためのフィルターだ。それの多くは歌詞の中に隠されている。拓郎さんは、その無意識の自己規制をはずしてしまった。

 だから、湘南地帯の高校生からみると、ガッコで仲間と話す時には「拓郎はヤボイんじゃない。子供の歌詞でしょう」とかいいながら、家に帰ると彼のレコード(アナログのバカデカイ33回転の奴である)をかけ、「いいなぁ、わかるなぁ」と泣き、彼のオールナイトニッポンを常連で聞き、投書までした。一度彼に読まれたことがあり、ラジオに向かってバンザイ~と叫んだ。

 そして翌日に仲間と会えば、しゃらとして「ツェペリンの3枚目聴いた?がっかりだね。やっぱ、ジェスロータルかな」などと言っていた。われながら、実に可愛いものである(←笑うな)。お笑いだが、高校生にも高校生なりの見栄というものがあるのだよ。いや、当時ほど、知的、感性的な見栄っぱりの時期はなかった。

 さて、拓郎さんは、軽いアイドルどころか、骨があるシンガーだった。岡林が、♪私たちの望むものは与えられることではなく、奪い取ることなのだぁ~、と歌えば、拓郎さんは、♪僕の髪が肩まで伸びて、君と一緒になったら、結婚しようよ、と歌った。

 Img_0034 野音でこれを歌うと、反戦フォーク派から、「ナンセンス!ナンセンス!」の罵倒と共に空缶を投げられた。その一発が彼に当たった。すると彼は、歌を唄うのを止め、そのバカヤローに投げ返した。これを合図にして反戦フォーク派が、壇上に突進してきたので、私たちローダーが容赦なく壇の下に蹴落とした。今日びのコンサートではなかなか見れない風景ではないかと思う。

 私たちコンサートの下層労働者に対してもきさくに声をかけてくれ、終わった後に車座になって酒を呑む機会もあった。広島弁丸出しで気取らなかった。男気がある人で、独特のユーモアがあり、私たちは終始、笑いぱなしだった。女より、男に好かれるタイプだった。坂本龍馬にライブで接すれば、彼のようなタイプかと思う。

 一方、岡林の歌は、残らなかった。彼は繊細だった。批判にも弱く、断ることもできなかった。だから、当時の青年の反逆心を代弁しただけに終わった。彼は当時の若者の「依代」(よりしろ)だったことに、自分が耐えられなかった。しかも、コンサートの後で、拓郎組は酒宴だったが、岡林は労音のコンサートでは、かならず総括会議をやらされてボロボロになったそうだ。気の毒に。

 そして、そんな象徴になるのが嫌になり、一時京都の郊外で百姓になってしまった。去年、ひさしぶりに野音でコンサートをした。いい感じで気負いや、理念が消えていた。彼も苦労したのだろう。

写真は、農場音楽室である八角堂の内部。何本かのギター。ガレージライブハウスでの演奏風景。

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