第3世界と日本

パキスタン奥地の山賊村に行ったことがある

800pxlandslide_2 かなり前のことになりますが、カラコルム・ハイウェイを東トルキスタン(ウイグル)のウルムチから、クンジュラブ峠を超えて、パキスタンのイスラマバードまでバスで尻にタコをつくりながら走ったことがあります。

ハイウェイといっても、これをよもや高速道路などと思う方はいないと思いますが、そりゃあ見事なまでのボロ道です。そうそう、カラコルム・ハイウェイなんて名よりシルクロード南路といったほうが風情があるかしら。

上の写真は道を修繕しているところですが、だいたい数キロに一カ所は崩落しています。道の下の谷川にトラックの残骸が赤さびて車輪を天に踏ん張っている姿を見るのは、なかなかのものです。

前方を行くバスがものの見事に左車輪を落として、そのままつんのめるようにして車体を半分谷川に落としました。谷に落ちるバスなんて非日常の光景はめったに見られるもんじゃありません。

落ちた拍子にバスの屋根にくくりつけてあった黒山羊が、ロープ一本で転げ落ちるし、ジタバタとうるさいこと。
この時
には幸いに、屋根に乗る人がいなかったのでよかったのですが、インドやパキスタンあたりのバスでは、冗談かほんとうか「ルーフ」というチケットがあって、屋根にしがみついている奴もいるんです。とうぜん、こんな状況だと谷底まっしぐらでしょうな。

419pxkkhそのときは、バスの後ろの窓からワラワラと人が脱出てきて、道端に座ってタバコなど吸っています。さほど悲壮感がないのがすごいといえばすごい。

後続のバスの私たちも知らんぷりもできないし、第一道がふさがれてしまっています。そこで、全員が降りて、バスに積んであったロープでヨッコラショと引きずり上げました。バスを引き上げる途中、黒山羊の野郎がベェ~ベェー、ジタバタとパニくりやがるので、そのつどバスのバランスが崩れます。

引き上げる音頭取り役のバスの運転手が、ヤバクなったらロープをパッね、みたいなことを手真似で伝えます。そりゃそうだ、ボロバスと一緒に谷底へさよーならではしまらない。

それでもなんとか小一時間で引き上げ、パキスタン人もフランス人もオージーも、そして日本人も皆隣の奴とガハハっと握手。そして何事もなかったかのようにギルギットまでの旅が再び続くのです。

ギルギットからイスラマバードまでは、一国の首都への道だと言うのに非常にヤバイ地域となります。
ギルギットからは一般のバスではなく、ガイドがついたミニバスになりました。ガイドが付かないと、外国人は行っちゃいけないんだと言われたのです。余分のガイド料が加算されるので参るのですが、なぜかはすぐにわかることになります。

街道の途中の谷間の小さな集落があります。チャイ屋と飯屋を兼ねたような蹴飛ばせばガラゴロンと谷底に落ちていくような店があって、さて一服ということになりました。
実は、ガイドはやめようと言い張ったのですが、外国人勢が、なぁに言ってんだか、いい景色じゃないか。ケツが痛いし、ショベンしたい、とわがままを言って止めてしまったのです。

降りた私たち外国人がチャイを飲んでいる横で、ガイドが店の親父としきりに交渉らしきことをしています。

私は一服終わって、さぁて出発しますかと、なにげなくそのチャイ屋の店の奥を見るともなく見てしまったのです。てらてらと黒く光るAK47自動小銃が数丁、さりげなく店の裏にたてかけてあるのです。スキやクワのようにさりげなく置いてあるのがかえって、こわい。

2008082700000043yomintthum000そして、今まで人のよさそうな笑みを浮かべていたチャイ屋の親父、その隣の息子、そして老人らしき三人が、ガイドとなにやら激しくやり合っています。
カラシニコフを見てしまった後は、ゾッとしました。すると、ガイドは札を手づかみにするような勢いでチャイ屋の親父に握らせると、もう私たちの尻を蹴り飛ばさんばかりの勢いで、「さっさとバスに乗れ、置いていくぞ!」と叫びましす。こういう時のブロークン・イングリッシュは絶対に通じるから不思議。

その村から離れてしばらくして、ガイドは私たち外国人にこう言いました。
「あの村は山賊、バンデットの村だ。馬鹿野郎!だから俺はよせと行ったじゃないか。通行料を寄越せといいやがった。
同族のオレがいたからいいようなものを、お前らがあいつらに捕まると身ぐるみはがれて、谷底に捨てられるんだぞ。いったん殺されたら、行方不明で終わりだ。さぁさぁ、俺がやつらに渡した通行料を徴収するぞ!割り増しだ!」

村ごと山賊、バンデット、当地の言い方でダコイトは珍しくないそうです。私がびっくりしたカラシニコフにしても、結婚式の祝砲でバリバリ撃ちまくり、流れ弾で花婿ケガ人というのですら、まぁお察しください。

アフガニスタンは指呼の距離にありました。部族的にもパシュトゥン族は、国境を超えてパキスタンとアフガニスタンに分かれて住んでいます。国境はイギリス人が勝手に引いたものですから。

偏見と言われるかもしれませんが、私は日本人ともっとも遠い国は、このようなパキスタン北部やアフガニスタンのムスリムではないかと思います。このアフガニスタンで゛農業指導に取り組み、タリバンにより殺された「ペシャワールの会」の伊藤さんの遺影をアップします。「ペシャワールの会」は、タリバン支持をはっきりとさせていたNGOです。

このような国に職業援助といって4500億円も出す為政者の気がしれません。

■写真は、伊藤氏の遺影以外Wikipediaより引用。

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エンザロ村のかまど                      ひとつのカマドからほぐれていく難問の糸玉

_edited スワヒリ語でエンザロ・ジコ、エンザロ型かまどはものすごい勢いでケニアに拡がっていきました。今や数年前の調査(2007年1月産経新聞の調査)でなんと10万所帯です。それどころか、国境を超えてマリやニジェール、ブルキナファソ、ルアンダ、タンザニアでも作られ始めているそうです。

岸田さんがJICAに所属する栄養学者だったためもあり、JICAのプロジェクトによって、今度は大陸を超えて中南米のメキシコ、ボリビアにも伝えられました。

このエンザロ村のかまどは、主婦にとって大きな意味をもっていました。なにせ薪の使用量がわずか4分の1になっちゃうんです!これは大きい。私も入植した当座は薪ストーブと薪の風呂でしたので実感が分かります。毎日煮炊きに必要な薪を集めるというのは、かなり時間をくう仕事です。林に入って落ちた枝を拾ったり、私たちの場合はソッペといって製材屑をもらってきました。

そしてこれを鉈で割って使える長さに揃えるんですが、ズーンと腰に来ます。一年に何回かのキャンプならともかく、毎日の仕事ともなると、正直言ってプロパンガスに変わった時にはホッとしたもんです。

Photo 農村のお年寄りの女性になぜ腰が曲がっている方が多いのでしょう。もちろん農作業で中腰を強制されるということが最大の理由ですが、それだけではなく煮炊きやお風呂に使う薪作りにもあったようです。

この薪の使用量が4分の1になるということが、どれほどケニアの女性にとってすごいことだったのかご想像下さい。そしてこれは、人口増加による村周辺の森の乱伐にも歯止めをかけました。

今までアフリカの砂漠化の原因のひとつにあげられていたのは、絶え間のない人口増加、家畜の増加、それによる森の乱伐でした。これをくい止めるのに、ただ人々に「砂漠化をくい止めよう」などとのたまうてみても無駄です。なんせ皆、生活かかってますから、子供多いですから、食い物足りないですから。

_edited_2 子供が多いことのひとつは、哀しいことですが乳幼児死亡率が高いため多くの子供を出産してしまうことにありました。仮に10人の乳幼児のうち3人しか育たなかったとしたら、どうします。その分多く生んでしまうかもしれません。

実際、エンザロ村でも、ジコが普及する前には7人のうち1人が乳幼児の頃に亡くなっていたのです。それがこの5年間で、135人の赤子が生れ、わずか1名の死亡しか出ませんでした。

また、子供が多いために教育が満足に受けさせられず、少年期から厳しい労働が課せられてしまいます。ありとあらゆるアジア、アフリカに蔓延する忌まわしい少年労働は、決して宿命ではありません。

子供を適正な数にするためには、乳幼児死亡率を下げることがまず大事だったのです。このエンザロ村でも今まで家畜の糞尿で汚染されていたり、上流で感染症が起きている水を飲ませざるをえなかったために多くの乳幼児が死亡していたのでした。それがこのエンザロ・ジコによって、いつでも子供に煮沸した湯ざましを与えられるようになって、幼児死亡率が激減しました。すごいことです。ほんとうにうれしいことです。多くのお母さんの涙に終わる日がやって来たのです。

_edited_3 そして今では、薪取りや裸火で大変な思いをしていた女性が、その分の時間で畑を作ったり、家族の世話にかけたりすることが出来るようになりました。エンザロ村では実際、このジコが普及して農業生産も伸びていったといいます。それに連れて女性の地位も向上しました。

このようにしてたったひとつの日本の農村から持ち込まれた「顔のある技術」は、ひとつずつこじれた糸玉をほぐすようにしてアフリカの難しい問題を解決していっています。

第3世界援助には多くの解決方法があると思います。私ならばやはり有機農業や平飼養鶏を役立てたいし、ある人は樹を植えることから始めたいと思うかもしれません。木工や織物を教えたい人もいるでしょう。小規模の魚の養殖と村の糞尿処理を結びつけた循環システムを実験している人もいます。

そしてその時に大事なことのすべては、このエンザロ村の体験の中に詰まっていると私は思うのです。

□ 挿絵は「エンザロ村のかまど」さくまゆみ 沢田としき(福音館)から引用いたしました。このバナナを村人から贈られているのが岸田袈裟子さんです。かまどの写真はウイキペディアから引用いたしました。ありがとうございました。

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エンザロ村のかまど  顔のある技術

_edited_3 江戸時代は日本農業にとって大いなる蓄積の時代でした。各地で農書と呼ばれる農業技術書が編まれました。「百姓伝記」や会津農書などが、民間の力で津々浦々に作られ、伝承されていきました。

これらの日本人の誇るべき遺産は農文協の農書シリーズで読むことができます。驚くほどきめ細かな自然や作物、そして人への観察で満ちあふれています。世界の中で、農家が自らの観察や計測、そこから編み出された技術について書き残し、膨大な技術書の山脈を作り上げたというのは希有の例ではなかったのかと思います。

農書を読んで感じることは、人格と技術を切り離して考えていないということです。技術は技術であって、それが一人歩きするということはまったく視野の外にありました。ごくあたりまえのようにして、農を営む「人」と、「自然」、そして「技術」はひとつのものとしてありました。私はこれを「顔をもった技術」と呼びたいと思います。

_edited_2 たとえば、農書の中の重要な一項目には治水が含まれています。平時には、豊かな流れから水を田に導き入れ、、水車で精米し、川舟で集散地まで運ぶ。大水の時には、荒れ狂う川の流れをどのようにして受けとめて被害を出さないようにするのか、急流と共に生きてきた日本人にとって死活の問題でした。

この川と共に生きる日本人の有り様は、富山和子さんの名著「川は生きている」に詳しく書かれています。あ、一度この本のコメンタールを作ろうとして挫折してましたね。

甲斐の国の農書などには、様々な溢れ出る川のエネルギーを逃がす方法が述べられています。霞堤は左図(「川は生きている」富山和子より)のように、一度に大水を受けとめるのではなく、幾つか斜めの堤防で分散して受け流して付近の水田に導くように出来ています。

これは上流で高い堤を作ってしまうと、下流で大水のエネルギーがそのまま増大したまま溢れ出してしまい、被害をいっそう大きくしてしまう教訓によっています。

つまり、真正面から自然と争うのではなく、受け流すことを大事に考える知恵です。また、自分の地域だけを守れればいいと考えるのではなく、川とその流域をひとつの生きもののようにとらえて、それを利用し、暴れれば受け流し、時には戯れて生活する「顔を持った技術」です。

人類は20世紀において科学技術を制御することに失敗しかかってきました。それは戦争や自然破壊の惨状をみれば明らかなことです。21世紀初頭は、それからの修復と再生の時代です。この時期必要なものは、人の顔を持った技術の確かさではないでしょうか。

エンザロ村のかまどは、日本でいったん昭和30年代になくなった農村のかまどが、時と所を変えてケニアの農村でしっかりと生き返り、根を張って人の役に立っていく物語なのです。

■写真 霞ヶ浦の朝5時頃の風景。

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エンザロ村のかまど  自分で作ってみよう

Photo エンザロ・ジコ、エンザロ村のかまどを前に村人が自慢大会をしています。

ある人は焚き火がおちないようにちいさな台をつくりつけました。ある人は、ジコの横に調理台もつけてしまいました。まるでシステムキッチンみたいですね。薬草を煎じて子供の皮膚病が治ったと喜んでいます。

素朴な質問ですが、なぜ、こんな改良ができてしまうんでしょうか?それは実は大変重要なことなのです。このジコ、かまどは自分たちで作っているからです。なーんだと思われるかもしれませんが、ここが大事。

_edited このプロジェクトは、日本人が初めの一基めは作ってみせますが、2番めからは手を出しません。実は日本人が現地の人をスタッフにしてつくっちゃったほうか早いのです。しかし、急がば回れではありませんが、そんなことをしてしまったら、このジコはどんな仕組みになっているのか、どうやって作るのかがエンザロ村の人に理解できないでしょう。

岸田袈裟子さんたちは、そのためにジコ作りのためのの講習会から始めました。村の学校の教室で、村人を集めて黒板に図を書き、丁寧に教えていきます。そして村の人皆んなの協力で、作りはじめたのです。老いも若きも、男も女も土を練り、レンガを積んでカマドを作り上げていきました。

自分たちで作ってみる、こうすることでほんとうに自分のものにすることができます。やってみないとカマドの仕組みがわかりません。やってみてどうして火が無駄にならないのか、どうしてカマドがこの高さなのかが理解できたのです。

また作り方を皆んなで勉強することで、一部の人がその知識を独占してしまうことを防げます。一人の人だけに伝授してしまうと、教える方は気楽なのですが、その人だけのものになっててまって、その人が他の村人に教えない場合、技術が途切れたり、ひどい時にはいさかいの種になったりする場合すらありました。

こうすることで、日本の農村で生れた竈ははじめてエンザロ・ジコとなってケニアの地に根付いたのでした。

■ 挿絵は今回のシリーズで取り上げさせて頂きました「エンザロ村のかまど」(福音館)から引用いたしました。ありがとうございました。素晴らしい本です。手にとってお読みいただくことをお勧めします。

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エンザロ村のかまど 村に豊富にある原材料を用い、村人が自分で作れて、そして自分で修理できる

_edited ようやく、エンザロ村に戻ってきました。

私のブログも因果なもので、ミツバチを話始めるとウルムチのジェノサイド事件(*そのように呼んでもかまわないと思います。ラビアさんが来日されたご報告は後日いたします))が起き、これでははならじと気を取り直してエンザロ村のかまどをのどかに書いていると、今度は民主党が超大型バクダンである日米FTA「推進}などということを口走るというわけで、毎度の事ながら尻切れトンボ記事が増えて困ってしまいます。

さて、エンザロ村の支援活動がどうして成功したのかは、私のような入植組にはなんとなくわかります。ひとことで新規就農といっても、全部バッチリ揃えてトラクターはあるわ、家はあるわで農業に入ってくるという人もあれば、私たちのように空ッけつの身体ひとつで入ってくる者もいます(←ひがみだよぉ)。よく私たちが自嘲半分、自慢半分でいうところの「金なし、土地なし、技術なし、かといって帰りたくもなし」です。

土地は別にして、この「金なし、技術なし」というかつての私たちの生活は、第三世界援助を考えていく上で、理屈ではなくて肌で理解できる部分がありました。かつての農村に来たばかりの私たちは、農業機械とてなく、やっと共同で耕運機を買い、あげく深田でぶっ壊して仲違いをするという馬鹿なことをやっていました。

Img_0015_2 これと同じことが第三世界援助でもいえます。まず金が潤沢にないほうがいい。いえ、あるに越したことはないですが、ありすぎるとよからぬことを考えます。悪心芽ばえるということではなく、金があるとつい日本人は「いいモノ」を買ってしまうからです。

いいモノとはハイテクがぎっしり詰まった器材や器械類、施設のことです。水力発電の支援が失敗したのは、「いいモノ」だったからです。日本で使うようなデリケートな電子部品が使われており、それが故障すれば機能しなくなりました。ここが日本ではないことを、どこかで忘れていたのです。

日本人の欠点というとちょっと違う気もしますが、いわば特徴は、世界が皆日本と同じだとなんとなく思っている、ことです。そんなことが違うというのは、ザックひとつ肩に担いでこの国を出て、歩き回ってみればすぐにでもわかることです。人類皆兄姉、地球市民だなどと簡単に言われると、おいおいと言いたくなります。まずは相互の違いを肌で分かり、そこから出発せねば、よき理想すべて空語です。

それはさておき、援助したものがどうやって根付くかというその土地の尺度がない援助は必ず失敗するようです。たとえば、もし農業の感慨用エンジンが必要ならば、それが四気筒よりも、簡単な知識で分解できて修理がきく二気筒エンジンがより良いでしょう。それも現代の電子点火するものではなく、一時代前の村の農機具屋の倉庫でほこりをかぶっているようなローテクがいいと思います。

Img_0018 さらには、その村の外部から金を出してガソリンやオイルを買うのではなく、手や脚、家畜の力で動かせたり、川の水を使ったりして回せるような器材がグッドです。それなら壊れても、自分で修理できますらね。

電気で動くものなどは、私から見れば論外です。水力発電のケースは、電気を作るということがテーマになってしまったための失敗という側面もあります。電気などという「高級品」は、援助の段階のずっと後で出てくるもので、最初に持ち出すべきことではありません。

その土地でいくらでも豊富に採れるタダ同然の原材料を用いて、村人が自分の力で作れて、壊れても簡単に修理が出来るようなものがいいのです。

(また民主党が変なことを言い出さない限り続く)

■写真上から、カラスウリの葉。まるでアイビーみたいでしょう。アイビーは花が咲きませんが、カラスウリは美しい花と赤い実をつけます。中は月見草。開花前はこんな可憐なうすもも色です。下ですが、これは難題でした。正解はキンミズヒキです。

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エンザロ村のかまど 消えてしまった電気の灯

_edited_5 葦原微風様、コメントありがとうございます!え~、その方の名前や職業なども書ければいいのですが、なかなか難しいのです。というのは、どうしてもこのエンザロ村の場合と対比させた、ある種の失敗のケーススタディという書き方になってしまうからです。悪い例として挙げるのは、そのお気持が素晴らしいだけに、場所その他をぼやかしたり、やや変えて描かざるを得ませんでした。ご了承くださいね。

では、話を続けるとしましょう。水力発電器は、その方が再訪した時には、壊れて使いものになっていませんでした。設置して半年は順調に稼働して、村の子供たちがその電球の回りに集まって、本を読んだり、絵を描いたりすることができるようになりました。台所にも延長してお母さんの炊事がとても楽になりました。

しかしある嵐の日、大水が出て急流となって谷を奔りました。水力発電器は水流でプロペラ(回転羽根)を回して、それをタービンを回して発電する仕組みですが、突然に来る急流の時には、プロペラが流れを受け流すようになるはずでした。しかし、非常に強い流れだったために、設計以上の負荷がかかってプロペラが飛んで流されてしまいました。

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村人は子供まで一緒になって一生懸命探したのですが 、出てきません。プロペラをブリキを切って叩いて作ってみたりしたのですが、うまく回りません。また、このプロペラをコントロールするために小さな電子部品が使われていました。日本では村の自動車整備工場で手に入るような簡単なものです。しかし、この地ではどうにもなりませんでした。

そしてもっと悪いことには、やがて村人の中に電気を設置してもらった村長を批判する者が現れてきたことです。うまくいっている時には自分の子供も「村長の電灯」で照らされていたはずなのに、こんなことになるとそのような人が必ず現れるのは古今東西を問いません。

結局、村長も村での諍いを避けるために水力発電の器械を納屋に仕舞い込んでしまいました。谷から延びる電線は、メンテナンスをしていなかったのでたちまち各所で寸断されてしまいました。子供たちは、朝は早くから陽がでている間は忙しく親の仕事を手伝い、夕食後の一時の楽しみだった電球の下で集まって絵本を読む楽しみを奪われてしまったのでした。お母さんの台所仕事もまた、ランプひとつの闇の中に戻ってしまいました。

実は私はこの話の続きを知りません。ひょっとすると、もう一度再建されたのかもしれないし、違うかもしれません。しかし、この話はいくつかの第3世界援助の教訓を教えています。次回それをお話します。

(続く)

■写真 カンボジアの蓮(もちろん模造ですよ)の池と僧院遺跡の僧侶。

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エンザロ村のかまど  谷間の村に電気を灯す

_edited このアジアの山中の村に電気を灯したい、そう考えたのは、何回かトレッキングの途中にその村に寄ってお世話になったからでした。

彼は数年に一回トレッキングをするのが生き甲斐で、てくてくと山歩きをしては、その村の村長のお宅に泊めてもらっていたのでした。そしてある時、彼がお土産で持ってきた絵本を子供がランプの乏しい光でかざすように嬉しげに読んでいるのを見て、そうだこの子供たちのために電気を点けようと思い立ったのだそうです。そうすれば、真っ暗の台所の土間で料理をしているお母さんも嬉しかろう、と。

そう思い立った彼は、仲間と語らって考えを巡らしました。まずどうやって発電するかです。下の町から電線を引くのは論外。百キロ以上ある上に途中が険しい山道です。どれだけのコストがかかるか分かったものじゃありません。

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で、お次の案は自家発電機でしたが、これは大き過ぎるし、油などの維持費がかかります。これもボツ。太陽光パネルは蓄電装置が大がかりになります。そんなこんなで、結局、その村のそばにある急流を利用する水力発電はどうだということに衆議一決しました。

水力発電といっても谷間の急流に設置するいたって小規模な装置です。これなら分解して搬入も楽だし、金額的にもなんとかなりそうでした。谷間の急流から数百m電線を引けばいいだけです。それからすったもんだ数年がかりで、国内の発電機メーカーにあたって協賛を得て、マスコミを通じて支援を呼びかけて多くの温かい善意の支援にも恵まれました。 そしていよいよ現地搬入と設置です。村人と共に原生林を拓き、電柱を立て、立てられないところは竹に通してつなげました。最初のぼわーととぼけたような電球が点いた時に、それは灯台のように周囲を明るく染めました。彼と仲間は、どうして涙がこんなに出るのか分からないほど、泣けたそうです。

ここまでは実にいい話です。「地球家族」のようなテレビ番組があったら、ここでエンドロールが出てお終いでしょうが、続きがありました。

数年後、この山間の村に行った彼は、まったく動いていない発電機に再会することになったのです。

(続く)

■写真 ベトナムの小学生と働き者の娘さん。

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エンザロ村のかまど                      発展途上国の支援は思ったより難しい

_edited_3 発展途上国の支援といっても幾通りもあります。小学校を作ったり、本を送ったりする教育関係の支援もあれば、私がやりたかった(今後もチャンスがあればと思っていますが)農業支援もあります。

エンザロ村のケースは30年前からケニアに住んでいる岸田袈裟子さんという女性が、1991年から始めたものです。

実をいうと支援というのは大変に難しいのです。先進国の人間は、つい自分たちの生活の価値観で推し量ってしまいがちです。電気がないのをみれば心が痛み、12、3歳の子供の少年労働をみると涙が溢れます。小学校にもいかず、炎天で絵葉書を売る少女を見ると、全部買ってあげたくなります。

それは人としてまっとうな、あまりにまっとうなことなのですが、しかし、それが果たして現地の人のためになるのかとなると、また別な問題なのです。

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発展途上国で物乞いをする子供は、よく見かける風景です。その子供に小銭を与えたくなるでしょう。あるいは、無関心を装って「見えないふり」をするかです。しかし、どこかであなたは自分の豊かさに対するやましさのようなものを感じたはずです。

では、その子たちに小銭を与えるとします。子供はあんがい軽くお礼を言いどこかに行ってしまうかもしれません。そして、その代わりに別の子供の大群がケーキに群がる蟻のように押し寄せてきます。

小銭は夕方にでもなると、その子の親が巻き上げ、親父の酒代に変わるかもしれません。その子供の手元に残るものは1バーツもないのです。

代わりにキャンデーをあげてみて下さい。子供は輝くような笑顔で、「もうひとつもらっていい?」とたずねることでしょう。もし、あなたがポケットに一杯のキャンディを持っていたのなら、あなたは子供の英雄となれますよ。その子は兄姉で分け合うからです。あの子たちは一人占めという悪習に染まっていないのですから。

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こんな話もあります。ある国の山奥に電気を引く援助活動がありました。長い時間がかかり、大変な難工事でした。そして、初めの40Wの小さな灯火が点きました。村人たちは感動し、その日本人たちの手を握りしめてくれました。

だが、このケースは続きませんでした。なぜかを、次回考える中から、どうしてこのエンザロ村が成功したのかを考えてみましょう。

(続く)

■写真 カンボジアのシェムレアップの少女たちと、アンコールワットの石像のひとつ。まさにクメールの微笑。

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エンザロ村のかまど ケニアのお母さんの悩み

_edited では、このカマドが出来る前まで、どんなことをエンザロ村の主婦はしていたのでしょうか。

主婦は地面に大きな石を3ツ並べて、その上に鍋を乗せて料理をしていました。

みるからに大変そうです。キャンプファイヤーならともかく、毎日のことです。このやり方は考えてみるまでもなくこんな大変さがあります。

まず腰に来そうです。中腰を長い時間続けていると、この絵のウガリ作りなど、トウモロコシの粉を練っているだけで腰痛になりそうです。

次に熱が無駄になっています。石の間からどんどん火が漏れているでしょう。これではせっかく苦労して集めた薪が無駄になってしまいます。

_edited_2 そして危ない。キャンプをやった人なら分かるでしょうが、裸火にうっかり子供が近づいて火傷をしかねません。また安定が悪いのでなにかの拍子に触ってしまい鍋ごとひっくり返りそうです。

お母さんにとって一番の悩みは、お湯を沸騰点まで沸かせなかったことでした。70度以上に沸騰させないと病原菌は死にません。しかし、沢山の料理を作った後に、またお湯を沸かすということはとても重労働で、お母さんたちには分かっていても出来なかったのでした。

お湯を沸かすという、私たち日本人からみれば簡単なことが、ケニアのお母さんにとっては大変なことだったのです。そのために細菌が入った汚れた水を飲んで乳幼児が沢山亡くなっていました。

水を汲む上流で家畜の糞尿が流れ込んだり、川上の村で病気が出たりすれば、その汚染された水をいやでも飲まねばなりませんでした。そのことによる感染病がいつもつきまとっていたのです。その犠牲になるのは、いつも抵抗力の弱い乳幼児や子供たちでした。

このケニアのお母さんたちの悩みを解決したのが、このエンザロ・ジコ、つまり「エンザロ村のかまど」だったのです。

(続く)

■すべての画像は「エンザロ村のかまど」さくまゆみこ 沢田としき(福音館)によります。ありがとうございました。

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エンザロ村のかまど ケニアの主婦の秘密兵器エンザロ・ジコが登場!

_edited 葦原微風様、コメントをありがとうございます。ぜったいに殺伐とはなりませんから、ご安心を!

夕御飯が始まりました。手を石鹼でよく洗って、さぁ自慢のウガリをいただきましょう。テーブルの真ん中にターメリック・ライス風にデンっと盛り上げられたのが、ケニアのお袋の味ウガリです。

ウガリは鍋にお湯を沸かして、その中にトウモロコシの粉入れて、しゃもじでグルグル練って作るのだそうです。一見するとピラフ風ですが、実は蒸しパンのようだそうです。蒸しパンかぁ、子供の時にロバのパン屋さんが売りにきてましたね。懐かしい。普通は手でちぎって、指で丸めてからくぼみをつけて、そこにオカズやスープをつけて食べるのだそうです。

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本日のメニューは骨つきチキンと魚のスープ2品 とスクランブルエッグの青菜添え、焼トウモロコシと揚げパン付きってところでしょうか。すごい品数!絵をクリックして大きくしてご覧下さい。

美味しそうですね。見ているだけで豊かな気分に浸れます。トウガラシで辛くするのかなぁ、なにか独特のスパイスを使っているのかしら?

ウルムチの民族料理には、なんにでもクミンシードがどどっとかけるんで参ったことがあります。店のおやじに手ぶりで「ちょっとちょっと、ちょっとだけネ」といくら言っても大ニコニコで、「そうかそうか、もっとかけて欲しいのか」とまぶさんばかりにされてしまいました。助けちくれぇ、舌がしびれるぅぅぅ。痺れて笑ったような顔を見て、ウイグルおやじ「そうかそうか、そんなにうまいか、もっとかけてやろう!」。

さてこの幾品も並んだ料理、ささっと出てきました。料理をおやりの方には分かると思いますが、食卓に数品並べるというのはハンパなことではありません。手順もさることながら、料理する火の数がだいたい2つに限られているからです。日本では電子レンジやオーブントースターまで動員しますよね。

しかし皆さん、このエンザロ村には電気がないんです。私の沖縄に入植した村も初めは電気がなかったのですが、プロパンガスのコンロひとつで料理するというのもなかなか大変なもんでした。あ、当然のこととして、このエンザロ村にはプロパンガスもありません。

ここで、奥さんのタマーラさんにその秘密を聞いてみました。彼女はにこにこと笑いながらその秘密に案内してくれたのです。それが3番めの絵です。エンザロ・ジコというそうです。エンザロ村のジコ。さてジコとはなんでしょうか。

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エンザロ・ジコとは、どこかで見覚えのあるような土のカマドでした。焚き口が1つに火口が3ツついています。同時に3種類の料理ができるのです。絵の一番左には水を沸かす鍋が見えます。子供がお湯を飲んでいますね。

この一見なんのことはないかまどは、ケニアの主婦にとって大発明だったのです。それについては次回お話しします。なんか私の口調までも、絵本的になってきましたなぁ。

(続く)

■すべての画像は、「エンザロ村のかまど」さくまゆみ 沢田としき(福音館)から引用いたしました。ありがとうございました。

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