東日本大震災

東日本大震災を永遠に忘れないために

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わが村の廃校式と子乞い

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私の村の小学校で廃校式がありました。

3月11日の震災で、校舎が壊れてしまったために、別々な学校に収容されていた子供たちがひさしぶりに旧校舎に集まりました。

今年卒業式をする子もいて、クラス会と卒業式を一緒にしたようなものでしょうか。

定員割れを起こしかけている60人ていどの小さな小学校でした。毎年児童数が減少して、ひとつの小学校を維持できなくなりかかって、統廃合が練られていた矢先でした。

小学校は村のシンボルです。明治になって日本人は、まず学校づくりから新しい時代を開始しました。

子供たちの足で歩いて通える距離にひとつの小学校を作る。小学校で世の中に出ていって困らないすべてを教える。これが昔の日本人が心に描いた理想でした。

沖縄戦が終了して、基地に土地を取り上げられて収容所暮らしを余儀なくされた時にも、沖縄の人々が真っ先に作ったのも学校でした。

トタン板の屋根で壁さえなくても黒板ひとつあればよかったのです。それは全国どこも一緒でした。焼け野原に学校を立てたのです。

ちょうどキリスト教徒が植民すると、まず教会を建てるように、日本人はまず学校を作ったのでした。

学校は日本人にとってひとつの信仰だったのかもしれません。子供に生きていく知恵を授け、伝統を次の世代に繋いでいくための信仰の依代だったのです。

沖縄の離島には「子ごい」という風習があります。文字通り子供を乞うのです。小学生が数人になってしまって廃校になると、残された子供は連絡船で遠くの島まで学校に行かねばなりません

いきれないと仕方がなくなって、その学校のある大きな島まで一家で移住せねばなりません。こんなことが続くと、やがて島で生きる人がいなくなってしまいます。

そして島はゆるやかに死んでいきます。

だから、頼んでも子供を「乞う」のです。ありとあらゆる手段で子供を誘致するわけです。

私の村も「子乞い」をせねばならなくなりかかっています。農業が元気ならば、村は元気です。元気な村には若い人が残ります。

そして子供が生まれます。ふたりなどとケチなことをいわず5、6人作ってほしいですね。そして小学校を100人、200人にしましょう! 

 

         ゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。

■震災…学びやに永遠の別れ 行方・小貫小で閉校式、1年ぶり児童も勢ぞろい 

東日本大震災で校舎が使えなくなり、統廃合される行方市立小貫小学校の閉校式が二十二日、同校校庭であった。震災直後から近くの北浦中学校を間借りして授業を受けてきた児童六十六人が一年ぶりに母校に戻り、慣れ親しんだ学びやに別れを告げた。 

 もともと小貫小は二〇一六年に新校に統合される予定だった。震災で校舎の壁などに亀裂が入るなどしたことから再編を早めて今年四月から近くの武田小に統合される。 

 式では寂しがる児童もいたが、児童会長で六年の根本孝紀君は「小貫っ子としてこれからも負けずにがんばる」と話した。 

 県教委によると、震災で使えなくなったまま廃校となるのは小貫小と同市の三和小、常陸太田市の佐都小の計三校。 
東京新聞3月23日

学校の防災 手探り 文科省、やっと防災手引 

幼い命をどう守るのか-。東日本大震災は学校の防災にも課題を投げ掛けた。県内では津波や揺れによる子どもの犠牲はなかったが、震源が少しずれていれば学校にも多大な被害をもたらした可能性がある。震災から1年がたち、学校防災の見直しは進められているが、手探りのところも多い。  

 ■津波 

 県内では北茨城市で最高六・七メートルの津波が観測され、同市や鹿嶋市内で計六人が死亡、一人が今も行方不明のままだ。船や車、コンテナなどが流されたほか、漁港や沿岸部の魚市場、鮮魚店を直撃して甚大な被害となった。 

 「津波の訓練なんて震災前までは考えたこともなかった」。大洗町の大洗港から約四百メートルにある「大洗かもめ保育園」の江橋喜久雄園長(64)は打ち明ける。震災では施設や園庭が最高七十センチまで津波に漬かったが、避難して全員無事だった。 

 二〇一一年度は一キロ先の高台まで園児らを走らせる津波の訓練を三度実施した。「徐々に避難する時間が短くなった」と園長は手応えを感じる。 

 一二年度以降に園は高台への移転が決まっているが「それまでに津波が来たらどうするのか。地震で建物が崩れ、避難路がふさがれる可能性だってある」と警戒を緩めない。 

 学校保健安全法は、地域の実態に即した防災マニュアルの作成を各学校に求めてきたが、東日本大震災は想定をはるかに超えた。文部科学省は今月九日、ようやく震災を踏まえた自然災害に対する防災手引を示した。 

 県教委の指針も改訂中だ。小野寺俊教育長は十九日、県議会予算特別委員会で伊沢勝徳氏(自民)の質問に「(一一)年度内には(改訂版を)作って四月に各学校に配りたい」と答えた。ただし、想定される津波の高さは県が見直している最中のため、浸水域の範囲が分かるのは五月ごろの見通し。

 各学校はそれまで待てないと、手探りで防災態勢を見直している。高萩市立東小では、震災時に津波が近くの川をさかのぼり、校庭も五十センチほど漬かった。防災マニュアルに津波は入っていなかった。最初に向かった避難所の福祉センターはいっぱいで、高萩高校に移動してやっと避難できた。 

 一一年度は例年の倍以上の七度の避難訓練を実施。大内富夫校長は「大災害では細かい決め事なんて守れないと分かった。教諭がいなくても助け合って逃げる。そういうシンプルな内容にしたい」とマニュアルを改訂する方針だ。 

 那珂川沿いや沿岸部を抱えるひたちなか市の藤田秀美教育指導室長も「想定を超える事態を常に頭に入れるよう指導を改める」と話す。 

 ■原子力防災、耐震化 

 東京電力福島第一原発事故を受け、原子力防災を求められる学校も増えた。東海村の日本原子力発電東海第二原発から二十キロ圏に入る水戸市立上大野小は一月、原子力事故を想定した訓練を実施。児童を屋内退避させ、衣服を脱ぐまでの手順を行ったという。一方、同圏内の常陸大宮市内の中学は「原子力への対応は検討中」といい、ばらつきがある。 

 震度6弱以上なら二次災害を防ぐため児童を帰らせないと決めたのは北茨城市の中郷二小。しかし、根本的な問題として県内の学校施設は耐震化が遅れている。県内の公立小中学校の耐震化率は昨年四月時点で64・1%。統廃合予定の学校が多いのも理由の一つになっている。近く首都圏での大地震が懸念される中、校舎を耐震化した上で廃校後の跡地利用を図ることや再編を早めるなどの早急な議論が求められる。 

【文科省発表の地震・津波防災手引の抜粋】 

・津波警報を聞いたら自主的に避難を考えるよう指導を 

・危険を過小評価せず、想定以上を意識 

・薬品や飲料水、鍵など必要な物は高層階に備蓄 

・長時間の通信手段の断絶を想定 

・児童らの引き渡し方法を保護者と事前確認 

・自治会などの地域と一体で訓練実施 

・屋内退避など原子力災害を想定。シャワーなど洗浄が必要な場合もある。保護者と協議を 

(東京新聞3月21日)

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今日から2年目に突入です!

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昨日、1年目の区切りを通過しました。 

昨日はなにか書くことが重くて、何度か書き直して、結局、マクラッチーさんの詩に替えました。 

あの詩は私の心情とは必ずしも一致しない部分があるのですが、少なくとも私などよりはるかに苦しんだ、命すら奪われた人たちがいた、そのことを一生忘れまい、と思いました。 

福島や宮城の子供の文章もいくつもスクラップしてあったのですが、書き写しているうちに涙が溢れて、とても最後までかないませんでした。 

鎮魂の1日でした。

どうして1年たってこんなにも泣けるのか不思議な思いでした。そして、私のようにだらしなく泣くこともせず、静かに合掌する東北の人々の姿を素晴らしいと思いました。 

さて、私にとっては、なんともやりきれない、なんとも耐えがたい、なんとも不毛な、なんとも忌ま忌ましい1年でした。一時は苦しみのあまり、生まれた街に戻ることすら考えたほどでした。 

帰農して30年、こんな弱気になったのは去年が初めてでした。今まで時間をかけて積み上げてきたことが根っこから覆され、なにを頼っていいのかわからなくなったのです。 

農業者にとって、土を汚されるということが生理的な苦痛ですらあることが分かりました。 

これは論理ではありません。科学的にどうだからではなく、我が身を故無く汚された、罪なくして痛めつけられたという気持ちです。 

そして自信を失いました。どうしたら放射能を除去したらいいのかわかりませんでした。 

降った放射性物質のみならず、周辺の森林から絶えず、長期間に渡って私の農場に汚染物質が流れ込む、そう思うと戦慄しました。

売り上げは去年の半分となり、今年の決算は大幅赤字転落となりました。農地を買い増しした借金が重くのしかかってきました。 

いかん、愚痴になりました。お許しを。 

このような中で三つ嬉しいことがありました。 

ひとつは、大きな支援を頂いたことです。多くの方からの励ましと支援の物資ほどありがたかったものはありませんでした。改めて心から感謝いたします。有り難うございました。 

二つめは、放射能は全能ではなく、最強ではないと分かったことです。放射能には天敵があることが科学的に立証されてきつつあります。 

粘土や腐植物質は電気的に、微生物や地虫は呑み込むことで、ゼオライトは物理的に、それぞれの場所で相互に補完し合いながら「共通の敵」である放射能と闘っていることがわかってきたことです。 

いがみ合い、罵り合い、苦しむ同胞すら差別する私たち人間と較べて、物言わぬ土中の者たちのなんとたくましいことでしょうか。 

私は「絆」という言葉を、土中の者たちによって教えられました。「絆」は調和の世界を取り戻すために、自分の立場で互いに足りないことをおぎない合いながら助け合うことです。 

三っつめは、地域の農業者とささやかな放射能と闘う芽を作れたことです。今までこのようなことがなければ語り合うこともままならなかった団体を超えたつながりが誕生しました。

そして地域の大学農学部との協同も生まれつつあります。研究者の人々は、私たちの経験則に言葉を与えました。科学的根拠を教えてくれました。

今後、できうるならば、福島の農業者ともゆるやかな連携ができればと考えています。

このように考えると、この1年は負けが6割で食い止められたのかな、と(笑)。

さて今日から2年目に入ります。私にとって2011年3月11日午後2時46分は、なにかの元年だったのかもしれません。

今日はいい天気です。お天道さまが真面目に働けと催促しています。

よし、いくぞ!

■写真 ちょっと時期は早いですが田植えの田んぼとたんぽぽ。一昨年の、まだ放射能に犯されずに無垢だった頃の写真です。

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1年後。 私たち日本人は、希望の光だけは失っていない

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                     1年後
                                     J.D マクラッチー
                                     訳ジェフリー・アングルス

 

その写真の中で
彼は、膝まで水に漬かり
微笑しながらも、微妙に恐怖している
 

彼の壊れたトランスフォーマーも、
彼のナップザックも、コップも猫も
なぜ生き残ったか
 

どうして他人に触れられるように
大事なものを置き去りにするか
 

政治家たち、答えてほしい
あの動力が、今のままありつづけると
考えたのはなぜか
 

古びた炉心は
誰も住めなくなる未来の波に
呑まれて崩れ落ちる

原子炉はまだそこに立っている
暖める、殺せるものが、まだあるというのか

ニュースは移り変わっていく
他の、より小さい、より大きい
遠くでおこった惨事へと

生きろ、と
ひそやかな、内なる声が
騒がしい画面のなかかで響き続ける

私たちの命は、死に向かって伸びていく
まるで臨終のように

彼は、みつめるばかりだった
彼は、速く走れなかった
彼は、すくいとられ

ほかの人々と一緒に
繰り返された日の映像にとられた
誰もそこから戻らない

私がその写真を撮ったとき
彼は、7歳半だった

                           「それでも三月は、また」より

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被災地の半年  ただちに全力で国は復興支援をしろ!

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震災からちょうど半年が立ちました。 

折も折、鉢呂吉雄経済産業相、いや前大臣というべきでしょうか、いずれにせよ、くだらないことを言いにだけ出てきたようなこの人間失格男の発言が飛び出しました。

私はその発言そのものより、そういうことを平気で口走らせるような国の姿勢にたまらない不信感を感じます。

今、被災地で求められているものは何か、ひとことで言えば「国の復興支援」です。

「政治家というものはこの程度だ」、「国に期待しても仕方がない」という政治的ニヒリズムに私は立ちません。というか、被災地に住むひとりとして立てないからです。

私の地域の政治経済の中心地であった鉾田市は今年、関東でも指折り子の夏祭をすることができませんでした。子供たちが楽しみにしていたこの地域でいちばん大きな花火大会も中止となりました。

なぜでしょうか。

夏祭を支えていた各区の中小企業や商店がことごとく大震災で大打撃を食って、倒産と廃業が続出しているからです。

商店街など、まさに軒並みという感じで潰れてしまいました。今までも地域経済の疲弊でよれていたものが、一気にこの震災による店舗の倒壊、器材の破損などで経営がなりたたなくなりました。

立て直すには少なくとも数千万円単位の資金が必要です。しかし、それがどこからも出ないのです。

今までも苦しい経営回転をしていた商店、中小企業には、これまでの借金を返しながら、さらにその上に倍するような借金を重ねることは不可能です。継ぐ子もいないようだし、ここらがが見切り時かと考えてしまったのでしょう。

市の郊外に拡がる農村地帯も、こ承知のような3月4月の「風評被害」(実害かどうかは置きます)による壊滅状態を建て直せないまま、その次の宮城牛のセシウム騒ぎ、米の検出などの打ち続く打撃で、目も当てられない状況になってしまいました。

おそらく年内には離農者が続出するでしょう。自殺が出ないのが不思議なくらいです。

そして更に海側に行った漁村はどうかと言えば、ある意味こちらのほうが農業より深刻かもしれません。

茨城も襲った津波は5メートルでしたが、漁港が文字どおりすべて壊滅状態になりました。

漁船と埠頭の破損だけではありません漁具が流されました。漁具は船と同じくらいの値打ちがあるのです。第一、これがなくては漁にも出られません。

なんとか埠頭の一部を修理し、船や漁具を修理して、何隻かあった漁協の船を共同運行するなどしても、今度は揚げた魚を加工する港に隣接する小規模な加工場が、大震災でことごとく潰れてしまいました。

漁業というのは、サプライ・チェーンの背景があって成り立っています。

魚を獲る⇒魚を競りにかける⇒冷凍する⇒運送する⇒魚を加工してすり身などにする⇒かまぼなどの最終製品にする⇒アラを魚粉にする、こういった一連の流れはすべて中小零細企業がおこなっています。

それが大打撃を受けて、潰れる加工場が続出しました。この流れのどこか一カ所が断ち切られただけで、サプライ・チェーンは機能不全となってしまいます。

魚を上げても加工できなくなれば、漁にでても仕方がないことになります。その上に汚染水の放出による被害です。

おそらくわが茨城県は、汚染水の影響を最大に食った県なはずです。

今回の汚染水事件の直後、天皇陛下が北茨城に行幸されて、昼食にコウナゴが出されなかったのを見て、陛下は「コウナゴはないのですか」とご質問されたそうです。

陛下は身をもってわが県を守って下さったのです。それを聞いて漁民だけではなく、県民すべてが泣きました。私も泣きました。

大震災と原発事故においてわが国には、まともに「政府」と呼べるようなものは存在しませんでしたが、天皇陛下がいらしたのです。でなければ、暴動のひとつも起きたでしょう。

それはさておき、ここまで広大な地域全体のありとあらゆる部門が潰れかかった状況において、地元行政の力などたかが知れています。ほとんど無力です。

政令指定都市規模ならまた違うかもしれませんが、数万人規模の市では自力復興などまったく不可能です。

県もまた無力です。基本的なインフラ復興だけでも巨額な財政がかかる上に、面として壊滅状態に陥った地域が続出していては、なす術もないでしょう。

国が復興支援するしかないのです。この震災-原発事故はとうに地元行政の力量をはるかに超えてしまっています。欄外の写真をご覧ください。

沿岸部では、3月12日撮影した写真よりいっそう灯が消えているのが分かります。そうです。広大な東北から北関東にかけての海岸地域が壊滅の危機にあるのです。

おそらく東北は、わが県に倍した苦悩の中にいるでしょう。

国の支援が早急に必要です。今、国が全面的な復興計画を策定し、とりかからねば、おそらくはこの灯は二度と戻って来ないでしょう。

そのような切所に今、被災地は立っています。

■写真 08年の鉾田祭。都市にいった若者が皆戻ってきます。今年はこの若者たちが、自力で復興祭を開きました。すべて自弁。すべて若者だけでがんばり抜きました。
彼らの力が残っていれば、まだ希望は残されているのかもしれません。

         ゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。

■ 衛星からの夜間撮影したインフラと都市の復興状況(産経新聞9月11日)

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ありがとう、JA! 大震災の時JAがなかったら、被災地の農業は壊滅していました

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北海道様。すいません。JAの組織構造をよく知らなかったもので。「全中」と修正しました。

さて私は、JAについて長年批判的だった部分があるのですが、この震災で大きく再認識しました。

国民の大部分は知らなかったと思いますが、大震災により東北、東関東の被災地の家畜飼料は完全に枯渇しました。

今回の牛肉のセシウム事件の発端となった牛農家も、この飼料の枯渇期にどうしようもなく被曝した屋外牧草に手を出したものです。非難されるべきですが、切羽詰まった事情もあるのです。

東日本全域の飼料枯渇の原因は、大震災により飼料基地だった茨城県鹿島港が壊滅的被害を被ったからです。

鹿島港は私の農場のすぐそばなのですが、やはり5メートルの津波が来て港が一時干上がるは、車両が水中に転落して水路を塞ぐは、埠頭が液状化で使用不能になるはといった大損害を受けました。

鹿島-神栖のコンビナート地帯にも大火災が発生して数日間にわたって燃え続けました。

このボンボン燃える炎と、黒煙、そして途絶えることのない緊急車両のサイレンが私の心に焼きついた震災の風景でしょうか。

大停電と通信が途絶。携帯もアウトだったんですから、なんのために携帯あるんだと言いたいですね。こら孫社長、あんたのところがいちばん復旧が遅かったぞ。本業にいそしめよ。(笑)

私が原発事故を知ったのは大停電がやっと終わった4日後のこと。大津波の惨状を映像で知ったのもそうです。声もないとはこのことでした。

飼料基地がやられただけではなく、被災地まで来るインフラがズタズタ。そもそも送油施設が壊滅したためにトラックもガス欠。配送センターの施設も全壊。運転手さんまでもが被災していたのです。。

受け手の農場サイドも、施設が倒壊、飼料タンクは倒れる。家畜は逃げ出す。断水で水がない。

のみならず、家畜に与える餌がない!家なんかぶっ壊れようが、家具が転倒しようが後から直せばいいだけですが、家畜にやる餌がなくなれば、1週間足らずで家畜たちは死んでしまいます。

私など断水しているために川で水汲みをしながら、「在庫の米ヌカや麦で飼料を延ばしてもせいぜいが7日だな、その後どうする・・・」と憂鬱に頭の中で自問していたものです。

今になって思えば、この時期に私たちの頭上に放射能がフォールアウトしていたわけです。

え、政府。そんなもの日本にあったんですか?

自衛隊や消防、警察といった国家機関は大車輪で被災地救援をしましたが、政府?そんなものどこに消えたのやら。

農水省?話の外。平時に減反で買い込んだMA米の保管業務ていどの暇仕事しかしていないツケで、非常時にはまったくの役立たず。農水省という存在があることすら被災農家の私たちは忘れていました。

この危機に登場したのが、JA全農です。

西は志布志の飼料基地から配送をかける、北は新潟港から脊梁山脈を超えて餌を運ぶ、中部の渥美半島からもどんどんと飼料トラックが被災地に向かって走ってくるのです。

まさに日本を縦断する大被災地救援作戦です。おそらくは西日本、北陸、北海道など被災に合わなかった地域の使える飼料トラックが全部出払ったのではないでしょうか。

投入された人員、資材などまさに被災地救援大作戦の名にふさわしいものでした。

電話が復旧するや、いちばんに来た電話が、JA東日本飼料の担当者からでした。
「ぜったいにエサを届けます。信じてください。バラ車ダメなら、平ボディでフレコンに詰めても輸送します」

うれしかったですね。地獄に仏でした。涙が出ました。もう、JAには足を向けて寝られない。

そう思ったのは私だけではないはずです。震災以降初めて農場に入って来たJAのバラ車を拝んだという人もいたそうですから。

あれだけの被災地飼料輸送大作戦など、他のいかなる団体、企業も無理です。JAなかりせば、大震災で東日本の農業が壊滅したのは間違いありません。

また、原発の避難地域からの家畜の非難に対しても献身的にやったのはJAでした。政府が振り向きもせずに非情に切り捨てた家畜を、一頭一頭トラックに乗せて、預け先も探したのはJAでした。

まさにJAは日本農業の大黒柱の名に恥じない働きをしました。

農水省などなくてもいいが、というかないほうがましですが、JAは間違いなく日本農民の背骨なんだと思いを新たにしました。

ですから、昨日書いた苦言もあえて言わしてもらえれば、というふうに理解ください。

ありがとう、JA!あなたたちが東日本の農業を救ったのだ!

■写真 昨日と同じブルーセイジです。こっちがほんとうの色です。接近しているニホンミツバチが見えますか?

           ゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。 

茨城県放射能実地測定研修の集い

❶茨城大学教員3名を講師として農地放射線量測定します。

➋空間線量と土壌線量測定の実測方法の実地研修

➌農地の測定

➍除染の講習

➎まとめと座学

❻場所 茨城県行方市 

❼日時未定ですが8月中旬から下旬の大学夏休み期間中に予定しています。

❽土壌サンプルをお持ちいただければ、測定致します。

茨城県、千葉県農業者、市民の皆さん、ぜひご参加下さい。

参加資格は問いません。農家を問わず消費者の方も遠慮なくお越し下さい。

このブログのプロフィール欄に私のメルアドがありますので、ご一報下さい。詳細が決定次第メールでご連絡いたします。

 

 

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福島県NPOの小さくて大きな支援の取り組み  

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今日は私が支援している福島県の「NPO田んぼ」(岩淵成紀理事長)の復興活動をお伝えします。

下の文にも出てくる「ふゆみず」とは「冬水」のことで、その名のとおり冬の間にも水を落とさず、水を張った状態のまま春のしろかきまで持っていきます。

こうすることによって、冬季に植物性プランクトンを糧とするさまざまな微生物、小生物が多く繁殖することがわかっています。

この豊かな生物相を得て、水田が本来持っていた多様な生き物の織りなす曼陀羅を作ろうとしています。そしてその命湧く田んぼを、さまざまな人たち、特に若い人たちに直接に体験してもらい、農とその世界を理解してもらうことを進めています。

活動についてはこちらからご覧ください。
NPO法人田んぼ URL:
http://www.justmystage.com/home/npotambo/

このNPO田んぼは福島県を活動拠点にしていましたが、今回の大震災で自らも被災しました。しかし、それにくじけることなく、このNPOをひとつのステーションとして、被災した人たちへの支援を活発に始めています。

その取り組みは単に支援物資を送るだけではなく、「未来の被災地の再生」に力を入れているのが特長です。

たとえば、被災地の学校の泥の除去や、失われた学用品を届けたり、また被災地やその外の高校生たちとをツイッターで結び合わせて、「避難所の御用聞き」を作ったりしています。

これは被災地に暮らす若い人たちが支援される立場から、被災地のジィちゃんパァチャンを助け、新たな地域を作る芽となる始まりです。

また、家屋を失った人たちのために、短期に暮らす仮設住宅ではなく(もちろんそれも政府の怠慢により非常に不足していますが)、バイオマス間伐材や自然エネルギーを取り入れた今後の再生される町づくりの基盤となる住宅を考えています。

被災地では膨大な瓦礫と化した木材などが放置されたままになっています。この瓦礫を脱塩し、「流域ペレット」として住宅の暖房などに使うことも計画しています。

そして多彩な被災者への癒しプロジェクトも始まっています。音楽、工芸、落語、演芸などを企画しています。

これに私が共感するのは、大震災により今失われてしまった街を、誰の力でどのようにして、どんな新たな町づくりをしていくのかという「未来」への視野が拡がっていることです。

これはともすれば大震災の被害と、頭上から離れない放射能の恐怖から、人が人らしく生きられる新しい町を作るなにかひとつのきっかけになるのではないでしょうか。

喪失感と恐怖から逃れるのには前に進むしかないのです。

被災者が「被災者」であることを止め、新しい町作りの環を自ら作ること、それがほんとうの復興なのではないでしょうか。

現在福島県被災地では、よくいわれるように支援物資が足りているなどということはまったくないそうです。

特に山間部ではひどい状況が続いています。ぜひこれらのNPOや避難所、あるいは県のボランティアセンターなどと連絡をとって支援物資をお送りください。物資によって足りているものといないものがあります。送られる前に一度連絡をとることをお勧めします。

          ゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。

皆さま

ヘドロをかぶった大谷のふゆみずたんぼのヘドロの部分を調査いたしましたのでご報告いたします。比較のために荒浜の松林内ヘドロも調査結果も添付します。

この結果、被災したふゆみずたんぼのヘドロは、ECも塩分濃度もかなり高いことがわかりました。

(略)
田んぼの復元についてもこのページを通じて 随時報告していきます。

http://www.justmystage.com/home/npotambo/satoako.html

                ■ 7つのプロジェクト
                -こころの通った支援活動-

1.教育プロジェクト
。支援物資を集めて、避難所や被災した個人宅の物資の必要な人々に迅速に届ける。

◦教科書・参考書や文具等の学用品を被災地の子供たちに届ける。

◦被災地の子供たちに家庭教師を派遣する。

◦被災地の校庭の泥の除去や、学校の復興のための学校再建の支援する。

◦被災地の学校に被災地情報発信用のコンピュータや携帯電話を届ける

2.被災地の高校生と世界の高校生を繋ぐtwitter・プロジェクト
◦被災地の高校生と支援の高校生を直接結ぶ
①被災地の高校生が近所や避難所のご用聞きになるような仕組みを被災地 の高校教師とともに立ち上げ、運営する。

② 被災地以外の高校生が近所に呼びかけて被災地の需要に応えて物資を送る仕組みを高校教師とともに立ち上げ、運営する。

◦国連大学と連携してESD International Year of Youth 2011活動の一環として大学生とともに活動する http://social.un.org/youthyear/

3.仮設じゃない生物多様性「復興住宅」・プロジェクト
◦被災地に持続可能なエネルギー(風力、太陽光、バイオマス発電)を利用した個人復興住宅を作成する仮設でない復興住宅プロジェクト。

また、集落の集会場となるコアーな施設を建設し、集落のコミュニテイーを維持し、その周辺に数十の小さな復興住宅を造る。

◦集会場のコアーとなる施設を地域の木材を利用し、地域の人々の研修施設、被災者 の就労の機会の場を提供する。

◦補助発電装置として、バイオデイーゼル発電機を利用する。

◦こころとからだの癒しの場、自然エネルギーを利用した共同足湯施設を併設する。

・生物多様性向上の概念を活かした設計を考える

4. 被災地の廃材と地域の素材を混合した流域ペレット・プロジェクト
◦被災地の柱や梁と倒れた松林の松、流域の葦、杉の間伐等をブレンドした流域の素材を利用した流域ペレットを作成する。

・塩水やヘドロに漬かった木材のモニタリング調査と脱塩の方法の検討を行う。
◦流域ペレットを暖房の材料として震災復興住宅に使う

5. 芸術・文化を通した心と体の癒し・プロジェクト
◦天使の癒し隊メンタルケアー・天使カフェによるアロマ、マッサージとヒーリング活動

・ひととひとのぬくもりを具体化する
◦癒しのクラシック小さな音楽会開催・さと・あこの小さな音楽会(豊岡市との共催事業)

◦落語で癒す(NPO法人メダカの学校との共催事業)・落語家による癒し活動を行う
◦復興と癒しのジャズ(豊岡市との共済事業)活動を行う
・絵本や絵画を通じた心の癒し活動を行う

(略)
7.東北再生のための生物多様性を活用した「東北再興銀行」プロジェクト

◦宮城のお酒、味噌、醤油などの伝統を守り、地域の材料を使用している加工食品の売上の一部を支援金へと活用する市民バンクの創設を行う。

◦震災復興の共通マークの作成と再生のためのコーズ・マーケティングシステムの確立する。

現在、NPO法人田んぼは、これらの活動を同時に行うことを考えています。
皆さんのご意見,ご協力をいただければ幸いです。

岩渕 成紀
NPO法人田んぼ理事長
〒989-4302宮城県大崎市田尻大貫字荒屋敷29-1
電話&fax;  0229-39-3212

■写真 今朝朝日を撮っていたらファインダーにわが家のワンコロが乱入。そのままパチリ。しかし無用に元気なやつらです。この後に、私の所に駈け寄ってきて、レンズをペロリ。可愛いバカです。

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あの大震災の日、村の小学校ではなにが起きたのか 被災地から被災地への支援始まる第2回

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今朝5時19分の地震で目が覚めました。震度3だそうです。昨日は私の住む地域である茨城南部を震源とする震度5弱が来ました。

そして哀しいことに、だいたいいまのはどの程度の震度かが体感で分かるようになってきました。まるで人間地震計ですな。なんせ70何回も余震もらっていますから鍛え上げられてしまった(笑)。

テレビで昨日「ボロ家でグルメ」みたいな番組をやっていましたが、観ながらも内容そっちのけでカミさんと「あ、この家は茨城に建ってたらもたないよね」などと批評する始末。

昨日のような震源地の真上だと、いきなり無警告でガンッガンッときます。グラグラというより縦方向への衝撃です。

震源地が遠いとズーンというトラックが遠くを通るような重低音がして、グラグラときます。だからズーンと来たら遠い、いきなり来たらヤバイ。

3月11日は、2時46分にズーンと来て、もうあとは洗濯機の脱水槽に放り込まれたような感じです。これがM9で、そのわずか29分後の3時15分にM7.7震度6が来ました。

私たち茨城に住む人間には第2波のほうが怖かったですね。震源地がまさに私の住む目と鼻の先の茨城沖だったからです。まさに直下からズドンっと来るかんじです。

あまり知られていませんが、茨城県でも内陸に2㌔も津波が侵入しました。高さは4,5メートルあったそうです。港は軒並み壊滅です。

神栖では大通りを津波が通り抜けたそうです。わが県は三陸のようにリアスではなくなだらかなな海岸線が続いているので、このていどで助かったようです。

さて当時、村の小学校に子供を行かしていた母親に話を聞きましたが、2時46分の第1波で教室はポルターガイスト現象が起きて、壁の額や花瓶などが斜め横に吹っ飛んで来るのです。

「机の下に入ってぇ!」と叫ぶ若い女の先生の声も裏返っています。通学用のヘルメットを被るまもなく、校舎全体が大きくズシン、ズシン、グラグラ、ガッシャーンと揺さぶられます。

ようやく揺れが収まると、子供は泣きだすことも忘れています。廊下は水道のパイプがどこか壊れたのか水浸し。当然電気は止まってしまいました。

子供たちが泣きだしたのは、薄暗い廊下から校庭に脱出してからのことでした。集合して点呼を取り始めたところで、そこへ第2波の襲来です。巨人が校庭を下から突き上げ、校舎を70㎝も土台から持ち上げてしまいました。

村のいろいろな人に聞いても2時46分より3時15分のほうが怖かったなと言います。いったんものすごい地震のエネルギーが通過して、ひと安心した所に来るのですから心理的にこたえます。まして子供ならどんな心の傷を負ったことか。

大川小学校の悲劇を思うと、死んだ子供が出なかったのはほんとうに奇跡でした。

私たちの村は小学校が二つも土台から持ち上げされて使用不可能となり廃校に決まりました。子供たちは気持ちも新たに別の小学校に通っています。

それにしても菅政権の対応のひどさは度をすごしています。あまりにもひどすぎます。被災後1カ月を過ぎても避難所の人たちにあれほどの過酷な暮らしを強いるというのは、これが先進国かと目を疑うほどです。

いつまでも体育館のようなところに寝かせて、水もない、トイレも使えない、食料も満足にならない、果てはその避難場を追い出されて転々とするに至っては、政治がまともに機能しているとはいえません。

いくらでもやりようがあるはずです。保養所や企業の研修施設などを借り上げて、人間らしい暮らしができるように配慮するといったことがなぜ出来ないのでしょうか。

今こそ国家が最大の力を発揮して避難民を助けなければならないのに、ほとんどが自衛隊と地元自治体、そしてボランティアの手に救援を委ねています。

政府はやくたいもない会議を20も作っておしゃべりばかりで何かやった気になっているだけです。

もはやこれは国家ではありません。おとなしい日本人でなかったらとっくに暴動が起きています。

巨大地震、巨大津波までは天災ですが、原発事故や避難所に行ってから病気で死ぬ人が続出するというのは人災です。

そもそも先の小学校の地震による廃校にしても、学校の耐震工事を無駄だと短時間で事業仕分けしたのは、レンポー節電担当大臣(←なんてくだらない任命だ!)と枝野幹事長だったのではなかっのですか。

耐震工事を乏しい自治体財政でなんとかやりくりした鹿島市はかろうじて大震災に間に合い、潰れた学校は皆無でした。

レンポー大臣、枝野官房長官、あなた方は心の痛みを感じないのですか。言い訳と隠蔽だけは一流のあなた方ですから、小学校がいくつも潰れて子供が危険にさらされようとも意識にも登らないのでしょうね。ああ、いかん朝から素で怒ってしまった。

茨城県は全国でも最低レベルの5割程度しか学校の耐震補強が済んでいません。くだらない政治ショーで耐震事業予算をカットしなければ、村の小学生はあのような恐怖を味わうこともなかったのかもしれないのです。

 

         

          ゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。

[承前]

                  被災地から被災地への支援始まる
           ー茨城県の農家・下河辺昭二氏が見た宮城県被災地レポートー

Photo               (撮影下河辺氏 野田村)

46日、宮古市重茂漁港に向かった。途中田老町地区を通り抜けた。国道を挟んで町並みがあったはずなのにあるのは瓦礫の山だった。

町民は一人もいない。いるのは自衛隊だけ、町民全員が避難所暮らしをしていると思われる。

宮古市重茂漁港に到着、ここでは約100人が避難所で暮らしている。46日現在、20人が行方不明。この人たちは高台で津波を監視していた消防団員だ。

重茂漁港では行方不明者捜索の為、炊き出しの受け入れが出来ないと連絡を受け、準備済みの食材を渡し避難所へ配ってもらう事とした。

Photo_3           (撮影 下河辺氏 焚き出し風景)

着の身着のままで逃げ、命拾いはしたが長期の避難所生活で相当なストレスだと思う。

物資は届いているが、口に合わなかったり、サイズが合わない衣服だったり、風呂にも入れない、酒も飲めない、お金も何も無い状況だ。当たり前の生活が出来ていない。早く義捐金を渡して久しぶりにお風呂に入ってもらい、少々の酒でも飲んでもらいたいと思うが、これらは贅沢ではないでしょう。

                              (了)

首都圏放射線量マップ
http://www.j-cast.com/2011/03/18090608.html

多くの地域の放射量をみることができる便利なサイトです。

がんばれ、東北!

茨城からも応援するぞ!

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被災地から被災地への支援が始まった!

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被災地から被災地への支援が力強く始まっています。

大震災以降わが茨城県はこれほどの打撃を受けたことがないほど痛めつけられました。おそらくは常陸の国始まって以来でしょう。未だその被害の全容はわかっていないほどです。

復興までどれほど長い道のりになるか想像もつきません。10年では収まらないことでしょう。

大震災による直接的被害のみならず、その直後から始まった福島第1原発の原子力事故は、茨城県、福島県の農畜産物全体を風評被害によって事実上出荷不可能な状態に追い込んでしまいました。

春の種まき、田植えすらこの4月中旬に至るまで決定することが出来ませんでした。それは地表に降り注いだかもしれない放射性物質が、どこにどれだけ降ったのか、そして今後も降り続けるのかの予測が県にも、市にも、そして私たち農業者にもつかなかったからです。

そしてあろうことか、自称「低レベル放射性汚染水」(私はこの数値が発表されない限り「低レベル」という政府・東電発表を信頼していませんが)の大量放出により茨城県海域は「放射能汚染の海」というレッテルを貼られ、水産物は未だ漁にも出られない状態が続いています。

こうしてわが県は、「茨城県産」というだけで農産物、畜産物、水産物のほぼすべてが出荷不可能に近い状態に追い込まれてしまったのです。

これは復興の槌を持つ手を縛り、被災地に二度目の大震災を与えたのでした。

「県難」という言葉があればまさに今がその時でしょう。この重苦しく垂れ込める雲を払うようにわが村からも農業者が東北地方の被災地支援にたちあがりました。

自らも打撃を受けながらも、更に困難な地域を支援するのです。被災者がより苦しんでいる被災者を助けに数百㌔を走って駆けつけたのです。

被災地に向けて自らの農場産の食料を積み、焚き出しをしてきました。今日はこの被災地による被災地支援の主宰者である下河辺昭二氏の寄稿を頂戴しましたので2回にわけて掲載いたします。

Photo_2                      (撮影 下河辺氏 田老村)

岩手県野田村に炊き出しのお手伝いに行って来た。

そこには同じ取引先に生産物を供給している産地、メーカーの人たちが被災されている。

4月4日午後

茨城を出発、先発隊を含めて計7人、3台の車に分乗し東北道を北上、茨城から岩手まで道路におうとつがあり、改めて今回の地震の大きさを実感する。

1000頃に宿に着いた。岩手の山荘にはたくさんの雪が残っていて現場に着く前から厳しい状況での被災を想像しながら就寝。

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野田村入り避難所生活者約100人、街を見て言葉を失う堤防は破壊され街の中に漁船が何艘も打ち上げられている。家屋の大半は瓦礫化していた。所々に家が傾いた状態で存在している。

かろうじて家は立っているが一階部分には津波で破壊された車などが入り込んでいて想像を絶する風景に言葉を失う。

到着後すぐに炊き出しの準備、丼物と汁物、各400食、自分達が寝ている間に岩手の関係者が早朝より準備をしてくれた。

汁物は地鶏のガラを煮込んで出汁を取って本格的に作られていた。いつもイベントなどでは試食と言う合言葉でスタッフの腹を満たすが、今回は本職の仕込みと言うこともあり出来なかった。と言うより行わなかった。

少々残念だが持ち込んだ食材は限られている被災者を最優先にと誰もが思っていたからだ。約1時間で大きな寸胴の底が見えた。

野田村の皆さんに「美味しいよ、ありがとう、頑張ってね」逆に励まされた。

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宮古市重茂漁港に向かった。途中 田老町地区を通り抜けた。国道を挟んで町並みがあったはずなのにあるのは瓦礫の山だった。町民は一人もいない。

いるのは自衛隊だけ、町民全員が避難所暮らしをしていると思われる。

宮古市重茂漁港に到着、ここでは約100人が避難所で暮らしている。46日現在、20人が行方不明。この人たちは高台で津波を監視していた消防団員だ。

重茂漁港では行方不明者捜索の為、炊き出しの受け入れが出来ないと連絡を受け、準備済みの食材を渡し避難所へ配ってもらう事とした。

(次回に続く)

首都圏放射線量マップ
http://www.j-cast.com/2011/03/18090608.html

多くの地域の放射量をみることができる便利なサイトです。政府は原発事故以来一貫して「安全です」と言ってきました。それがいかにいいかげんなでまかせであったのかがわかりました。政府は信用でいません。

私たちは自分で自分の家族を守るしかないのです。毎日自分の済む地域の放射線量をウォッチしましょう!

がんばれ、東北!

茨城からも応援するぞ!

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俺たち百姓は神社の桜の老木のように動けないんです  だから苦しい時こそ笑うんです

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昨夜ものすごい地震が来ましたね。当地は震度6弱。余震なんて可愛いものではなくリッパな地震です。

ああ、こわーというのが実感です。さすが部屋の額や花瓶、ガラス類などヤバそうなものはみんなしまってありますし、すべての家具やテレビも針金がグルグル巻きにしてありますので、11日の時のようにガラガラガッチャーン!ドッピンシャン!はありませんでした。

村のコンビニも、まぁ馴れたもので(←馴れたくはないね)、瓶類は未だ床の上にボックスに入れて置いてあります。11日の日はどの店でも砕け散ったガラスが散乱してそれはすさまじかったですから。

さて、3月11日には実は3つの地震が立て続けに起きていました。まず第1波は東日本大震災の象徴的時間となった2時46分の宮城沖で起きたM9.0巨大地震です。

次いで29分後の3時15分に茨城沖でM7.7の第2波が起き、そしてわずか10分後の3時25分にM7.5の第3波が福島沖で発生しました。

M7超クラスの大地震が立て続けに39分の内に起きたわけです。阪神・淡路大震災がM7.3ですから阪神・淡路大震災クラスが立て続けに3回ほぼ同時に北関東、東北を襲ったことになります。

このような巨大地震群が、地殻に与えた影響は大変に大きいようで、東日本大震災によって東西方向に地殻が強く引っ張られているそうで、とうぶん不安定な状況が続くようです。

わが村も2つの小学校が土台から浮き上がって廃校。崩落した鹿行大橋は当分手つかずの状態、大型スーパーは天井が崩落して未だ再開のめどがたたず、JAのガソリンスタンドは地下タンクが浮き上がって閉店に追い込まれそうな模様です。

農業は風評被害でメタメタ、牛乳はようやく出荷制限が解けました。ほんとうにめでたいことです。失われた丸々1カ月間を取り返せるかですが、その間の飼料代などの運転資金の手当てなどで頭痛いことです。

春の作付けが始まりました。もうやるきゃないってとこですかね。この水温む季節に種蒔きと米作りやらなかったら百姓じゃないてなもんですよ。

一斉に村中の畑や田んぼでトラクターがガタゴトと動きは始めました。私なんぞセシウムが降ってたら知らんぞォなどと消極派だったのですが、まぁ赤信号皆んなで渡れば怖くないってところでしょうか。

とりあえず今は放射性物質の空中放出は低下していますから、お願い、もう一回水素爆発なんてやらんでくれよと祈るような気持ちです。今度いったら下手すりゃプルトニウム様の出番ですから、これはシャレにならない。

そういえば原子力保安院は今回の原子力事故をレベル7とするそうです。往生際が悪かったですが、そこまでの大事故にしてしまった不始末の責任はどこかてとってもらいましょう。 こんな状態で毎日グラグラする地盤の上に乗って、放射能が降ってきたらしょうがないじゃんかと明るく居直って暮らしています。だって泣いてもしかたないじゃないですか。笑って暮らすしか方法がないじゃないですか。

百姓は神社の桜の老木のようにこの地から動けないんです。だから苦しい時こそ笑うんだ、です。

            ゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。

事故評価 最悪のレベル7へ
(NHKニュース 4月12日)

東京電力の福島第一原子力発電所で相次いで起きている事故について、経済産業省の原子力安全・保安院は、広い範囲で人の健康や環境に影響を及ぼす大量の放射性物質が放出されているとして、国際的な基準に基づく事故の評価を、最悪の「レベル7」に引き上げることを決めました。「レベル7」は、旧ソビエトで起きたチェルノブイリ原発事故と同じ評価になります。原子力安全・保安院は、12日、原子力安全委員会とともに記者会見し、評価の内容を公表することにしています。

原子力施設で起きた事故は、原子力安全・保安院が、国際的な評価基準のINES=国際原子力事象評価尺度に基づいて、その深刻さを、レベル0から7までの8段階で評価することになっています。原子力安全・保安院は、福島第一原発で相次いで起きている事故について、広い範囲で人の健康や環境に影響を及ぼす大量の放射性物質が放出されているとして、INESに基づく評価を、最悪のレベル7に引き上げることを決めました。

原子力安全・保安院は、福島第一原発の1号機から3号機について、先月18日、32年前にアメリカで起きたスリーマイル島原発での事故と同じレベル5になると暫定的に評価していました。レベル7は、25年前の1986年に旧ソビエトで起きたチェルノブイリ原発事故と同じ評価になります。レベルが引き上げられる背景には、福島第一原発でこれまでに放出された放射性物質の量が、レベル7の基準に至ったためとみられますが、放射性のヨウ素131を、数十から数百京(けい)ベクレル放出したというチェルノブイリ原発事故に比べ、福島第一原発の放出量は少ないとされています。原子力安全・保安院は、12日、原子力安全委員会とともに記者会見し、評価の内容を公表することにしています。

●茨城県放射線テレメータ・インターネット表示局
http://www.houshasen-pref-ibaraki.jp/present/result01.html

*単位はナノグレイ/時です。マイクロシーベルトにするには1000分の1にしてください。
たとえば東海村石神254とあれば、0.254マイクロシーベルトとなります。
*「カーム」とあるのは、風向きが静穏のことです。

がんばろう、東北!

 忘れないでね、茨城

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