呪詛の「燃料」を欲しがる運動家たちに利用されたイ・ヨンス
元慰安婦証言の多くに言えることですが、最初の証言が、数年後には変化し、さらに変化していくごとに過激になっていきます。
証言のゆらぎそのものは半世紀以上前のことでもあり、老齢もありますからありえることですが、イ・ヨンスの場合、もっとも重要な初発の部分であるはずの「なぜ慰安婦になったのか」という出発点が変化しているのです。
李容洙 - Wikipedia
なぜここが重要かといえば、この慰安婦問題においては、「日本軍が朝鮮女性を狩り集めて慰安婦にした」という、国家、あるいは軍の直接関与が指摘されたからです。
もう少しこまかく言えば、当時日本の統治下にあった朝鮮で、日本が軍を使って戦時であっても平時の市民生活を営む朝鮮女性を拉致して慰み物にし続けたということです。
主語はあくまでも「日本」、ないしは「日本軍」が、です。
これがそこらの民間の売春斡旋業者の仕業なら、人間の住むところ古今東西ありとあらゆる場所にある、ありふれた話だったわけです。
これだけなら風俗斡旋のオジさんにダマされた気の毒な女性、以上でも以下でもありませんでした。
ところが、日本軍、つまりは日本政府という一国の政府が、当時「国内」だった朝鮮で婦女子に銃剣を突きつけてさらったとなると大違いです。
国内で軍を使って、兵隊用売春婦を徴用する国ということになります。
常識的に考えて、自分の国で兵隊用娼婦を銃剣をつきつけてまで募る国など考えられもしませんが、それがあったとしたのが、朝日新聞でした。
関連記事http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-319f.html
朝日新聞は学徒動員の勤労挺身隊を、軍用慰安婦だと報道しました。
しかも、朝日は日本軍が暴力的に村に押し入って、木刀で女性を叩きながら連れ去ったと記事にしました。
ソースは後に朝日自身が詐話師と認めた吉田清治という男ですが、朝日は無検証でこの男の「証言」を大々的に広めたわけです。
もちろん根も葉もないでたらめで、学徒の勤労動員と、慰安婦はまったく別な存在で、意図的に混同したのです。
これが有名な慰安婦誤報です。いや、誤報というより捏造という名に値します。後に朝日は社長の謝罪にまで追い込まれます。
しかし、それに至る20数年間、日本は「軍を使って慰安婦を狩り集めた暴虐非道な国」という汚名をかぶることになります。
この濡れ衣はいまだ晴らされず、今に至っています。
これについては多くの記事を書いていますので、お暇でしたらお読み下さい。
関連記事http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-0aec.html
さて、イ・ヨンスの60代の証言です。長いですが、重要なので引用します。これがオリジナル証言です。
「1944年夏のある日、酒屋をやっていた友達(キムプンスン)のお母さんが「今のような苦しい生活をしている必要はないじゃないか。私の言うところに行けばご飯がたくさん食べられ、豊かな生活ができる」と言いました。
ですが私は「嫌だ」と言って飛び出て来ました。それから何日かたったある日の明け方、キムプンスンが私の家の窓をたたきながら「そうっと出ておいで」と小声で言いました。私は足音をしのばせてそろそろとプンスンが言う通りに出て行きました。母にも何も言わないで、そのままプンスンの後について行きました。(略)
行ってみると川のほとりで見かけた日本人の男の人が立っていました。その男の人は四十歳ちょっと前ぐらいに見えました。国民服に戦闘帽をかぶっていました。その人は私に包みを渡しながら、中にワンピースと革靴が入っていると言いました。(略)
それをもらって、幼心にどんなに嬉しかったかわかりません。もう他のことは考えもしないで即座について行くことにしました。大邱から私たちを連れて来た男が慰安所の経営者でした。」
この最初の証言には、慰安所に連れていった男が「慰安所を経営している男」だと書いてあります。
軍や兵隊などどこにも登場しません。
イ・ヨンスは、「国民服に戦闘帽の男」から、「もっと豊かになれる、綺麗な服や靴が貰える」と言われて「もう他のことを考えないで即座について行ってしまった」のです。
気の毒としかいいようがありませんが、イ・ヨンスは、このような若年の女性を売春業に誘惑する悪質売春業者に騙されて家出したのです。
しかもこの初めの証言では、挺身隊対策協議会(挺対協)に対して行われたもので、日本は関与していませんので、オリジナル証言といってもいいでしょう。
すくなくとも、イ・ヨンスが運動に関わる以前には、詐欺にあって売春業になったのだと言っていたことを記憶に留めて下さい。
これが2000年代に入ると、彼女の立場が変化するに従って、証言も大きく変化します。
では、どのようにイ・ヨンスは変化したのでしょうか?
おそらく、60歳代(1900年代)までのイ・ヨンスは、自身が述べているように「顔を上げて歩けない。誰にも話せなかった」境遇で生きて来たのだと想像されます。
経済的にも、多くの元慰安婦とおなじように困窮していたと想像されます。
なぜなら富裕層になっていたなら、自身の過去は封印するからです。
ところが、「従軍慰安婦」運動によって、いきなり彼女は運動界の英雄に祭り上げられます。
「強制連行の生き証人」「日帝暴虐の語り部」という新しいポジションが彼女に与えられたのです。
しかも70歳代になってからです。以後、この「救済」にイ・ヨンスは忠実に従うことになります。
そこでは彼女は今までのように、「顔を上げて歩けなかった」どころか、多くの聴衆の前で悲劇のヒロインとしてふるまうことが出来るようになります。
そして、日本政府を糾弾してこのように叫びます。
「日本国の総理が私の前にひざまずいて公式謝罪し、賠償しなければならないし、そうすることが日本の子孫たちが平和に住めるようになる道だ。」
また、自分の証言に異論を唱える日本人に対してはこう言っています。
「犬同然なやつらよ、私は朝鮮の娘だ。お前らが踏み付けてからもお詫びしない理由は何か」「慰安婦を名乗る女性が死ぬことだけを待つ汚い人間たちの前で、私は絶対死なないでしょう。200年生きて、彼らの末路を私が見るつもりです。」
(「日本よ聞きなさい。強制慰安婦のお婆ちゃんの叫び」)
日韓合意以後も、さらにハイテンションでこう叫んでいます。
「慰安婦像を東京のど真ん中にも建て、その前を行き交う日本人が申し訳なかったと頭を下げるようにする。」
韓国人特有の火のような激しい言葉遣いは差し引くとしても、われわれ日本人には憎悪の火炎放射器で焼かれたような気分になります。
このような発言を繰り返しながら、イ・ヨンスは「従軍慰安婦」運動の中心的運動家として韓国だけに止まらず、日本にも運動団体の招きでたびたび訪れ、米国にも訴えに出かけるようになります。
そこでの証言は当初の、「詐欺に合って家出した」という部分が消え、日本軍による直接の強制連行が登場するようになります。
また、レイプなどはあたりまえ、殴る蹴る、丸太で殴打する、メッタ切り、電気ショック、それによる流産などという悪夢のような血なまぐさい凄惨な描写が加わります。
証言を拾っていきます。ほぼ似たようなものですから斜め読みしてくだすってかまいませんが、年齢の部分にご注意ください。
14、15、16と三種類あります。
・2002年6月26日、共産党機関紙「しんぶん赤旗」の証言
「14歳で銃剣をつき付けられて連れてこられた」「拒むと殴られ、電気による拷問を受けて死にかけた」・2004年12月4日、”12・4全国同開催「消せない記憶”集会での証言
「1944年、16歳の時に「軍服みたいな服を着た男」に連行され、台湾へ。移動中の船の中で、日本の兵隊たちに繰り返し強姦される。台湾では、日本軍「慰安婦」としての生活を3年間強制された。「慰安所」では1日に何人もの兵士の相手をさせられ、抵抗すると電線のようなもので電流を流されたり、丸太で叩かれたりの暴行を受けた。」・2006年10月13日、”上田知事の「従軍慰安婦」否定発言を問う県民連絡会”集会後の記者会見での証言
「15歳で韓国・大邱の家から軍人に拉致され、台湾まで連れ去られ、敗戦で解放されるまでの3年間も慰安婦をさせられた。」・2007年2月23日日朝協会主催の「イ・ヨンスさんのお話を聞く会」の証言
「15歳のとき、小銃で脅され、大連から、台湾に連行され新竹海軍慰安所で特攻隊員の慰安婦とされた。」・2007年3月1日、上田清司埼玉県知事と面談後の記者会見での証言
「16歳のとき、台湾で特高に口を塞がれて連れて行かれた。」・2007年4月28日、ハーバード大学で行った講演での証言
「16歳の時に強制連行され、2年間日本兵の慰安婦をさせられた」「日本兵に足をメッタ切りにされ、電気による拷問を受けた。」
以下この調子でほぼ毎年のように運動団体の招きで日本を訪れ、「強制連行の生き証人」として訴えるようになります。
イ・ヨンスは日韓の運動家たちにとって、もっとも重用された元慰安婦であったことは疑い得ません。
言い換えれば、運動家サイドの暗黙の要請に従って、イ・ヨンスは自身の証言を変質させたのです。
もっとも新しい2012年9月には、こう述べています。
2012年9月12日、”日本軍「慰安婦」問題の解決を求める市民の会”が主催した講演会の証言
「15歳のときに、自宅で寝ていたところを日本軍によって連行されました。帰りたいと言うと「言うことをきかなければ殺す」と脅され、軍靴や棒で顔や体に暴力を受けました。各地を日本軍とともに転々とし、17歳で父母の元に帰るも、「また捕まるのではないかと思うと、顔を上げて歩けない。誰にも話せなかった。」
この証言などは、「日本軍と転々とした」とありますが、台湾の中を「転々とした」のでしょうか。
おそらく当時多く出ていた慰安婦証言の中で、南方や東南アジアの慰安所にいた者の証言に影響されたのだと思います。
そもそも、イ・ヨンスが1944年10月に「強制連行」されて行ったという新竹の慰安所は1年前の1943年11月の新竹空襲で消失していました。
連れて行かれるもなにも、新竹に慰安所はなかったのです。
憶測の域を出ませんが、彼女がいたのは新竹、ないしは「船に日本兵が来た」とあるところから基隆、花蓮などの港近辺の売春施設にいた可能性もあるかもしれません。
どこに連れていかれたのか、ほんとうはそこでどのように暮らしていたのかは、いっさいの証拠が欠落したうえに、当人の証言が大きくブレるので真相はわかりません。
一方、運動団体側は、イ・ヨンスが過激な日本叩きをすることをほくそ笑んでいました。
本来、元慰安婦に同情し、その境涯を支援したいと思うなら、具体的に解決方法を探るべきです。やるべきことは山ほどあるでしょうに。
しかし、運動家の多くが欲していることは、具体的な改善でもなく反日運動でした。
そこに日本があるかぎり百年、千年先まで呪ってやる。だから、真実などくそくらえ。要るのは、呪うための「燃料」としての呪詛だけだ、というわけです。
つまりは、自分たちが政府を糾弾する「燃料」として、元慰安婦を政治利用しているにすぎないのです。
その意味で呪いの「燃料」だけを欲して、元慰安婦の境遇の改善を省みない挺対協に対して、イ・ヨンス自身がこう批判しているのは、まことにもっともなことなのです。
「当事者(元慰安婦)の意見も聞かず、日本との協議を拒否している」「日本が話し合おうといっているのに。会わずに問題が解決できようか」「なぜ自分たちの思うままにやるのか分からない。」
元慰安婦が支援団体「挺対協」批判 「当事者の意見聞かない」「事実と異なる証言集出した」 産経新聞
「強制動員されたという一部の慰安婦経験者の証言はあるが、韓日とも客観的資料は一つもない」「無条件による強制によってそのようなことが起きたとは思えない。
日本のケースは「自発性」であって、現在の韓国における私娼窟における慰安婦をなくすための研究を行うべきだ。
共同調査を行った韓国挺身隊問題対策協議会は慰安婦のことを考えるより、日本との喧嘩を望んでいるだけであった。」
最近のコメント